第3話 精霊王族の目覚め
扉が静かに開いた。
廊下から柔らかな光が差し込み、ひとつの影がゆっくりと浮かぶ。
黒い外套に銀の刺繍。
深い青の瞳は穏やかでありながら、刃のような鋭さを宿していた。
アルバート・アルシェ。
「……戻っていたのだな、リアン。クラウス。それにリリスも」
低く響く声が屋敷の空気を引き締める。リリスは思わず姿勢を正し、九つに増えかけた尾の気配を慌てて抑えた。
「お……お帰りなさいませ、お父様」
「ただいま、リリス。尾が膨らんでいるぞ。驚かせたか?」
「い、いえ……少し緊張しただけです」
頬を染めてもじもじするリリスを、クラウスが肩をすくめて見守る。
「父上、見ての通りです。今日のリリスはずっと緊張しっぱなしで」
「クラウスお兄様っ! 余計なことを……!」
アルバートは微笑む。リリスの耳まで赤く染まり、リアンの胸の奥も、そっと温かさに包まれた。
アルバートはリアンの肩に手を置いた。
「……無事で何よりだ、三人とも」
その声は、短くも深い安堵を含んでいた。
「父上……森で、この少女を保護しました」
アルバートの視線がベッドの少女へ向く。
一歩近づくと、少女の胸元で光が淡く揺れ、宙で迷うようにふわりと舞う。光は、まっすぐリアンの手元へ寄り添い、手のひらで淡く脈打った。
「……精霊の光か?」
ユラが低く緊張して囁く。
アルバートは少女の脈に指を触れ、瞼の色を確かめるように観察した後、静かに息をついた。
「これは……精霊王国ルミナシアの“庇護光”だ。本来、人に宿る量ではない」
クラウスが目を見開く。
「やはり精霊混血……ですか?」
「いいや、クラウス。これは……もっと深い。普通の混血種ではあり得ん」
アルバートの瞳がわずかに細くなる。鋭くも、どこか哀しみを帯びた光。
リアンは息を飲んだ。
「父上……彼女はいったい……?」
アルバートは答えず、ユラへ視線を向ける。
「ユラ、外の気配は?」
「――完全ではありません。森の向こうに“気配を断ち切られた影”が二つ。残滓だけが残っています」
「なるほど……夜織の痕かもしれん」
クラウスの瞳が一瞬、大きく見開かれる。
ユラが低く囁く。
「『夜織』――王直属の影。名を口にするだけで、貴族ですら声を潜める存在です。 」
屋敷の外壁に張られた結界が、わずかに軋んだ。
クラウスは自然と息を飲む。
アルバートは少女に視線を戻し、長い沈黙の後、ゆっくり告げる。
「――この子を保護する。お前達が助けた命だ。最後まで守る覚悟はあるか?」
リアンの胸に確かな熱が灯る。
「……もちろんです」
迷いのない決意。リリスがそっとリアンの袖をつかむ。
「……わたしも、です。リアンお兄様が守りたいなら、わたしも一緒に」
クラウスが苦笑まじりに肩をすくめる。
「そうなるな。父上も良いと言っている。……この家全員で守る」
アルバートは三人を見つめ、静かに頷いた。
そのとき——
眠っていた少女の指がわずかに動く。光は宙で揺れながら、リアンの方へゆっくり寄り添う。手元で淡く脈打ち、微かに温もりを帯びていた。
ユラが目を細める。
「……リアン様にだけ、反応している……?」
リアンは息を飲む。光は離れず、まるで帰る場所を見つけたかのように淡く脈打った。
淡い光の周囲に、微かな声が漏れる。
「……ティ……ア……」
リアンは息をのむ。
「名前……?」
少女の長い睫が震え、少しずつ瞼が開く。ラベンダーの髪がふわりと揺れ、澄んだ紫の瞳が淡く光を帯びた。
――瞳の奥で光が集まり、淡い紋様のようなものが一瞬揺らめく。それは形を成す前にほどけ、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。光の粒が彼女の周囲で舞う。
アルバートは、まるで何かを確信したかのように目を閉じた。
「……やはり。王族の血だ」
リアンの心臓が跳ねた。
――王族。
その響きは、祝福ではなく“災厄”のように落ちた。
医務室は、凍りついたように静まり返る。
眠る少女の胸元で、淡い光がかすかに脈打つ。
