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禁忌の第七王子と精霊の少女─その恋は王国の理を覆す─  作者: 七天宮 凛


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第32話 沈黙の湖

 断崖の上で、風だけが動いていた。

 ――リアンが飛び込んでから、まだ数呼吸も経っていない。

 裂けた湖は、なお静かだった。

 水は左右に分かれたまま、崩れる気配もなく、奥へ続く青白い通路を抱え込んでいる。

 落ちたはずのリアンの姿は、確かにそこにあった。

 水の回廊の中央に、影となって立っている。

 崩れ落ちる様子は、ない。

 クラウスは、ゆっくりと息を吐いた。

 肺の奥に溜まっていたものを、無理に押し出すように。


「……生きてやがるな」


 独り言のような声だった。

 ルカは、ようやく視線を動かした。

 裂けた水の奥と、足元の断崖。その高低差を、何度も行き来する。

 怖さが、遅れてやってくる。

 足が、わずかにすくんだ。


「……あそこ、落ちたら……」


 言葉が、最後まで形にならなかった。

 クラウスは、湖を見据えたまま答える。


「落ちるんじゃない。進むだけだ」


 ルカは思わず、彼を見上げる。


「え……?」


「道ができてる。あいつが無事なら、俺たちも行ける」


 そう言いながらも、クラウスの視線は一瞬たりとも逸れない。

 水の奥から伝わってくる気配が、肌に刺さる。

 躊躇している時間は、なかった。

 ルカは、唇を引き結ぶ。


「……正直、怖い」


 小さく、しかしはっきりとした声だった。

 高所でも、水でもない。

 説明のつかないものへ近づくことへの、本能的な拒否。

 クラウスは、わずかに眉を上げた。


「だろうな」


 それだけ言って、肩をすくめる。


「じゃあ、こうするか」


 次の瞬間、ルカの視界が大きく揺れた。


「えっ——」


 声を上げるより早く、身体が浮く。

 クラウスが、迷いなくルカを抱き上げていた。

 片腕で背を支え、もう一方で膝裏をすくう。

 安定した、慣れた動作。


「な、なにを……!」


「離さない」


 低く落とされた声に、迷いはなかった。

 そのまま歩き出そうとして——

 クラウスの動きが、ほんのわずかに止まった。

 腕に伝わる重さが、想像より軽い。

 それだけではない。

 抱えた身体の線が、どこか細い。

 布越しでも分かるほど、骨格が華奢だった。

 理由の分からない違和感が、胸の奥を掠める。

 クラウスは、無意識に息を吐いた。

 その感覚を意識の外へ押しやるように、腕に力を込める。


「……しっかり掴まってろ」


 低く告げて、断崖の縁に立つ。

 眼下には、裂けた湖と、青白い道。

 奥で、リアンの影が、確かにこちらを向いている。

 ルカは、思わずクラウスの服を掴んだ。


「……離さないでよ」


「約束する」


 短く、即答だった。

 次の瞬間。

 クラウスは、地面を蹴った。

 風が、強く叩きつけてくる。

 視界が反転し、重力が身体を引く。

 だが、水は跳ねなかった。

 裂けた湖は、二人を拒まない。

 静かに、深く、落下を受け止める。

 青白い光の回廊が、再び揺れた。



 落下は、いつの間にか終わっていた。

 水の中にいるはずなのに、足は沈まず、身体は浮きもしない。

 音がない。

 流れも、揺れもない。

 水は、あまりにも静かだった。

 落下の感覚さえ、すでに失わせている。

 湖であるはずなのに、生き物の気配が、どこにも存在しない。

 魚影はおろか、微かな泡ひとつ立たない。

 水草も、藻も、命の名残を示すものが見当たらなかった。

 ただ、水だけが在る。

 それも、自然に溜まったものではない。

 何かを満たすために、意図的に留められているような――不自然な静止。

 耳を澄ましても、聞こえるのは自分たちの呼吸だけだった。

 湖は、沈黙しているのではない。

 最初から、何も許していないのだ。


 リアンは、胸の奥で、かすかな冷えを覚えた。


(……生き物が、住めないんじゃない)


(最初から、存在を拒んでいる)


 身体を包むはずの冷たさも、衝撃もない。

 青白い光に満ちた回廊の中で、二つの影が、静かに現れる。

 クラウスと、ルカだった。

 水は彼らを拒まず、押し返しもせず、ただ内部へと受け入れただけのように見えた。

 リアンは、足を止めたまま、二人を見る。

 確かに、無事だ。

 その事実が、胸の奥に落ちてくる。

 クラウスは、リアンの姿を一度だけ確かめた。

 傷がないことを確認するような、短い視線だった。

 それから、ようやく口を開く。


「……少しは考えてから動けよ」


 声は低い。

 怒気はないが、押し殺したものが混じっていた。

 水の回廊に反響することもなく、すぐに吸い取られていく。


「命がいくつあっても、足りない」


 叱責の形を借りた、確認だった。

 リアンは、視線を逸らさない。


「……ごめん」


 短く、それだけ答える。

 言い訳は、必要なかった。

 ルカが、その二人の間に、そっと言葉を挟む。


「でも……」


 二人を見比べてから、ルカは続けた。


「みんな、無事でよかったよ」


 胸元に手を当て、ようやく息を整える。

 声には、はっきりとした安堵が滲んでいた。

 張りつめていた肩が、わずかに下がる。

 その様子を見て、リアンは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。


(……通した、のか)


