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禁忌の第七王子と精霊の少女─その恋は王国の理を覆す─  作者: 七天宮 凛


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第29話 戻れない足跡

 ネヴァリス山脈は、遠目には白い雪山にしか見えなかった。

 空を裂くような険しさもない。

 だが、麓に立った瞬間――空気が変わった。


 リアンは、無意識に一歩、足を止めていた。

 胸の奥に、何かが引っかかる。

 隣で、クラウスが短く息を吐いた。


「……おかしいな」


 低く呟いて、掌を軽く握る。

 いつもなら、何の意識もなく応じるはずの感覚が返ってこない。

 もう一度、確かめるように指先に力を込める。

 それでも、何も起きなかった。


 ルカも眉をひそめ、空を見上げる。

 次の瞬間、その視線が揺れた。


 「……魔力、ない?」


 冗談めかした声音だったが、笑みは浮かばない。

 ネヴァリス山脈の境界線。

 そこを越えたわけでもない。

 ただ、近づいただけだ。

 それなのに、世界から“力”だけが、静かに切り取られていた。


 クラウスは舌打ちを飲み込み、深く息を吸い直す。

 筋肉の張りが、はっきりと自分の重さを主張し始めている。


「……なるほどな。ここから先は、ただの人間ってわけか」


 その言葉は軽い。

 だが、魔力を失った身体が晒される現実を、誰よりも彼自身が理解していた。


 リアンは、二人の様子を黙って見ていた。

 自分の中を探る。

 何かが失われた感覚は、ない。

 代わりに──

 胸の奥で、冷たい光だけが、まだ消えていなかった。

 リアンは、無意識に山を見上げる。

 まるで、試されている気がした。

 ここから先は、力では通じない。



 境界を越えた途端、足裏の感覚が変わった。

 最初は土だった。

 薄く霜をまとった岩と、踏み固められた地面。

 だが進むにつれ、雪は柔らかいはずなのに沈まず、氷は滑るはずなのに、張りつくように重い。

 魔力で均されていた世界が、

 少しずつ、剥がされていく。


「ねえ、リアン」


 ルカが、前を見たまま声を投げる。


「……この道で本当に合ってるのかな?」


 問いというより、確かめるための声だった。


「分かりません」


 リアンは、正直に答えた。


「でも、ここまでは来られてます」


「……まあ」


 少し間を置いて、クラウスが口を挟んだ。


「ここまで来て、まだ何も起きてない」


 肩をすくめるような気配。


「なら、今すぐどうこうなる場所でもないだろ」


 それだけ言って、歩みを止めない。

 ルカは、それ以上言葉を探さなかった。

 足取りが重くなる。

 それでも、進めた。


 ――まだ、この時点では。


 やがて、雪は足首を覆い、地面は完全に見えなくなった。

 踏み出すたび、足裏の感覚がずれる。

 踏んだはずの場所が、本当に“在る”のか分からない。

 不意に、風が強まった。

 横殴りの突風が、雪を巻き上げる。


 リアンの胸の奥で、冷たい光が、わずかに脈打った。

 視界が白く滲んだ、その瞬間――

 ルカの足が、わずかに浮いた。


「……っ」


 踏みしめたはずの場所が、ずれた。

 雪が、崩れる。

 身体が、斜面に引かれる。

 反射的に、ルカは詠唱に入っていた。


「──風よ」


 短い言葉。

 いつもの半分も要らないはずの術式。

 落下を殺すだけの、最低限の風。

 だが──

 何も起きなかった。

 風は、応えない。

 ルカの喉が、わずかに引きつる。


「風、返ってこないんだけど」


 乾いた声だった。

 冗談めかした響きは残っている。

 だが、その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。

 次の瞬間、身体が完全に持っていかれる。


「ルカ!」


 クラウスが叫び、即座に前方へロープを投げた。

 リアンも、迷いなく同時に動く。

 二人の足場は、どちらも狭い。

 踏み外せば、次は自分たちが落ちる位置だ。

 ロープが張りきり、ルカの身体が宙で止まった。

 前方へ投げられたそれをリアンが受け取り、後方でクラウスが踏ん張る。

 ルカは、二人の間でロープにぶら下がる形になっていた。

 斜面に触れていない足先が、雪の下に何もない空間を探すように揺れている。

 風も、支えも、応えなかった。

 頼れるものは、張りつめたロープだけだった。

 

