第36話 違う色の光
静養室に、控えめなノックの音が響いた。
――コン、コン。
その音に、空気が一瞬で張り詰める。
リリスが肩を跳ねさせ、クラウスが即座に表情を引き締めた。
レイヴンだけが、わずかに視線を上げただけで、何も言わない。
──誰か来た
リアンは反射的に動いていた。
ティアラの体を引き寄せ、腕に抱え込む。
ティアラは一瞬、息を呑んだ。
だが次の瞬間には、リアンの胸元に顔を寄せ、静かに身を預けていた。
その様子を一瞥し、クラウスが低く囁いた。
「レイヴン。転移魔法を」
短い言葉だった。
レイヴンは、無言で頷く。
次の瞬間、淡い光が彼の足元から広がった。
詠唱はない。
ただ静かに、魔力だけが解き放たれる。
だがその直前――視線が、ひとつの存在を捉えた。
ティアラ。
光に包まれながら、
まっすぐレイヴンを見ていた。
怯えでも、縋りでもない。
ただ。
澄みきった感謝だけが、そこにあった。
「……ありがとう」
小さな声だった。
けれど、確かに届いた。
その瞬間。
──笑った。
そう錯覚するほど、レイヴンの表情が、微かに緩む。
光が、視界を呑み込む。
次の瞬間。
冷気が、肌を刺した。
次に立っていたのは、石造りの換気塔だった。
風もなく、冷たさだけが沈んでいる。
誰も、喋らない。
冷たい息だけが、静かに落ちた。
腕の中の温もりが、消えていない。
浅い呼吸が、胸元に触れる。
リアンは、無意識に腕へ力を込めた。
――離すものか。
ようやく、
この腕に戻ってきたのに。
クラウスが、周囲を見回しながら低く言う。
「ここが換気塔か……。なるほどな」
ルカは、外へ続く開口部を見上げ、短く息を吐いた。
リリスは、リアンの腕の中のティアラを見つめたまま、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……ティアラ、大丈夫……?」
ティアラは、少しだけ視線を上げる。
その拍子に、頬をかすめる銀髪がわずかに揺れた。
「……うん」
その声に、リリスはほっとしたように胸を撫で下ろす。
リアンは、無意識に、冷えから守るように腕に力を込めた。
眼下では、王宮の灯りが静かに瞬いていた。
何も起きていないように。
――まだ、来ない。
だが。
来る。
クラウスが、わずかに口元を歪めた。
「まだ、逃げ切れたって顔はできないな」
「うん。ここからが本番だ」
ルカの声は落ち着いていたが、視線は鋭い。
「……行こう。外で、風を拾う」
換気塔に満ちた冷たい空気が、音もなく沈黙を深めていく。
──追ってくる。
必ず。
王は、絶対に諦めない。
それでも。
それでも今は、ティアラが、ここにいる。
奪われていない。
まだ。
換気塔の闇の中、五人は、次の動きに備え、静かに身を寄せ合っていた。
◆
――コン、コン。
二度目のノックが、静養室に控えめに響いた。
その音に、空気が張り詰める。
反射的に動いたのは、レイヴンだった。
言葉はない。
彼は静かに寝台へ近づき、迷いなくその上に身を横たえる。
ティアラが眠っていた位置。
同じ高さ、同じ向き。
布団を引き上げ、顔の輪郭が見えないよう、深く被せた。
淡い光が、わずかに揺れる。
膨らんだ寝具は、人ひとりがそこに横たわっているように、自然な形を作った。
ユラは一瞬、その行動に目を見張る。
だが、すぐに理解した。
表情を引き締め、何も言わずに視線を逸らす。
レイヴンは動かない。
呼吸の気配さえ、極力抑えている。
そこに“精霊が眠っている”――そう見せるために。
短い沈黙。
そして、ユラが静かに口を開いた。
「……どうぞ」
扉が、ゆっくりと開く。
きしむ音は、ほとんどしない。
入ってきたのは、マティアスだった。
室内に視線を走らせ、まず寝台へ向ける。
布団の膨らみ。
人の形を保ったまま、静かに横たわっている。
――その瞬間。
マティアスは、ほんの僅かに足を止めた。
寝台の奥。
布越しに、淡い光が脈打っている。
静かな光だった。
損傷した精霊核を抱え、
眠り続ける精霊らしい、
弱々しい輝き。
マティアスは、目を細める。
……問題はない。
そう判断するように、
静かに視線を切った。
「……代わりは、ありませんか?」
声は低く、事務的だった。
探るというより、形式的な確認に近い。
ユラは、即座に答える。
「ありません」
マティアスは、それ以上何も言わなかった。
小さく頷き、踵を返す。
扉は、来たときと同じように、静かに閉じられた。
足音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
静養室には、再び沈黙が戻った。
寝台の上で、レイヴンはまだ動かない。
精霊が、そこに眠っている――
そう“見える”状態を、最後まで保ったまま。
時間を稼ぐ。
それが、彼に選べる唯一の役割だった。
◆
王の謁見室――《アストレアの間》。
玉座の王は、動かない。
だが。
その指先が、わずかに動いた。
マティアスは、定められた位置で膝をついた。
「……精霊の様子は」
声は、空間そのものから響いたようだった。
感情の欠片も含まない、光の響き。
「静養室を確認いたしました」
マティアスは顔を上げない。
「精霊は寝台に横たえられております。意識は戻っておらず、状態に変化はありません」
王は、わずかに指を動かした。
「精霊核は」
「損傷したままです。 回復の兆候は、現時点では確認できておりません」
事実のみ。
推測も、憶測も交えない。
光の柱が、わずかに脈打つ。
王はしばらく言葉を発さず、静養室のある方角へ、ゆっくりと視線を向けた。
王の瞳が、わずかに細まる。
静養室の中の光。
そこに、ほんの僅かだが、異質な揺らぎが混じっている。
「……」
違和感は、ある。
だが、それはまだ、確信に至るほどではなかった。
「引き続き、監視を続けろ」
命令は、淡々と下される。
「異変があれば、即座に報告せよ」
「は」
マティアスは深く頭を下げた。
退室の許可が出る。
扉が閉じられたあとも、王は玉座から動かなかった。
静養室の方向を、なおも見据えたまま。
光が、違う。
ほんの僅かに。
――本来なら、
見過ごしてしまうほどに。




