第32話 小さな龍と選ばれし道
小さな龍は、音もなく宙に留まっていた。
翼は揺れない。
それでも、視界の輪郭が歪む。
人の胸ほどしかない。
幼く、見えない。
小さな龍は、ゆるやかに首を巡らせる。
最後に、金の瞳がリアンで止まった。
その瞬間、胸の奥で、青白い光が、かすかに応えた。
――それで。
声は、耳ではなく、意識に落ちてきた。
『何を、求めて、ここへ来た』
リアンは、小さな龍を見返す。
それでも、金の瞳だけは澄み切っていた。
──嘘を吐けば、終わる。
息を吸う。
胸の奥だけが熱かった。
「ブルードラゴンの血を」
「もらいに来た」
空気が、変わる。
隣で、クラウスが息を止めた。
「……おい」
低い声。
「正直すぎるだろ」
ルカが、息を止める。
小さな龍は、黙っていた。
喉が、うまく息を通さなかった。
──見透かされる。
小さな龍が告げた。
『その血を』
静かな声音。
『何に、使う』
リアンは、視線を逸らさなかった。
ここに来たのは偶然じゃない。
飛び込んだのも、導かれたのも。
その先に立つのは、自分だ。
「救いたい命がある」
小さな龍の尾が、わずかに揺れる。
『命、か』
リアンは、続けた。
「そのために対価が必要なら――」
短く息を吸う。
「俺が、差し出せるものなら――すべてだ」
言った瞬間。
喉の奥が、焼けた。
空間が、静まった。
誰も、すぐには言葉を返せない。
ルカの指先が、わずかに震えた。
クラウスは、何も言わない。
ただ、リアンの横顔から視線を離さなかった。
小さな龍は、しばらく動かない。
やがて、ほんのわずかに高度を下げた。
『……よい』
それだけ。
許可でも、約束でもない。
次の瞬間。
青白い回廊の奥で、光が揺れた。
細い道が、浮かび上がる。
リアンは、無意識に息を止めた。
リアンは一歩、踏み出す。
足裏に、確かな感触があった。
クラウスとルカも、無言で続く。
三人分の気配だけが、静かな通路を進んでいく。
奥へ行くほど、空間は広がっていった。
息が、妙に楽だった。
やがて――
視界が、ひらけた。
思わず、足が止まる。
そこは、巨大な空洞だった。
天井は見えず、壁の輪郭も曖昧で、ただ蒼が満ちている。
水は、ない。
なのに、ここが湖の底だと、分かってしまった。
中央に――
それは、いた。
山のような胴体。
幾重にも重なる蒼の鱗は、光を宿し、ゆるやかに呼吸している。
長い首を折り、身体を丸めるようにして、眠っていた。
巨大な水の龍。
ブルードラゴン――アクエリオン。
威圧は、ない。
ただ―― そこに在った。
──見られている気が、する
まだ目は閉じられている。
それなのに。
この場に足を踏み入れた瞬間から、逃げ場はなかった。
リアンは、ゆっくりと近づく。
一歩、また一歩。
距離が縮まるにつれて、胸の奥の青白い光が、かすかに脈打ち始めた。
呼応している。
そのとき。
巨大な瞼が、わずかに動いた。
――ゆっくりと。
長い時を越えて、意識が浮上するように。
蒼の瞳が、開かれていく。
感情は、映らない。
それでも。
逃げられない。
巨大な龍の視線が、三人を包む。
ただ、すべてを見られていた。
蒼の瞳が、三人を捉えたまま、動かない。
言葉はない。
それでも、空間が応えているようだった。
そのとき、リアンの視界の端で、微かな光が揺れた。
振り返る。
通ってきたはずの通路の入り口――
そこに、あの小さな龍がいた。
宙に浮かび、静かにこちらを見ている。
大きさは、変わらない。
だが、今はもう、別の存在に見えた。
──違う
小さな龍の金の瞳が、かすかに細められる。
問いを投げていた眼ではない。
判断を終えた者の眼。
次の瞬間。
小さな龍の身体が、淡くほどけた。
光が、羽毛のように散る。
その光が、
巨大な龍の胸奥へ、吸い込まれていく。
──還った。
同時に。
巨大な龍の胸奥で、低く、深い脈動が走る。
空洞全体が、わずかに遅れて応えた。
水のないはずの空間に、見えない波紋が広がる。
ブルードラゴン、アクエリオン。
巨大な蒼の瞳が、リアンへと向けられる。
逃げ場のない静けさ。
拒絶は、なかった。
ただ、確かめるような――
いや。
すでに知っている者の眼だった。
──ここまで、見ていたのか
過去を問うでもなく。
未来を縛るでもなく。
ただ、この瞬間に立つ存在として、リアンを見ている。
小さな龍は、役目を終えた。
あとは、本体が応えるだけだ。
◆
巨大な蒼の龍が、静かに首を巡らせた。
洞窟を満たす圧が、三人を等しく包む。
龍の瞳が、リアンを捉える。
迷いなく。
逸れることなく。
『血は、渡そう』
低く、重い声が、空間に沈んだ。
クラウスが、はっと息を詰める。
ルカの視線が、反射的にリアンへ向いた。
『その代わりだ』
蒼白い光が、龍の眼窩で強まる。
次の言葉は、はっきりと告げられた。
『――お前の目を、もらおう』
クラウスが、息を止めた。
「……は?」
ルカの手が、リアンの袖を掴む。
掴む。
離さない。
リアンの視界が、ぐらりと揺れた。
龍の蒼い瞳だけが、動かない。
視線は、リアンだけを捉えていた。
『拒めば』
沈黙。
『お前は、終わる』
洞窟が、脈打った。




