第34話 まだ、間に合う
王宮の白壁を視界に捉えた、その瞬間。
リアンの視界が、わずかに揺れた。
瞬きをひとつ。
異変は、消えていた。
──今のは
理由を探る前に、リアンは視線を前へ戻した。
足は、止まらなかった。
王宮の白壁が、目前に迫っていた。
高くそびえる門は閉ざされ、近衛兵の姿もない。
だが、内部に人の気配がないとは思えなかった。
リアンは、足を止める。
そのとき――
門の前で、リリスが何度も立ち止まっていた。
狐耳だけが、落ち着きなく揺れている。
視線が合った瞬間、リリスの表情がはっと変わる。
次の瞬間、彼女は駆け出していた。
「リアンお兄様、クラウスお兄様!」
リアンの前で足を止めたリリスは、息を整える間もなく、二人を見上げた。
「……無事で、よかったです。リアンお兄様も、クラウスお兄様も」
「リリス、来てたのか」
クラウスが目を見開く。
「はい、クラウスお兄様。心配で……じっとしていられませんでした」
そう答えながら、リリスはリアンへと視線を移す。
頬に、細い傷が走っていた。
リアンは、無言のまま手を伸ばした。
指先が、そっと頬に触れる。
ぴくり、とリリスの肩が跳ねた。
白い肌に残る赤い傷を、
リアンの指はなぞるように触れたまま、離さない。
「痛くないか?」
低く、静かな声だった。
「だ、大丈夫です」
リリスは慌てて首を振る。
「少し、擦っただけですから……」
その様子を横で見ていたクラウスが、肩をすくめる。
「まったく。女の子が顔に傷なんて作って、嫁にいけなくなったらどうするんだ」
「ク、クラウスお兄様……」
「……私、お嫁になんて行きませんから」
小さく呟いて。
リリスは、ゆっくりリアンを見上げた。
「……ずっと、お側にいますから」
紫の瞳が、まっすぐリアンを映していた。
次の瞬間。
リリスは弾かれたように視線を逸らす。
狐耳の先まで、真っ赤だった。
そのやり取りを、ルカは黙って見ていた。
ルカの視線が、リアンの指先に止まった。
何かを飲み込むように、小さく息を吐く。
それから、口を開いた。
「……そろそろ、その子の紹介をしてくれないかな」
クラウスが、気負いのない様子で口を開いた。
「この子はリリスだ」
短く、それだけ告げる。
リリスは、その言葉に合わせるように、ぺこりと頭を下げた。
「おはつにお目にかかります。リリスです」
少し硬い声だったが、礼儀は正しい。
その仕草に、狐耳が小さく揺れる。
クラウスは続けて、さらりと言った。
「俺と、リアンの妹だ」
その瞬間。
ルカの肩から、わずかに力が抜けた。
――なんで、安心したんだろう。
ルカは小さく息を吐いた。
「……そうなんだ」
ルカは小さく頷き、リリスに向き直る。
「僕は、第三王子のルカだよ。よろしくね」
肩書きを口にしながらも、声は柔らかい。
リリスは一瞬だけ目を見開き、それから、もう一度きちんと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
リアンは、無意識に視界を確かめる。
歪みは、ない。
──今は、問題ない。
そう結論づける。
クラウスが、門へと視線を向けた。
「じゃあ、行くか」
ルカが一歩、前に出る。
白銀の双扉に刻まれた紋章が、
淡く脈打った。
次の瞬間。
重厚な門が、音もなく開いていく。
リアンは、その光の中へ足を踏み出した。
白い回廊に、足音だけが響く。
人の気配はある。
なのに、ひどく寒かった。
ただ――
視界の奥で、光がわずかに重なって見えた。
先ほどと同じ、現実の輪郭がずれるような違和感。
気づけば消えるほどの、微かな層。
リアンは、それを無視して歩き続ける。
今、立ち止まる理由はなかった。
◆
静養室の扉を開けた、その瞬間。
胸の奥を、鋭い痛みが走った。
理由を考えるより先に、呼吸が浅くなる。
薄闇の奥。
天蓋付きの寝台に、ティアラが横たわっていた。
