第39話 致命的に遠い「あと少し」
夜気は冷たく、王宮の白壁はすでに闇に沈みかけていた。
遠くで灯りが揺れている。
警備の松明か、ただの巡回か――判断する余裕はなかった。
リアンは足を止めなかった。
腕の中の重みだけが、世界の中心だった。
――まだ、遠くへ。
そう思う。
言葉にする前に、身体が先に結論を出していた。
ティアラの呼吸は浅い。
整えられたはずの精霊核が、完全に落ち着いていないのが分かる。
腕に伝わる重みは変わらず、力が戻ったとは言えなかった。
(この速度じゃ、いずれ追いつかれる)
視線を上げると、少し前を行くクラウスの背中があった。
足取りは静かで、迷いがない。
王宮からどれだけ離れたかを、感覚だけで測っている。
「徒歩じゃ、いずれ追いつかれる」
低く、短い声。
クラウスが振り返らずに言った。
リアンは一瞬だけ頷く。
言葉を交わす必要はなかった。
「追っ手が来る前に、距離を稼ぎたいところだが」
ルカが周囲を警戒しながら口を挟む。
声は抑えられているが、焦りは隠れていない。
リリスは何も言わず、耳を伏せたまま周囲の闇を見ていた。
獣人特有の感覚が、遠い気配を拾っているのだろう。
(時間は、そんなにない)
リアンは胸の奥でそう繰り返す。
王宮に残ったユラとレイヴンの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
――無駄にはできない。
「国境を越えよう」
その言葉は、思ったより静かに、だが迷いなく口をついて出た。
全員の視線が、リアンに集まる。
「アストラル王国の中にいる限り、追跡の手は伸びてくる。だが、国境を越えれば話は別だ」
ルカが眉をひそめる。
「ミストフォルン(獣人国)か?」
リアンは頷いた。
「向こうに入れば、すぐには追ってこられない。
少なくとも、今夜のうちに捕まることはなくなる」
それは事実だった。
だが、それが全てではない。
(……迷いの森)
王家封蔵庫で知った名が、胸の奥で静かに重みを持つ。
元精霊王。
答えに近い場所。
そのことは、まだ言わない。
今ここで必要なのは、理由の全てじゃない。
生き延びるための方向だけだ。
「ティアラも、すぐに休ませられる」
その一言で、場の空気が変わった。
リリスがリアンの腕の中を一度だけ見て、短く息を吐く。
「……異論はない」
クラウスもそれ以上は問わなかった。
視線だけで、リアンの決意を理解している。
「じゃあ決まりだな」
ルカが小さく肩をすくめる。
「まずは、ここを離れる。話はそれからだ」
その直後、クラウスが顎で前方を示した。
「馬車がある」
暗がりの中、外縁路に一台、静かに待機している影が見えた。
人の気配はない。
(……助かった)
胸の奥で、短くそう思う。
だが、立ち止まる理由にはならない。
腕の中で、ティアラが微かに身じろぎした。
その重みを、リアンは無意識に抱き直す。
――必ず、連れて行く。
どこへ向かうことになるとしても。
クラウスが手綱を取り、音を立てずに馬を動かす。
闇の中で、馬車は静かに進み始めた。
王宮の灯りが、ゆっくりと遠ざかっていく。
リアンは振り返らなかった。
◆
夜が明けるまで、クラウスは馬車を走らせ続けた。
速度を落とすことなく、ただ前へ。
馬車の奥、リアンは座席に背を預けていた。
その肩に、ティアラが寄りかかるようにして眠っている。
体温と重みが、確かにそこにあった。
呼吸は穏やかだ。
浅さは残っているが――眠れている。
(……少しは、休めている)
リアンは身じろぎしないよう、身体を支えたまま窓の外を見る。
夜の色は薄れ、空の端が白み始めていた。
向かいの座席には、ルカとリリスが並んで座っている。
ルカは肘を膝に乗せ、組んだ指に視線を落としていた。
目を閉じることはなく、静かに呼吸を整えている。
落ち着いているように見えて、その肩口にはわずかな強張りがあった。
リリスは、一度も眠っていなかった。
耳を伏せたまま、時折、微かに動かしている。
外の気配を探るため――それだけではない。
視線が、何度もリアンの腕の中へと向かう。
ティアラが、リアンに寄りかかって眠っている姿。
リリスはそれを見て、何度も目を逸らした。
胸の奥に、言葉にならない感情が残る。
そのとき――
馬車が、急に加速した。
車輪が地面を噛み、荷台が大きく跳ねた。
身体が座席から浮き、すぐに叩き戻される。
ルカが顔を上げ、リリスの耳がぴくりと立った。
リアンは、即座に窓の外を見る。
後方。
一本道の先から、馬車が迫ってきていた。
速い。
異様なほどに。
(……追ってきている?)
距離が、目に見えて縮まってくる。
一息ごとに、逃げ場が削られていく。
こちらも速度を上げているはずなのに、差は埋まらない。
御者台から、クラウスの気配が張り詰めたのが伝わった。
手綱が強く引かれ、馬がさらに脚を伸ばす。
それでも、追ってくる馬車は減速しない。
腕の中で、ティアラが微かに動いた。
半分だけ目を開き、状況を確かめるように外へ視線を向ける。
リアンは無意識に、ティアラを抱き寄せた。
窓の外では、朝の光が地平線を染め始めている。
霧の向こうに、国境線が見え始めていた。
(あと少し……)
だが、その「少し」が、致命的に遠い。
息を詰めても、距離は縮まらなかった。
後方から迫る馬車の影が、もはや見失いようのない距離まで来ていた。
クラウスの低い声が、風に混じって届いた。
「……追いつかれる」
次の瞬間、馬車の影が、はっきりと視界に入った。




