第31話 沈黙の湖
断崖の上で、風だけが動いていた。
――リアンが飛び込んでから、まだ数呼吸も経っていない。
裂けた湖は、なお静かだった。
水は左右に裂けたまま、青白い通路を覗かせている。
その中央に、リアンは立っていた。
崩れ落ちる様子は、ない。
クラウスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……生きてやがるな」
独り言のような声だった。
ルカは、ようやく視線を動かした。
裂けた水の奥と、足元の断崖。
足が、わずかに竦んだ。
「……あそこ、落ちたら……」
言葉が、最後まで形にならなかった。
クラウスは、湖を見据えたまま答える。
「落ちるんじゃない。進むだけだ」
ルカは思わず、彼を見上げる。
「え……?」
「道ができてる。あいつが無事なら、俺たちも行ける」
ルカは、唇を引き結ぶ。
「……正直、怖い」
クラウスは、わずかに眉を上げた。
「だろうな」
それだけ言って、肩をすくめる。
「じゃあ、こうするか」
次の瞬間、ルカの視界が大きく揺れた。
「えっ——」
声を上げるより早く、身体が浮く。
クラウスが、迷いなくルカを抱き上げていた。
「な、なにを……!」
「離さない」
そのまま歩き出そうとして――
クラウスの動きが、ほんのわずかに止まった。
軽い。
違う。
思ったより、ずっと。
——柔らかい。
その瞬間。
落としたくない、と思った。
クラウスは、無意識に息を止めた。
……違う。
今、考えることじゃない。
前を向く。
「……しっかり掴まってろ」
低く告げて、断崖の縁に立つ。
眼下には、裂けた湖と、青白い道。
奥で、リアンの影が、確かにこちらを向いている。
ルカは、思わずクラウスの服を掴んだ。
「……離さないでよ」
ルカの白い指先が、視界に残る。
「約束する」
次の瞬間。
クラウスは、地面を蹴った。
風が、強く叩きつけてくる。
視界が反転し、重力が身体を引く。
だが、水は跳ねなかった。
裂けた湖は、二人を拒まない。
静かに、深く、落下を受け止める。
青白い光の回廊が、再び揺れた。
◆
落下は、いつの間にか終わっていた。
ルカは、息を呑む。
水の中にいるはずなのに、足は沈まず、身体も浮かない。
音がない。
流れもない。
泡ひとつ、浮いていなかった。
生き物の気配が、ひとつもない。
聞こえるのは、自分たちの呼吸だけだった。
青白い光に満ちた回廊の中で、リアンが静かにこちらを見ている。
無事だ。
一方で、リアンは胸の奥に、かすかな冷えを感じていた。
──生き物が、住めないんじゃない
──最初から、存在を拒んでいる
青白い光に満ちた回廊の中で、二つの影が、静かに現れる。
クラウスと、ルカだった。
リアンは、足を止めたまま、二人を見る。
確かに、無事だ。
その事実が、胸の奥に落ちてくる。
クラウスは、リアンの姿を一度だけ確かめた。
傷がないことを確認するような、短い視線だった。
それから、ようやく口を開く。
「……っ、お前な……」
そこで初めて、クラウスは息を吐いた。
「少しは考えてから動けよ」
その声は、水の回廊に反響することもなく、すぐに吸い取られていく。
「命がいくつあっても、足りない」
叱責の形を借りた、確認だった。
リアンは、視線を逸らさない。
「……ごめん」
短く、それだけ答える。
言い訳は、必要なかった。
ルカが、その二人の間に、そっと言葉を挟む。
「でも……」
二人を見比べてから、ルカは続けた。
「みんな、無事でよかったよ」
ルカは胸元に手を当て、ようやく息を整える。
その様子を見て、リアンは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
──通した、のか
湖が。
あるいは――この場所そのものが。
クラウスは、無意識に周囲を探るように目を走らせる。
重く、深く、測れないもの。
リアンも、それを感じていた。
胸の奥で、青白い光が、静かに反応している。
鼓動に寄り添うように、淡く揺れながら。
──近い
何かが、待っている。
敵意でも、歓迎でもない。
ただ――見られている。
三人は、言葉を交わさぬまま、回廊を進んだ。
足元だけが、細く青白く照らされていた。
ルカは、無意識にリアンの背を追った。
置いていかれる気がした。
そのとき。
前方の闇の中に、ひとつだけ、光が浮かんだ。
手のひらに収まるほどの、小さな輝き。
水でも炎でもない。
なのに、目が離せなかった。
リアンは、足を止める。
──試されている、わけじゃない
ただ、見られている。
小さな光は、何も語らない。
だが、逃げることも、近づくこともせず、回廊の中央で、静かに待っていた。
その背後には、さらに深い闇が口を開けている。
岩の輪郭が、かろうじて浮かび上がる。
洞窟だ。
光を拒むほどに深く、奥行きを測れない空洞。
小さな光は、その入口を塞ぐように、ただ、そこに在った。
◆
小さな光は、三人の前で、わずかに揺れた。
先ほどまでとは、違う揺れだった。
水の中であるはずなのに、波紋は広がらない。
それでも、空間だけが、確かに変質していく。
闇が、濃くなった。
洞窟の奥で、何かが呼吸した。
クラウスは、無意識に一歩、リアンの前へ出た。
この光が、敵か否か。
あるいは――それ以前の存在か。
ルカは、喉を鳴らし、言葉を飲み込む。
問いかけるべきだと、理性は告げている。
だが、喉が動かなかった。
声を出すこと自体が、ここでは「選択」になる。
小さな光が、再び揺れる。
今度は、先ほどよりも、はっきりと。
輪郭が、わずかに強まった。
淡い輝きが、細い線となり、重なり、形を結び始める。
首の流れ。
尾が、光の残滓を引きながら、ゆるやかに弧を描く。
だが、それが「龍」であることは、疑いようがなかった。
水が、初めて、微かに軋んだ。
音とも言えない振動が、回廊に走る。
リアンの胸の奥で、青白い光が、ひときわ強く脈打った。
──呼ばれている
理由は分からない。
意味も、目的も。
ただ、この光が、自分を見ていることだけは、確信できた。
小さな龍は、首をもたげる。
視線のようなものが、リアンに定まる。
その瞬間、洞窟の闇が、わずかに後退した。
奥に、何かが在る。
形は見えない。
だが、この回廊の先に、“まだ別の層がある”ことだけは、はっきりと分かった。
小さな龍は、何も言わない。
リアンは、静かに息を吸った。
逃げ場は、もうない。
ここから先は――選ばれるか、拒まれるか。
小さな龍は、ただ静かに浮かんでいた。
先へ進む者を、選ぶように。