青白い顔色。
唇には、ほとんど血の気がない。
ネヴァリス山脈へ向かう前よりも、明らかに状態が悪い。
──間に合ってくれ
その祈りに近い思考を、言葉にすることはなかった。
ティアラのベッド脇に置かれた椅子に、ユラは腰掛けていた。
微かな物音に顔を上げる。
リアンとクラウスの姿を認め、静かに立ち上がった。
「皆さん、ご無事で何よりです」
安堵を含んだ声音だった。
窓際に立っていたレイヴンも、外へ向けていた視線をこちらへ移す。
何も言わない。
ただ、静かに状況を見極める眼差しだった。
「留守、守ってくれて助かった」
クラウスが短く言う。
その言葉だけで、ユラの胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。
ユラは、視線を少し下げ、リリスに気づいた。
「……リリス様。こちらに……来られていたんですね。傷、残らないといいのですが」
リリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それは礼というより、気遣いに近い仕草だった。
リアンは、もう周囲を見ていなかった。
無言のまま、寝台へ近づく。
寝台の端に腰を下ろし、そっと腕を回す。
ティアラの背中に片手を添え、身体を少しだけ起こした。
腕の中の体は、驚くほど軽かった。
──まだ、間に合うはずだ。
そのまま、掌を返す。
リアンの掌に、赤が滲んだ。
血は落ちなかった。
淡く光を宿したまま、
意思を持つように宙へ浮かぶ。
クラウスが、思わず息を呑む。
冗談めいた余裕は消え、その目が見開かれていた。
リリスは、小さく肩を震わせる。
何が起きているのか分からない。
レイヴンは、何も言わない。
ただ、指先が、わずかに動いた。
赤は、音もなく宙へ浮かんだ。
導かれるように、ティアラの胸元へ流れていく。
精霊核の位置で、微かな光が脈を打つ。
窓際のレイヴンが、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。
ティアラに触れた瞬間、赤は抵抗を失い、音もなく溶け込んでいく。
吸い込まれるというより、本来あるべき循環へと、戻っていくように。
何も変わらない。
なのに。
世界のどこかが、軋んだ気がした。
クラウスの喉が、わずかに鳴った。
拳を握る。
白くなるほど、強く。
――頼む。
ルカは、リアンを見たまま、息を詰めていた。
ユラが、目を見開く。
「……ドラゴンの血を、手に入れられたのですね」
驚愕と、理解が同時に滲んだ声だった。
ティアラの胸元で、淡い光が脈打った。
ひび割れていた精霊核が、ゆっくりと閉じていく。
「精霊核が……修復されています」
ユラの言葉は、確信に満ちていた。
リアンは、ただ見つめていた。
──嫌だ。
失うのも、
何もできないのも。
嫌だった。
やがて。
光が、静かに落ち着く。
精霊核に走っていた最後のひびが、完全に消えた。
――その瞬間。
――光が、消えた。
呼吸が止まる。
世界から、音が消えた。
次の瞬間。
腕の中に、かすかな温もりが戻った。
止まっていた呼吸が、漏れる。
ティアラの頬から、青白さが引いていった。
長い睫毛が、かすかに震えた。
――ちゃんと、戻ってくる。
銀の髪が、淡く揺れる。
紫へと溶ける毛先が、わずかに光を帯びた。
――そして
瞼が、ほんのわずかに持ち上がる。
視線は、まだ定まらない。
それでも――
かすかに、リアンの方へ向く。
焦点の合わない瞳が、それでも、彼の方へ向く。
澄んだ紫が、リアンを映した。
――確かに、戻ってきた。
レイヴンは、その光景を見ていた。
眉は動かない。
呼吸も、乱れない。
だが――
わずかに、瞬きが遅れた。
──よかった
──戻ってきた
リアンは、それ以上、何も考えられなかった。
生きてる。
それだけで、よかった。




