第29話 戻れない足跡
ネヴァリス山脈は、遠目には白い雪山にしか見えなかった。
空を裂くような険しさもない。
だが、麓に立った瞬間――空気が変わった。
リアンは、無意識に一歩、足を止めていた。
胸の奥に、何かが引っかかる。
隣で、クラウスが短く息を吐いた。
「……おかしいな」
低く呟いて、掌を軽く握る。
いつもなら、何の意識もなく応じるはずの感覚が返ってこない。
もう一度、確かめるように指先に力を込める。
それでも、何も起きなかった。
ルカも眉をひそめ、空を見上げる。
次の瞬間、その視線が揺れた。
「……魔力、ない?」
冗談めかした声音だったが、笑みは浮かばない。
ネヴァリス山脈の境界線。
そこを越えたわけでもない。
ただ、近づいただけだ。
それなのに、世界から“力”だけが、静かに切り取られていた。
クラウスは舌打ちを飲み込み、深く息を吸い直す。
筋肉の張りが、はっきりと自分の重さを主張し始めている。
「……なるほどな。ここから先は、ただの人間ってわけか」
その言葉は軽い。
だが、魔力を失った身体が晒される現実を、誰よりも彼自身が理解していた。
リアンは、二人の様子を黙って見ていた。
自分の中を探る。
何かが失われた感覚は、ない。
代わりに──
胸の奥で、冷たい光だけが、まだ消えていなかった。
リアンは、無意識に山を見上げる。
まるで、試されている気がした。
ここから先は、力では通じない。
◆
境界を越えた途端、足裏の感覚が変わった。
最初は土だった。
薄く霜をまとった岩と、踏み固められた地面。
だが進むにつれ、雪は柔らかいはずなのに沈まず、氷は滑るはずなのに、張りつくように重い。
魔力で均されていた世界が、
少しずつ、剥がされていく。
「ねえ、リアン」
ルカが、前を見たまま声を投げる。
「……この道で本当に合ってるのかな?」
問いというより、確かめるための声だった。
「分かりません」
リアンは、正直に答えた。
「でも、ここまでは来られてます」
「……まあ」
少し間を置いて、クラウスが口を挟んだ。
「ここまで来て、まだ何も起きてない」
肩をすくめるような気配。
「なら、今すぐどうこうなる場所でもないだろ」
それだけ言って、歩みを止めない。
ルカは、それ以上言葉を探さなかった。
足取りが重くなる。
それでも、進めた。
――まだ、この時点では。
やがて、雪は足首を覆い、地面は完全に見えなくなった。
踏み出すたび、足裏の感覚がずれる。
踏んだはずの場所が、本当に“在る”のか分からない。
不意に、風が強まった。
横殴りの突風が、雪を巻き上げる。
リアンの胸の奥で、冷たい光が、わずかに脈打った。
視界が白く滲んだ、その瞬間――
ルカの足が、わずかに浮いた。
「……っ」
踏みしめたはずの場所が、ずれた。
雪が、崩れる。
身体が、斜面に引かれる。
反射的に、ルカは詠唱に入っていた。
「──風よ」
短い言葉。
いつもの半分も要らないはずの術式。
落下を殺すだけの、最低限の風。
だが──
何も起きなかった。
風は、応えない。
ルカの喉が、わずかに引きつる。
「風、返ってこないんだけど」
乾いた声だった。
冗談めかした響きは残っている。
だが、その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
次の瞬間、身体が完全に持っていかれる。
「ルカ!」
クラウスが叫び、即座に前方へロープを投げた。
リアンも、迷いなく同時に動く。
二人の足場は、どちらも狭い。
踏み外せば、次は自分たちが落ちる位置だ。
ロープが張りきり、ルカの身体が宙で止まった。
前方へ投げられたそれをリアンが受け取り、後方でクラウスが踏ん張る。
ルカは、二人の間でロープにぶら下がる形になっていた。
斜面に触れていない足先が、雪の下に何もない空間を探すように揺れている。
