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第2話 ざわめく結界 見えざるものの呼吸

 エルフィナが屋敷を発ってから、二日が経っていた。

 昼下がりのアルシェ家には、穏やかな風が流れていた。

 中庭を渡る陽光は柔らかく、屋敷はいつもと変わらぬ静けさに包まれている――


 はずだった。


 ふと、空気の層がひとつだけ乱れたように感じた。

 微かなざわめきが、風と混ざり合って耳の奥を掠める。


 リアンは足を止め、無意識に周囲へ視線を巡らせた。


「……狼の影が近くに出たらしい」


 クラウスの低い声に、リリスの耳がぴんと立った。

 アルバートが外出前の三人に短く告げた知らせだった。


「森の端を確認してほしい。念のために」


 その「念のため」という言葉が、リアンの感覚に小さな波紋を落とした。


 ユラは裏口に待機しながら、珍しく周囲へ視線を巡らせていた。


「リアン様。森の結界がわずかに揺らいでいます。……本来、揺らぐはずのない強度です」


 小声だったが、そのわずかな言葉が空気を冷やす。


 リアンは静かに息を吸った。


「確認してくるよ。ユラ、屋敷は任せる」


「はい。……お気をつけて」


 ユラの瞳はいつもと変わらず冷静なのに、その奥に一瞬だけ、鋭く光るものがあった。


 三人が森へ足を踏み入れた瞬間、空気は一変する。


 ざわり、と梢が揺れた。

 風ではない。

 まるで“何かが通った跡”のような、微かな波動。


 リリスが肩を震わせた。


「……クラウスお兄様、リアンお兄様、何か……います。狼だけじゃ、ない……」


クラウスの目が細くなる。


「気を抜くな。リアン、リリスを守れ」


 異変はまだ姿を見せていない。

 だが確かに何かが始まる気配だけが、静かに森を満たしていた。


 リアンは先を歩くリリスを追いながら、肩越しに小屋の方を振り返る。ユラは戸口に寄りかかり、いつもの柔らかい笑顔で手を振っていた。無駄のない動作、丁寧な所作、深藍色の髪を高い位置で結った姿は相変わらず落ち着いていて、どこか影のように静かだった。


「リアンお兄様、急ぎましょう。狼の獣影が、この先に集まっている気配があります」


 リリスが振り返る。細い狐耳がぴくりと動き、紫色の瞳が夕日の赤を受けて小さく揺れた。背丈はリアンの胸の少し上ほどの小柄な体躯。控えめな藤色の着物ワンピースが、彼女の慎ましさをそのまま形にしたようにひらりと揺れた。


 「待てって。先走るなよ、リリス」


 クラウスが苦笑混じりに言う。長めの青灰色の前髪を後ろへ流し、戦士らしい鋭さを纏った青年だ。鍛え上げられた体つきは、同じ年頃の青年より抜きん出ているのに、妹にはからきし弱い。


「クラウスお兄様は急いでってさっき言いました」


「いや、言ったけど! 俺の歩幅について来れるようにって意味で——」


「つまり、走れということです。クラウスお兄様はわがままです」


「なんでそうなる!?」


 小声でのやり取りが続き、声を殺しながらもクラウスだけが追い詰められていく様子に、リアンは思わず吹き出しそうになった。


「二人とも、あまり騒ぐな。相手に気づかれる」


 リアンがそう言うと、二人はぴたりと黙った。


 静寂が戻る。森の匂い、夕暮れの冷たい風、足元の落ち葉。氷と水の気配を持つリアンの内側には、深い泉のような静けさが広がっていた。少年の顔立ちは端正で、淡い白金の髪が風で揺れるたび、冷たく透明な青い瞳が森の暗がりをよく通した。


