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第35話 まだ、間に合う

 王宮の白壁を視界に捉えた、その瞬間。

 リアンの視界の奥に、かすかな滲みが走った。

 光が、尾を引くように揺れ、すぐに収束する。

 瞬きをひとつ。

 異変は、それきりだった。


(……今のは)


 理由を探る前に、リアンは視線を前へ戻した。

 足は、止まらなかった。


 王宮の白壁が、目前に迫っていた。

 高くそびえる門は閉ざされ、近衛兵の姿もない。

 だが、内部に人の気配がないとは思えなかった。


 リアンは、足を止める。


 そのとき――

 門前の石畳を、落ち着きなく行き来する小さな影が視界に入った。


 白銀の髪。

 揺れる狐耳。

 リリスだった。


 王宮の正面から少し離れた場所で、門を見上げては首を振り、数歩進んでは立ち止まる。

 不安をそのまま形にしたような動きだった。

 こちらに気づいたのは、ほんの偶然だったのだろう。

 視線が合った瞬間、リリスの表情がはっと変わる。

 次の瞬間、彼女は駆け出していた。


「リアンお兄様、クラウスお兄様!」


 呼びながら近づいてくるその声は、わずかに震えている。

 リアンの前で足を止めたリリスは、息を整える間もなく、二人を見上げた。


「……無事で、よかったです。リアンお兄様も、クラウスお兄様も」


 その言葉に、心からの安堵が滲んでいた。


「リリス、来てたのか」


 クラウスが目を見開く。


「はい、クラウスお兄様。心配で……じっとしていられませんでした」


 そう答えながら、リリスはリアンへと視線を移す。

 その頬に――

 細く、だがはっきりと分かる傷があった。

 白い肌を掠めるように残った赤。


 リアンは、無言のまま手を伸ばす。

 指先が、そっとその頬に触れた。

 ぴくり、とリリスの肩が跳ねる。

 驚いたように目を見開き、次いで、耳の先まで赤く染まっていく。

 思わず息を詰めたその反応に、リアンの指がわずかに止まる。


(……怪我をしている)


 触れた感触は、浅い。

 だが、守られるはずだった場所に残された痕だ。


「痛くないか」


 低く、静かな声だった。


「だ、大丈夫です」


 リリスは慌てて首を振る。


「少し、擦っただけですから……」


 その様子を横で見ていたクラウスが、肩をすくめる。


「まったく。女の子が顔に傷なんて作って、嫁にいけなくなったらどうするんだ」


「ク、クラウスお兄様……」


 リリスは一瞬言葉に詰まり、次の瞬間、頬をぷくりと膨らませた。

 視線を逸らしたまま、わずかに眉を寄せる。

 拗ねたような、抗議の仕草だった。


 そのやり取りを、ルカは黙って見ていた。

 視線が、リアンの指先にわずかに留まる。

 何か言いかけるが、言葉にはしない。

 小さく息を吐く。

 それから、口を開いた。


「……そろそろ、その子の紹介をしてくれないかな」


 穏やかな声だったが、場を整える意図が滲んでいた。

 リアンは、リリスから視線を外し、ルカを見る。

 そして、短く息を吐いた。


 クラウスが、気負いのない様子で口を開いた。


「この子はリリスだ」


 短く、それだけ告げる。


 リリスは、その言葉に合わせるように、ぺこりと頭を下げた。


「おはつにお目にかかります。リリスです」


 少し硬い声だったが、礼儀は正しい。

 その仕草に、狐耳が小さく揺れる。


 クラウスは続けて、さらりと言った。


「俺と、リアンの妹だ」


 その一言を聞いた瞬間。

 ルカの表情から、わずかに力が抜けた。

 胸の奥に残っていた、先ほどの違和感が、静かに引いていく。

 理由を言葉にするほどではないが、確かに、安堵に近い感覚だった。


「……そうなんだ」


 ルカは小さく頷き、リリスに向き直る。


「僕は、第三王子のルカだよ。よろしくね」


 肩書きを口にしながらも、声は柔らかい。

 リリスは一瞬だけ目を見開き、それから、もう一度きちんと頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 その様子を見ながら、リアンは無意識に視界を確かめていた。

 色も、距離も、歪みはない。

 先ほど感じた違和感は、もう表には出てこない。


(……今は、問題ない)


 そう結論づける。


 クラウスが、門へと視線を向けた。


「じゃあ、行くか」


 ルカが一歩、前に出る。

 それだけで、王宮の空気が変わった。

 何も告げていない。

 だが、白銀の双扉に刻まれた光の紋章が、淡く反応する。

 外壁を走る魔力線が、脈打つように輝いた。

 重厚な音もなく、双扉は静かに開いていく。

 柔らかな光が、内側から流れ出した。

 そこに、誰かが立ちはだかることはない。

 無言の許可。


 リアンは、その光の中へ足を踏み出した。

 白い床が、鏡のように光を返す。

 一歩ごとに、足音が静かに響く。

 天井の高みから、降り注ぐような光。

 人の気配はある。

 だが、温度はない。

 神聖で、冷たく、感情を拒むような気配。


(……息が詰まる)