風も、支えも、応えなかった。
頼れるものは、張りつめたロープだけだった。
山は、静かだった。
だからこそ、怖かった。
登れる者だけを、残すつもりなのだと分かる。
クラウスが後方でロープを巻き取り、リアンも前方から、無言で距離を詰める。
二人の動きに合わせて、張りつめていた綱が、わずかに弛む。
ルカの足先が、雪に触れた。
沈まない。だが、確かに“在る”感触だった。
「……悪いな。助かった」
リアンは小さく頷いただけだった。
「当たり前だろ。落とすわけない」
クラウスはそう言って、綱から手を離さなかった。
足元で、嫌な音がした。
氷が軋む、低く鈍い音。
それは一度きりでは終わらなかった。
ぎ、と。
もう一度、さらに近くで鳴る。
誰も、動かなかった。
呼吸の音だけが、やけに近い。
雪の下が、沈む。
クラウスが即座に動きを止めた。
「……止まれ。全員」
だが、その声が落ちきる前に――
一歩、二歩。
三人が通ってきたばかりの斜面に、細い亀裂が走った。
線は、後ろから前へではない。
後ろから、消えていく。
踏み固めた足跡ごと、雪が割れ、沈み、闇に落ちていく。
雪の下は、山の裂け目に張り出した空洞だった。
最初から、道など存在しなかったのかもしれない。
山は、踏ませただけで、支えるつもりはなかった。
底が見えない。
雪の裂け目は、光さえ飲み込んでいた。
戻る道が、音を立てて崩れ始めた。
ルカが息を呑む。
「……戻ったら、落ちる」
「だな」
クラウスは短く答え、即座に腰の装備に手を伸ばした。
ルカが乾いた息を漏らす。
「ねえ、これ、普通に死ぬやつじゃない?」
誰も、笑わなかった。
登攀用のロープが、手袋越しに冷たい。
雪が、また崩れる。
時間がない。
進むしかない。
だが前方の雪面も、いつ裏切るか分からなかった。
沈黙が落ちる。
風が止み、雪の軋む音だけが、足元から伝わってきた。
誰も動かない中で、リアンだけが一歩、前へ出た。
「……俺が行く」
低い声だった。
即断に近い、短い判断。
だが、そのまま続けて、はっきりと言葉を足す。
「考えがある。二人は――そこにいてほしい」
クラウスの眉が、わずかに動いた。
「待て。……何か、見えてるな?」
問いというより、確認だった。
リアンは答えなかった。
ただ、足元を見下ろす。
その瞬間。
リアンの足元で、淡く、青白い光が滲んだ。
それは、一つじゃない。
雪の下。
点々と、青白い光が浮かぶ。
そこだけが、“残っている”と分かった。
──ここだ
──次は、そこ
使おうとしたわけじゃない。
選ぼうとした、その瞬間に、勝手に現れただけだった。
リアンは、青白く滲む一点を選び、慎重に足を置く。
沈まない。
崩れない。
だが――
そのすぐ横の、光のない雪が、音もなく消えた。
今、立っている場所が、
次の瞬間には、もう失われる。
足を置くたび、喉が締まる。
間違えれば終わる。
それでも、止まれなかった。
後ろは、振り返らなかった。
ルカは、その背中を見ていた。
怖かった。
なのに、リアンから目を離せなかった。
迷いなく進むその背中だけが、
崩れかけた足場の中で、
唯一、落ちないものに見えた。
「……リアン」
名前を呼び、
そして、静かに言った。
「分かった」
ルカは、張ったロープを握り直す。
「ちゃんと支えるから」
それだけだった。
託すのではない。
判断を、任せる声。
ロープが張られる。
誰かが落ちれば、残った二人で引き戻すための距離。
「……行け」
クラウスの声は短い。
ロープを握る手が、汗で滑っていた。
それ以上の言葉は、要らなかった。
一歩進むたび、リアンが踏みしめた場所が、遅れて崩れていく。
戻る道は、完全に消えた。
それでも、誰も振り返らない。
進むと決めたからだ。
この山が拒まない在り方を、ひとつ、選んだから。