 湖が。

 あるいは――この場所そのものが。

 三人は、並んで立つ。

 視線の先には、裂けた水の奥へと続く回廊。

 進むほどに、光は薄くなっている。

 青白い輝きは、背後へ引いていくようで、前方は静かに暗さを深めていた。

 クラウスは、無意識に周囲を探るように目を走らせる。

 岩も、水も、壁もある。

 だが、それらは「ある」だけで、存在感を主張しない。

 気配だけが、確かに増していた。

 重く、深く、測れないもの。

 クラウスの表情が、わずかに引き締まる。

 リアンも、それを感じていた。

 胸の奥で、青白い光が、静かに反応している。

 鼓動に寄り添うように、淡く揺れながら。


(……近い)


 何かが、待っている。

 敵意でも、歓迎でもない。

 ただ、判断される場所が。

 一方で、ルカは、二人ほど強くは感じ取れていない。

 ただ、空気が変わったことだけは分かる。

 足音が、妙に遠い。

 自分たちの呼吸が、この空間に馴染んでいないような感覚。

 ルカは、無意識に、二人の背を追う。

 三人は、言葉を交わさぬまま、回廊を進んだ。

 進むほどに、光は減っていく。

 青白い道は、足元だけを照らす細い線になり、頭上は、ほとんど闇に近づいていった。

 水の壁の向こうは、完全な暗黒だ。

 どれほど深く潜っているのか、距離の感覚は失われている。

 そのとき。

 前方の闇の中に、ひとつだけ、光が浮かんだ。

 小さい。

 手のひらに収まるほどの、淡い輝き。

 揺らぎながら、しかし確かに、そこに存在している。

 光は、水でも、炎でもない。

 形を持たないまま、揺らいでいる。

 ただ、そこに在るという事実だけが、強く意識に残った。

 リアンは、足を止める。


(……試されている、わけじゃない)


 ただ、見られている。

 ここまで来た理由を。

 言葉と、在り方の、その両方を。

 小さな光は、何も語らない。

 だが、逃げることも、近づくこともせず、回廊の中央で、静かに待っていた。

 その背後には、さらに深い闇が口を開けている。

 岩の輪郭が、かろうじて浮かび上がる。

 洞窟だ。

 光を拒むほどに深く、奥行きを測れない空洞。

 小さな光は、その入口を塞ぐように、ただ、そこに在った。



 小さな光は、三人の前で、わずかに揺れた。

 先ほどまでとは、違う揺れだった。

 水の中であるはずなのに、波紋は広がらない。

 それでも、空間だけが、確かに変質していく。

 闇が、濃くなった。

 洞窟の奥から、何かが呼吸を始めたような圧が、じわりと押し寄せる。

 クラウスは、無意識に一歩、リアンの前へ出た。

 守るためというより、測るための動きだった。

 この光が、敵か否か。

 あるいは――それ以前の存在か。

 ルカは、喉を鳴らし、言葉を飲み込む。

 問いかけるべきだと、理性は告げている。

 だが、声を出すこと自体が、ここでは「選択」になる気がしてならなかった。

 小さな光が、再び揺れる。

 今度は、先ほどよりも、はっきりと。

 輪郭が、わずかに強まった。

 淡い輝きが、細い線となり、重なり、形を結び始める。

 首の流れ。

 胴の長さ。

 尾が、光の残滓を引きながら、ゆるやかに弧を描く。

 まだ小さい。

 まだ未完成だ。

 だが、それが「龍」であることは、疑いようがなかった。

 水が、初めて、微かに軋んだ。

 音とも言えない振動が、回廊に走る。

 リアンの胸の奥で、青白い光が、ひときわ強く脈打った。


(……呼ばれている)


 理由は分からない。

 意味も、目的も。

 ただ、この光が、己を見ていることだけは、確信できた。

 小さな龍は、首をもたげる。

 視線のようなものが、リアンに定まる。

 その瞬間、洞窟の闇が、わずかに後退した。

 奥に、何かが在る。

 形は見えない。

 だが、この回廊の先に、“まだ別の層がある”ことだけは、はっきりと分かった。

 小さな龍の光が、少しずつ、強さを増していく。

 未完成だった輪郭が、確かな形へと近づいていく。

 試すための存在から、判断する存在へ。

 その移行の、途中。

 言葉を待っている。

 この場に立つ理由を。

 通る資格を。

 リアンは、静かに息を吸った。

 逃げ場は、もうない。

 ここから先は――選ばれるか、拒まれるか。

 その境界に、小さな龍は、リアンの頭よりわずかに高い位置で、静かに浮かんでいた。


 回廊の奥に、何かが在る。

 形は見えない。

 大きさも、距離も、測れない。

 ただ、この場所が終点ではないことだけが、確かだった。

 小さな龍は、そこで静かに留まっている。

 先へ進む者を、選別するための存在として。









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