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禁忌の第七王子と精霊の少女─その恋は王国の理を覆す─  作者: 七天宮 凛


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第30話 待て、と言う前に

 足裏に伝わる感触が、わずかに変わった。

 雪でも、氷でもない。

 硬く、しかし頼り切れるほどではない、不安定な確かさ。


 リアンは歩みを止めず、呼吸だけを浅く整えた。

 背後で、風に煽られた雪が崩れる音がする。

 振り返らなくても分かる。

 自分が立っていた場所には、もう戻れない。

 胸の奥で、青白い光が淡く揺れていた。


 ──残っているのは、点だけだ


 リアンは視線を走らせる。

 雪の下、岩の縁、わずかな高低差。

 その中に、滲むように浮かぶ青白光の痕跡がある。


「……次、右に三歩分。俺が立ってるところじゃない」


 声は低く、短い。

 クラウスとルカは、リアンの背中を見据えたまま 動かない。

 リアンの声だけを、待っている。

 リアンは、自分の足元を見ず、示した方向へ視線を送る。


「雪が薄い。岩肌が透けて見える位置だ」


 僅かに遅れて、背後で足音がした。

 次の瞬間、リアンの背後が、音もなく崩れ落ちる。

 雪が割れ、沈み、闇に呑まれていく。


 クラウスは、歯を食いしばるように息を吐き、示された一点へ足を置いた。

 沈まない。だが、少しでも重心を誤れば、次はない。


「……なるほどな」


 軽口に聞こえない低さだった。


 ルカは、その様子を見て、唇を引き結ぶ。

 視線は足元ではなく、リアンの肩口に固定されている。

 言葉ひとつ、距離ひとつを聞き逃さないために。


 リアンはすでに次を見ていた。


 ──まだある


 青白光は、前方へと点々と続いている。

 ただし、長くは保たない。選ぶのが遅れれば、その点も消える。


「次は、俺が動く」


 そう告げて、リアンは一歩踏み出す。

 踏み出した直後、背後で雪が崩れた。

 戻る道が、消える。

 それが何歩目だったのか、誰にも分からない。


 気づけば、風の質が変わっていた。

 やがて、足元の傾斜がゆるやかにほどけた。

 吹き付けていた風が弱まり、雪の舞い方が変わる。

 リアンは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞬間、視界が一気に開ける。



 山の頂だった。

 切り立った山脈に囲まれた中央に、巨大な湖が横たわっている。

 水面は静かだった。

 空を呑み込んだみたいに、淡く光っている。

 だが、その美しさを囲む地形は異様だった。

 湖を囲む岩壁は、不自然なほど垂直だった。

 足元から湖面まで、視線を遮るものは何もない。

 人が降りるための傾斜は存在せず、ただ真下へ落ちるしかない高さだった。

 この場所だけが、世界から切り取られている。


 ルカは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 こんな景色を、ルカは知らなかった。

 湖は、美しかった。

 だからこそ、生き物の目みたいで気味が悪い。

 息を呑む。

 綺麗なのに、見られている気がした。


 一方で、クラウスは感嘆の声を上げなかった。

 湖面を映す空の色に心を奪われる様子もなく、まずは岩壁の連なり、足場の安定、風の流れを素早く確認する。

 視線の端で微かな安心を見せていた表情が、次第に硬く引き締まっていった。

 そして、無意識に視線が湖の中央へと引き寄せられた。

 底から、肌を撫でるように伝わってくる――ただならぬ気配。

 クラウスの眉がぴたりと寄せられ、警戒の影が顔に差し込む。


 リアンは、二人の反応を視界の端で捉えながら、静かに湖へと目を向けた。


 そのとき、胸の奥で何かが震えた。

 次の瞬間、内側に宿る青白光が、呼応するように淡く輝き出す。

 湖の水面に宿る静かな光と、互いを確かめ合うように。


 ──なに、これ


 水の奥から、

 何かが応え返してくる。

 ここは、まだ始まりに過ぎない。


 沈黙が、湖畔に落ちた。

 風の音すら、遠のいたように感じられる。


 クラウスが、ゆっくりと息を吐いた。


「……間違いないな」


 低く、断定する声だった。


「湖の底に、確実に“何か”いる。生き物だ。しかも、相当でかい」


 冗談めいた調子は、もうどこにもない。

 ルカは一瞬、言葉を探すように瞬きをしてから、小さく首を振った。


「僕は……何も感じない。正直、さっぱりだ」


 ルカには、何も見えていなかった。

 リアンに見えているものが、何ひとつ。


 リアンは湖から目を離さないまま、静かに答えた。


「……ええ。何かいるのは、確かです」


 胸の奥で、冷たい光が、生き物のように脈打つ。

 水面の向こうから、呼ばれているような感覚が消えない。


「それがブルードラゴンかどうかは、まだ分かりませんが」


 クラウスが顎に手を当て、湖を見据える。


「さて……問題は、だ。どうやって湖の中のご本人と、ご対面するかだな」


 その言葉が終わる前だった。

 リアンは、岩壁の縁へと歩み寄った。