 山は、静かだった。

 だからこそ、怖かった。

 登れる者だけを、残すつもりなのだと分かる。


 クラウスが後方でロープを巻き取り、リアンも前方から、無言で距離を詰める。

 二人の動きに合わせて、張りつめていた綱が、わずかに弛む。

 ルカの足先が、雪に触れた。

 沈まない。だが、確かに“在る”感触だった。


「……悪いな。助かった」


 リアンは小さく頷いただけだった。


「当たり前だろ。落とすわけない」


 クラウスはそう言って、綱から手を離さなかった。

 足元で、嫌な音がした。

 氷が軋む、低く鈍い音。

 それは一度きりでは終わらなかった。


 ぎ、と。

 もう一度、さらに近くで鳴る。


 誰も、動かなかった。

 呼吸の音だけが、やけに近い。


 雪の下が、沈む。


 クラウスが即座に動きを止めた。


「……止まれ。全員」


 だが、その声が落ちきる前に――

 一歩、二歩。

 三人が通ってきたばかりの斜面に、細い亀裂が走った。

 線は、後ろから前へではない。

 後ろから、消えていく。

 踏み固めた足跡ごと、雪が割れ、沈み、闇に落ちていく。

 雪の下は、山の裂け目に張り出した空洞だった。

 最初から、道など存在しなかったのかもしれない。

 山は、踏ませただけで、支えるつもりはなかった。

 底が見えない。

 雪の裂け目は、光さえ飲み込んでいた。

 戻る道が、音を立てて崩れ始めた。


 ルカが息を呑む。


「……戻ったら、落ちる」


「だな」


 クラウスは短く答え、即座に腰の装備に手を伸ばした。


 ルカが乾いた息を漏らす。


「ねえ、これ、普通に死ぬやつじゃない?」


 誰も、笑わなかった。

 登攀用のロープが、手袋越しに冷たい。

 雪が、また崩れる。

 時間がない。

 進むしかない。

 だが前方の雪面も、いつ裏切るか分からなかった。

 沈黙が落ちる。

 風が止み、雪の軋む音だけが、足元から伝わってきた。


 誰も動かない中で、リアンだけが一歩、前へ出た。


 「……俺が行く」


 低い声だった。

 即断に近い、短い判断。

 だが、そのまま続けて、はっきりと言葉を足す。


「考えがある。二人は――そこにいてほしい」


 クラウスの眉が、わずかに動いた。


「待て。……何か、見えてるな?」


 問いというより、確認だった。

 リアンは答えなかった。

 ただ、足元を見下ろす。


 その瞬間。

 リアンの足元で、淡く、青白い光が滲んだ。

 それは、一つじゃない。

 雪の下。

 点々と、青白い光が浮かぶ。

 そこだけが、“残っている”と分かった。


 ──ここだ


 ──次は、そこ


 使おうとしたわけじゃない。

 選ぼうとした、その瞬間に、勝手に現れただけだった。

 リアンは、青白く滲む一点を選び、慎重に足を置く。

 沈まない。

 崩れない。

 だが――

 そのすぐ横の、光のない雪が、音もなく消えた。

 今、立っている場所が、

 次の瞬間には、もう失われる。

 足を置くたび、喉が締まる。

 間違えれば終わる。

 それでも、止まれなかった。

 後ろは、振り返らなかった。


 ルカは、その背中を見ていた。

 怖かった。

 なのに、リアンから目を離せなかった。

 迷いなく進むその背中だけが、

 崩れかけた足場の中で、

 唯一、落ちないものに見えた。


「……リアン」


 名前を呼び、

 そして、静かに言った。


「分かった」


 ルカは、張ったロープを握り直す。


「ちゃんと支えるから」


 それだけだった。

 託すのではない。

 判断を、任せる声。

 ロープが張られる。

 誰かが落ちれば、残った二人で引き戻すための距離。


「……行け」


 クラウスの声は短い。

 ロープを握る手が、汗で滑っていた。

 それ以上の言葉は、要らなかった。

 一歩進むたび、リアンが踏みしめた場所が、遅れて崩れていく。


 戻る道は、完全に消えた。

 それでも、誰も振り返らない。

 進むと決めたからだ。

 この山が拒まない在り方を、ひとつ、選んだから。





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― 新着の感想 ―
普通に山は怖いですからね。入念に、そのための準備をしてから登るべきところ、魔力を失って、普通の人の体で入山するのは自殺行為ですね。しっかり、危機に陥って死ぬところでしたが(笑)リアルで良かったです。こ…
ネヴァリス山脈をいくリアン達。 しかもそれは道が消えてく恐ろしい戻れない場所。 リアン達はどうなる!?
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