 足を踏み入れた瞬間に、そう感じた。

 知らないはずの場所なのに、ここでは感情が許されない――そんな空気だけが、はっきりと伝わってくる。


 ただ――

 視界の奥で、光がわずかに重なって見えた。

 気づけば消えるほどの、微かな層。

 リアンは、それを無視して歩き続ける。

 今、立ち止まる理由はなかった。



 静養室の扉を開けた、その瞬間。

 胸の奥を、鋭い痛みが走った。

 理由を考える前に、呼吸が浅くなる。


 白を基調とした室内は、王宮の他の空間と変わらない造りのはずだった。

 だが、光は落とされ、薄闇が静かに滞っている。

 視線が、自然と奥へ向かう。

 天蓋てんがい付きの寝台。

 その上に、ティアラが横たわっていた。


 青白い顔色。

 唇には、ほとんど血の気がない。

 ネヴァリス山脈へ向かう前よりも、明らかに状態が悪い。


(……間に合ってくれ)


 その祈りに近い思考を、言葉にすることはなかった。


 ティアラのベッド脇に置かれた椅子に、ユラは腰掛けていた。

 微かな物音に顔を上げる。

 リアンとクラウスの姿を認め、静かに立ち上がった。

 

「皆さん、ご無事で何よりです」


 安堵を含んだ声音だった。


 窓際に立っていたレイヴンも、外へ向けていた視線をこちらへ移す。

 何も言わない。

 ただ、静かに状況を見極める眼差しだった。


「留守、守ってくれて助かった」


 クラウスが短く言う。


 その言葉だけで、ユラの胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。


 ユラは、視線を少し下げ、リリスに気づいた。


「……リリス様。

こちらに……来られていたんですね。傷、残らないといいのですが」


 状況を理解したうえでの、静かな気遣いだった。


 リリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 それは礼というより、気遣いに近い仕草だった。


 リアンは、もう周囲を見ていなかった。

 無言のまま、寝台へ近づく。

 寝台の端に腰を下ろし、そっと腕を回す。

 ティアラの背中に片手を添え、身体を少しだけ起こした。

 力を入れすぎない。

 呼吸を乱さない高さで。

 腕の中の体は、驚くほど軽かった。


(……どうか、手遅れではありませんように)


 そのまま、掌を返す。

 リアンの掌に、赤が滲んだ。

 血は重さを持たず、滴り落ちることもない。

 脈の名残を宿したまま、淡く震え、形をほどいていく。

 次第に、重さが失われていく。

 光を孕んだ赤が、静かに浮かび上がった。


 クラウスが、思わず息を呑む。

 冗談めいた余裕は消え、その目が見開かれていた。


 リリスは、小さく肩を震わせる。

 何が起きているのか分からない。

 それでも、目を逸らすことができなかった。


 レイヴンは、何も言わない。

 ただ、指先がわずかに跳ねた。

 糸を引くこともなく、散ることもなく、ひとつの流れとして整えられ、空気の中を進む。

 呼ばれているのは、迷いようのない場所だった。

 ティアラの胸元。

 精霊核の位置で、微かな光が脈を打つ。


 窓際のレイヴンが、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。

 触れ合った瞬間、赤は抵抗を失い、音もなく溶け込んでいく。

 吸い込まれるというより、本来あるべき循環へと、戻っていくように。


 何も崩れない。

 何も乱れない。

 だが――

 理の綻びが、確かに応じた。


 ルカは、思わず息を詰める。

 視線は、ティアラではなく、リアンに向いていた。

 唇がわずかに動く。

 だが、声にはならない。


 ユラが、目を見開く。


「……ドラゴンの血を、手に入れられたのですね」


 驚愕と、理解が同時に滲んだ声だった。


 ティアラの胸元で、淡い光が広がっていく。

 ひび割れていた精霊核が、内側から縫い合わされるように、ゆっくりと形を取り戻していく。


「精霊核が……修復されています」


 ユラの言葉は、確信に満ちていた。


 光は、焦らず、乱れず、確実に広がる。

 欠けていた部分が埋まり、歪みがほどけていく。


 リアンは、ただ見つめていた。


(……目を覚ましてくれ。)


 願いは、それだけだった。

 やがて。

 光が、静かに落ち着く。

 精霊核に走っていた最後のひびが、完全に消えた。


 その直後。

 胸を締めつけていた痛みが、すっと遠のいていく。

 理由を考える余裕もなく、ただ呼吸が、少しだけ楽になった。


 腕の中の体に、微かな温もりが戻ってくる。

 ティアラの頬から、青白さが引いていった。

 長い睫毛が、かすかに震えた。

 閉じられていた瞼の奥で、光が戻る。

 それは強い輝きではない。

 夜明け前の空が、ゆっくりと色を取り戻すような、静かな兆しだった。

 銀の髪が、淡く揺れる。

 紫へと溶ける毛先が、わずかに光を帯びた。

 ――そして。

 瞼が、ほんの少しだけ持ち上がる。

 覗いたのは、澄んだ紫。

 焦点を結ばないまま、それでも確かに、世界を映し始めた瞳。


(……よかった)


 リアンは、それ以上、何も考えられなかった。

 生きている。

 ただ、それだけが、胸に満ちていた。








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