「……来る」


 リリスの耳がぴんと立つ。


 次の瞬間、木々の奥から大きな黒い影が一斉に飛び出した。牙を剥いた狼型の魔獣が三体。三つの赤い瞳が血のような輝きを宿している。


 魔獣たちは咆哮とともに襲いかかる。地面をえぐる爪音、風を裂く殺気。瞬く間に距離が詰まる。


「無刀・虚軌断」


 クラウスは低く呟くと同時に剣を握り直した。光も風切り音もない。ただ空間が歪んだ。 それだけで魔獣の一体が崩れるように倒れた。

 斬られた事にすら気づけない“結果だけ”の斬撃。


 リリスは白銀の尻尾を揺らし、指先で空気を払う。薄桃色の光が花弁のように舞い、透明な膜が彼女を包み飛び散る殺気を柔らかく弾いた。


 リアンは静かに息を整え、魔獣の勢いに合わせて足を踏み出す。

 蒼い光が指先に集まり、森の水分が震えた。

 言葉を選ぶより先に、力が流れ出た。


「水よ、形を忘れ、氷よ、鎖となれ。

 氷鎖クリスタルバインド!」


 氷鎖が走り、一体の魔獣の四肢を絡め取る。締め上げられた瞬間、凍りついた悲鳴が夕暮れに散った。


「さすが……リアン」


 クラウスの声には驚きより誇りがあった。


 だが残る一体は、怒りに狂いリリスへ飛びかかる。


 「来ないで!霞隠ノ舞」


 リリスの姿が霧へととける。

 魔獣の牙は空を噛み、彼女は背後に現れると同時に尻尾を鋭く硬化させ、魔獣の背を切り裂いた。


 それでも魔獣は執念深く振り返り、再び跳びかかる。

 瞬間、クラウスが一歩前に出た。彼の周囲の空気が静まり返る。


「触れるな。これは俺の領域だ。」


 淡い光が広がり、《零界封結》が展開される。魔獣の爪は結界に触れた瞬間、力を奪われたように失速した。


 そこへリリスが追撃に回る。

 狐火をまとった小柄な身体が一閃。紅い軌道が魔獣を焼き裂いた。


「クラウスお兄様、ありがとうございます……でも、少し怖かったです」


 リリスが袖口を握りしめる。震えはわずか。けれど、彼女の小さな身体は本音を隠せない。


 クラウスは照れくさそうに、妹の頭に手を置いた。


「怖がらせて悪かった。でも大丈夫だ。俺がいる」


「……はい、クラウスお兄様」


 二人のやり取りは、戦いの直後でもどこか温かかった。


 リアンはふと小さく息を吐く。


 三人の関係が、穏やかで、当たり前のものであるほど——


 この静けさが壊れる予感が胸の奥で微かに疼く。


 その時、森の奥から風が吹き抜けた。

 冷たく、澄んだ気配。水でも氷でもない。

 もっと柔らかくて、透明で、……懐かしいような。


 「……光の気配?」


 リアンの青い瞳が奥へと向く。


 その時だった。


 森の奥から、ひとすじの風がすり抜けた。

 狼の血の匂いを洗い流すような、冷たく澄んだ気配。


 だがそれは、水でも氷でもない。

 もっと柔らかくて、透明で、まるで光の息吹そのもののようだった。


 リアンは足を止め、その気配の方へと静かに視線を向ける。


 梢の隙間で、薄い光が揺れた。


 最初は霧の粒かと思った。

 だが、光はゆっくりと形を帯びていく。


 花びらが舞うような微光が漂い、

 その中心に――少女の輪郭が現れた。


 銀の髪が夜明けのように淡く輝き、

 毛先は紫の光を帯びて揺れ、森の闇をやわらかく照らしている。


 まるで森そのものが呼吸しながら、

 少女を包んでいるようだった。


 白と薄紫の衣が光を受けて淡く揺らぎ、

 精霊布の粒子が光の花のように散っていく。


 その姿は、

 この森には存在しないはずの “異質で美しい静けさ” をまとっていた。


 少女は弱く揺れながら、こちらに背を向け――

 ふっと、膝から崩れ落ちた。


「誰かっ……!」


 リアンは駆け寄り、腕を伸ばす。

 落ちてくる小さな身体を抱きとめた瞬間、微光の粒がふわりと宙に舞い上がった。


 抱き上げた少女は、桜色の息を震わせるように、薄く瞼を開く。


 澄んだ紫の瞳が、かすかに揺れてリアンを映した。


 ――綺麗だった。


 光と影の合間に咲いたようなその瞳は、幼さと気高さを同時に宿している。

 微かに色づく頬、花のように柔らかい唇。

 精霊の守りを纏ったような、透明な白い肌。


「……精霊、なのか……?」


 思わず漏れたリアンの声に、少女の唇が、震えるように動いた。


「……たす……け……て……」


 その言葉はあまりに弱く、けれど、触れれば消えてしまいそうなほど綺麗だった。


 リアンは少女の体温が腕に伝わるのを感じた。

 そして、胸の奥で、静かに何かが灯る。


 世界の沈黙が、一度だけ震えたようだった。



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