第33話 蒼き竜との契約
静寂が、落ちた。
蒼の瞳が、リアンを捉えたまま、動かない。
リアンは、顎を引きかけ――
次の瞬間。
「待て」
鋭く割って入ったのは、クラウスだった。
半歩、前へ出る。
龍と、リアンの間に立つ。
「条件があるなら、俺が払う」
蒼の空間が、かすかに軋んだ。
「目だろ? そういう話なら――」
『違う』
低い声が、空間を断ち切った。
『お前ではない』
『そこの――青白い光を宿す少年だ』
その瞬間。
リアンの左腕を、両手で強く掴まれた。
ルカだった。
ルカの指が、食い込む。
「……リアン。だめッ」
リアンは、小さく首を振る。
そのまま、龍を見た。
龍の声が、重く落ちる。
『誤解するな』
『目を“奪う”と言った覚えはない』
水のないはずの空間に、見えない揺らぎが走る。
『私は、長いあいだ、ここに在り続けてきた』
『外を、知らぬまま』
巨大な胸奥で、低く、深い脈動が走る。
空洞が、わずかに震えた。
蒼の瞳が、リアンを映す。
『お前の目を通して、世界を見せてもらう』
──断る理由が、思いつかなかった。
リアンは、一歩、前に出た。
ルカの手が、驚いたように揺れ、指先が緩む。
「……受けます」
声は、静かだった。
クラウスが、ゆっくり息を吐く。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
龍は、ゆっくりと瞼を伏せる。
次の瞬間、空洞の奥で“何か”が、確かに定まった。
『――契約、成立だ』
蒼の瞳が、大きく開かれた。
深い水底のような光が、溢れる。
次の瞬間。
それは、リアンの瞳へ突き刺さった。
視界が、白に染まる。
──来る
全身を貫く、冷たい衝撃。
クラウスが、思わず目を見開く。
「リアン……!」
声は、途中で止まった。
クラウスの手が、止まる。
ルカが、反射的に手を離した。
逃げればよかったのかもしれない。
けれど。
リアンは、最初から逃げるつもりなんてなかった。
遅れて、視界が戻る。
「……リアン。大丈夫か?」
クラウスの声が、近くで響いた。
ルカも、不安を隠しきれないまま、顔を覗き込んでくる。
リアンは、答える前に、視線を落とした。
自分の両手を見る。
指先。
掌。
確かに、そこにある。
──何だ、この違和感は
距離感が、ずれた。
近いのか、遠いのか分からない。
瞬きをすると、戻る。
──戻った、はずだった。
リアンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……大丈夫」
声は、普段と変わらない。
ただ――
指先の感覚だけが、まだ自分のものじゃなかった。
◆
『約束のものを渡そう。――近くへ来い』
リアンは頷き、足を進めた。
巨大な竜の前に立つと、その存在感だけで、空気が重く沈む。
『恐れるな。身体に触れよ』
言葉と同時に、竜はわずかに首を垂れた。
蒼く透ける鱗が、淡い光を帯びている。
リアンは、静かに手を伸ばした。
『触れよ』
リアンは、迷わず鱗に手を当てた。
冷たい。
なのに、生きていた。
次の瞬間。
蒼い鱗の隙間から、赤が滲む。
血だった。
血が、指先に触れる。
溶けた。
境目もなく。
そのまま、リアンの中へ入り込んでくる。
拒絶感は、なかった。
背後で、クラウスが息を呑む。
ルカは一歩も動かず、ただその光景を見据えている。
竜は静かに頭を上げた。
蒼く透ける瞳が、リアンを映す。
そこに、感情らしい揺れはない。
だが、拒絶でもなかった。
空洞の奥で、低い脈動が一度だけ響く。
それを合図にするように、蒼の空間が、わずかに緩んだ。
◆
巨大な瞳が、ゆっくりと伏せられる。
空洞の一角が揺れた。
青白い光が、道になる。
リアンは、迷わず踏み出した。
すぐ背後で、足音が重なる。
三人は言葉を交わさない。
光の中へ踏み出す。
足裏の感触が、消えた。
振り返る。
もう、何もなかった。
前には、淡い光だけが続いている。
光の中を歩く。
何歩進んだのか、 もう分からなかった。
だが――
足裏の感触が、変わった。
次の瞬間、視界に色が流れ込む。
白と蒼だけだった世界に、色が戻る。
冷たい風が、頬を撫でた。
遅れて、音が追いついた。
風の音。
自分たちの吐息。
リアンは、静かに息を吐く。
足元には、確かな地面がある。
背後に、青白い光はない。
クラウスが周囲を一度だけ見渡し、短く息をついた。
「……戻ってきたな」
ルカは、何も言わず雪を踏んだ。
吐いた息だけが、白かった。
そこにあったのは――
ネヴァリス山脈の入口だった。
リアンは、無意識に視界を確かめる。
ちゃんと見えている。
それなのに。
世界の奥に、薄い層が一枚、重なっている気がした。
──まだ、終わっていない。
その感覚だけが、リアンの奥に残っていた。