 湖は、足元から遥か下にあった。

 身を乗り出せば、視界は一気に切り落とされる。

 水面まで、斜面も足場もない。

  下へ落ちる以外、道はなかった。


 ルカが、息を呑む気配がする。

 クラウスが反射的に一歩前へ出かけて――止まった。 

 この高さだ。

 掴めるものは、何もない。


 リアンは、振り返らなかった。


 ──呼ばれてる


 それが罠かどうかを考えるより先に、身体が答えていた。

 迷いはなかった。

 胸の奥で、青白い光が、はっきりと応えている。


 背後で、低い声が弾ける。


「リアン、待――」


 ルカは、反射的に息を呑んだ。

 瞳が、断崖の縁に張り付く。


 胸が、うるさい。

 目が離せない。

 リアンが、遠ざかっていく。

 置いていかれた。

 そう思った。


 次の瞬間――

 リアンの姿が、視界から消えた。


 ──下だ


 胸の奥で、青白い光が、はっきりと脈打つ。

 水面の、さらに奥。

 闇の中から、同じ色の気配が、確かに応え返してくる。

 水面に触れる――その、直前。

 湖は、跳ねなかった。

 まるで、最初から受け入れると決めていたみたいに。

 砕けもせず、拒みもせず、ただ、静かに沈んだ。


 水が、たわむ。

 静かに。

 深く。


 衝撃は、音を立てる前に吸い取られ、リアンの身体は、水の内側へと包み込まれた。


 冷たくない。

 暗くもない。

 水は、透明ではなかった。

 深い蒼の奥に、淡い白が溶け込み、さらにその下で、青白い光が、脈のように揺れている。

 夜の空と、月光と、氷の底――

 そのすべてを重ね合わせたような色。


 その瞬間。

 胸の奥の青白い光が、応えるように強く輝いた。

 世界の色が、変わる。

 空の青が薄れ、岩の黒が白に滲み、影は、影であることをやめる。

 水の内側に反射した光が、上下を失わせ、どこまでが湖で、どこからが空なのか、判別できなくなる。


 次の瞬間――

 水が、動きを止めた。

 落ちるはずだった流れが、その場に留まり、意志を与えられたかのように、形を持つ。


 次の瞬間――

 湖が、割れた。


 音はない。

 飛沫も上がらない。

 青白い光を宿した水が、左右へと静かに押し分けられていく。

 人ひとり分――いや、それ以上の幅をもって、

 湖の奥へ、一本の道が伸びていく。


 水は、水のままだ。

 けれど、それはもう流れではない。

 青白い光を宿したまま、

 壁となり、

 回廊となり、

 底へと続いている。


 リアンは、水に濡れることなく、割れた水の中央に生まれた通路の上に立っていた。


 湖は、もう湖ではなかった。

 青白い光に満たされた深淵への入口が、静かに口を開けている。



 断崖の上で、二人は立ち尽くしていた。

 落ちたはずの場所に、落下の痕跡は、どこにもない。


 あるのは――

 裂けた湖だけだった。

 水面が、縦に割れている。

 荒れもせず、音もなく、まるで最初からそうであったかのように。

 青白い光を宿した水が左右に静止し、その奥へ向かって、一本の道が伸びている。


 クラウスは、思わず喉を鳴らした。

 知識も経験も、反射的な判断も、その光景を説明できなかった。

 魔法とも、精霊術とも断定できない。

 これまで見てきたどの現象とも、明らかに異なっている。

 この高さから、人が落ちて無事であるはずがない。

 そう理解しているからこそ、視界の奥に“立っている影”を認識した瞬間、言葉を失った。

 水の回廊の中心に、確かに、人影があった。


「……馬鹿か、あいつは」


 クラウスは、呆然としたまま低く吐き捨てた。

 怒鳴るでもなく、笑うでもない。

 現実を受け止めきれないまま漏れ落ちた、押し殺したような声だった。


 ルカは、一歩も動けずにいた。

 風の音も、湖の匂いも、何一つ変わっていない。


 それなのに――

 目に映る景色だけが、どこか異質に見える。

 湖の蒼が、白に滲んでいる。

 空と湖の境界が、分からない。

 自分が、どちら側に立っているのかも。


「……ねえ」


 ルカの声は、かすかに揺れていた。


「今の……あれ。湖の下まで、道が続いてるんだよね」


 クラウスは答えなかった。

 答えを持たないまま、ただ、無意識に拳を握りしめる。

 湖の底から立ち上がる気配が、断崖の上にまで届いている。

 それは、否応なく、この場所そのものを巻き込み始めていた。


 二人は、まだ動けずにいる。

 水の回廊は、開いたままだった。


 その奥に立つ影から、視線を逸らせない。


 





 








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― 新着の感想 ―
リアン以外が落ちて、果たして無事で済むのかは微妙なところですね。勇敢とも違う状況に思えました。他の人では、死ぬんだろうな、と、なんとなく、思いながら読んでいました。高所恐怖症なので、湖の断崖は普通に怖…
リアン達三人は湖へ すると歩く3人の前。 湖が割れ落ちていった。 そんなリアンは確実に。 続きも楽しみです°・*:.。.☆
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