まるでその言葉に応えるように。
そしてその沈黙の中で、
少女の睫毛が、わずかに震えた。
◆
少女の瞼が完全に開くまで、ほんの短い間があった。
医務室は、言葉を失ったように静まり返っていた。
光の揺らぎの中で、少女は一瞬だけこちらを見つめる。
視線は揺れ、焦点は定まらない。
それでも、何かを求めるように、確かに人を探していた。
リアンは、考えるより先に、そっと手を差し出していた。
「……大丈夫。もう追われていない。ここは安全だ」
少女の指先が触れた瞬間、淡い光がリアンの掌に柔らかく広がった。
かすれるような、ほとんど囁きにも満たない声で、彼女は名を落とす。
「……ティアラ……」
少女の唇が震え、かすかな声が漏れる。
「……湖……影……来る……!」
言葉は途切れ、身体から力が抜ける。呼吸は安定していたが、魔力の消耗は深いようだった。
ユラが少女の状態を確認し、静かに頷く。指先は治癒ではなく、“危険の残滓”を探るようだった。
「……大丈夫です。急激な魔力反動が引いただけ。眠らせておけば回復します」
アルバートは少女――ティアラ――を見つめ、低く呟く。
「精霊王族の血……失われたはずの系譜だ」
クラウスが目を細める。
「それなら……追っていた影は、やはり――」
「王都内部の者の可能性が高い」
王が動いた――。
それほどの価値が、この少女にあるということか。
アルバートの声に揺るぎはない。
「理由はまだ分からぬ。だが――しばらくはこの屋敷で匿う」
リアンの胸に、あの森で抱き上げた瞬間の衝動が蘇る。
リリスはベッドの横に小さく座り、毛布を引き寄せて眠るティアラの肩にそっと掛け、乱れた髪を指先で整える。
「……綺麗な髪……リアンお兄様、この子、ほんとに精霊みたい……」
「本当にそうだな」
アルバートは家族三人を見回し、穏やかに口を開く。
「……リアン。しばらくは、彼女の傍にいなさい。彼女は“選んだ”ようだ」
「選んだ……?」
アルバートはリアンの掌を見る。微かな光の粒が、まだ揺れている。
「精霊王族の子は……強い結びを、無意識に選ぶ。
彼女にとってのお前が、それだ」
リアンの胸に、説明のつかない重みが落ちた。
アルバートはわずかに視線を伏せる。
「……その結びは、軽いものではない」
「……それって……」
「今は知らなくていい。傍にいること、それだけで十分だ」
短く区切ってから、静かに続ける。
「だが――その責任は重い」
アルバートは優しく、しかし真っ直ぐに告げる。
「お前ならできる。お前は――その光を背負って生まれた子だ」
ティアラの呼吸は穏やかで、瞳は再び眠りの中へ沈む。
クラウスが大きく息を吐き、腕を組む。
「さて……問題は、王都の連中がここまで追ってきた理由だな」
「おそらく捕縛が目的でしょう」
ユラが静かに言葉を継ぐ。
沈黙が落ちる。
リリスは尾をすぼめ、小さくつぶやいた。
「な、なんで……こんな可愛い子を……」
誰も、すぐには答えなかった。
アルバートの視線がわずかに伏せられる。
リアンは眠るティアラの手をそっと握った。
小さく繊細な手。その温もりは、かすかに震えていた。
「……大丈夫だ。俺が、守る」
その言葉に応えるように、ティアラの指がほんのわずか、リアンの手を握り返した。
ユラは瞳を細める。
「……リアン様。あなたが傍にいると、彼女の魔力の流れが安定します。不思議なほどに、ですが、自然な安定ではありません」
アルバートの瞳が、眠るティアラに向けられる。
「……やはり、か」
それ以上は何も言わない。
だがその声音には、確信と、わずかな懸念が滲んでいた。
ティアラは再び静かな眠りへと沈む。
外の湖から夜風がわずかに光を運ぶ。
その輝きは、ただ守られるためのものではなかった。
それは――リアンの手の中で、確かに応えた。
まだ、誰も知らない。
王都の深部で、すでに歯車が静かに軋み始めていることを。
そしてこの小さな選択が、王と精霊――二つの国が絶対と信じてきた“理”に、最初の亀裂を刻むことになるとは――
まだ、誰も知らない。




