第31話 待て、と言う前に
足裏に伝わる感触が、わずかに変わった。
雪でも、氷でもない。硬く、しかし頼り切れるほどではない、不安定な確かさ。
リアンは歩みを止めず、呼吸だけを浅く整えた。背後で、風に煽られた雪が崩れる音がする。
振り返らなくても分かる。
自分が立っていた場所には、もう戻れない。
胸の奥で、青白い光が淡く揺れていた。
(……残っているのは、点だけだ)
道ではない。足跡でもない。一定の形を持った“安全”など、最初から与えられていない。
リアンは視線を走らせる。雪の下、岩の縁、わずかな高低差。その中に、滲むように浮かぶ青白光の痕跡がある。今、この瞬間だけ耐えられる一点。
「……次、右に三歩分。俺が立ってるところじゃない」
声は低く、短い。
クラウスとルカは、リアンの背中を見据えたまま動かない。光が見えていないからこそ、言葉だけが頼りだった。
リアンは、自分の足元を見ず、示した方向へ視線を送る。
「雪が薄い。岩肌が透けて見える位置だ」
僅かに遅れて、背後で足音がした。
次の瞬間、リアンの背後が、音もなく崩れ落ちる。
雪が割れ、沈み、闇に呑まれていく。
クラウスは、歯を食いしばるように息を吐き、示された一点へ足を置いた。沈まない。だが、少しでも重心を誤れば、次はない。
「……なるほどな」
軽口に聞こえない低さだった。
ルカは、その様子を見て、唇を引き結ぶ。視線は足元ではなく、リアンの肩口に固定されている。言葉ひとつ、距離ひとつを聞き逃さないために。
リアンはすでに次を見ていた。
(……まだある)
青白光は、前方へと点々と続いている。ただし、長くは保たない。選ぶのが遅れれば、その点も消える。
「次は、俺が動く」
そう告げて、リアンは一歩踏み出す。
足裏に確かな感触が伝わる。その瞬間、今まで立っていた場所が、わずかに軋んだ。
進むたび、後ろが失われていく。
戻る選択肢は、もう存在しない。
それが何歩目だったのか、誰にも分からない。
気づけば、風の質が変わっていた。
やがて、足元の傾斜がゆるやかにほどけた。
吹き付けていた風が弱まり、雪の舞い方が変わる。
リアンは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、視界が一気に開ける。
◆
山の頂だった。
切り立った山脈に囲まれた中央に、巨大な湖が横たわっている。水面は驚くほど静かで、空を映す鏡のように淡い光を湛えていた。
だが、その美しさを囲む地形は異様だった。
湖を取り巻く岩壁は、自然に削られたというより、何かが意図的に切り崩したかのように垂直に落ち込み、断崖となっている。
足元から湖面まで、視線を遮るものは何もない。
人が降りるための傾斜は存在せず、ただ真下へ落ちるしかない高さだった。
この場所だけが、世界から切り取られている。
ルカは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
王宮の高い塔から見下ろした庭園も、書物で知った名勝も、この光景とは比べものにならない。胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
息を吸う。冷たいはずの空気が、なぜか甘く感じられた。
その瞳は、抑えきれない光を宿して、静かに輝いている。
一方で、クラウスは感嘆の声を上げなかった。
湖面を映す空の色に心を奪われる様子もなく、まずは岩壁の連なり、足場の安定、風の流れを素早く確認する。
視線の端で微かな安心を見せていた表情が、次第に硬く引き締まっていった。
そして、無意識に視線が湖の中央へと引き寄せられた。
底から、肌を撫でるように伝わってくる――ただならぬ気配。
クラウスの眉がぴたりと寄せられ、楽しげだった微笑みは消え、警戒の影が顔に差し込む。
リアンは、二人の反応を視界の端で捉えながら、静かに湖へと目を向けた。
そのとき、胸の奥で何かが震えた。
次の瞬間、内側に宿る青白光が、呼応するように淡く輝き出す。
湖の水面に宿る静かな光と、互いを確かめ合うように。
(……なに、これ)
意識して力を使ったわけではない。それでも、確かに繋がっている感覚があった。水の奥と、自分の中の何かが。
戸惑いを隠すように、リアンは唇を引き結ぶ。
ここは、まだ始まりに過ぎない。
その直感だけが、はっきりと胸に残っていた。
沈黙が、湖畔に落ちた。
風の音すら、遠のいたように感じられる。
クラウスが、ゆっくりと息を吐いた。
「……間違いないな」
低く、断定する声だった。
「湖の底に、確実に“何か”いる。生き物だ。しかも、相当でかい」
冗談めいた調子は、もうどこにもない。
ルカは一瞬、言葉を探すように瞬きをしてから、小さく首を振った。
「僕は……何も感じない。正直、さっぱりだ」
戸惑いを隠そうとしない、正直な声音だった。
だからこそ、その場の異常さが際立つ。
リアンは湖から目を離さないまま、静かに答えた。
「……ええ。何かいるのは、確かです」
胸の奥で、冷たい光が、生き物のように脈打つ。
水面の向こうから、呼ばれているような感覚が消えない。
「それがブルードラゴンかどうかは、まだ分かりませんが」
クラウスが顎に手を当て、湖を見据える。
「さて……問題は、だ。どうやって湖の中のご本人と、ご対面するかだな」
その言葉が終わる前だった。
リアンは、岩壁の縁へと歩み寄った。
湖は、足元から遥か下にあった。
身を乗り出せば、視界は一気に切り落とされる。
水面まで、斜面も足場もない。
ほぼ垂直。
落ちる以外の選択肢は、最初から存在しなかった。
ルカが、息を呑む気配がする。
クラウスが反射的に一歩前へ出かけて――止まった。
この高さだ。
掴めるものは、何もない。
リアンは、振り返らなかった。
(……呼ばれてる)
それが罠かどうかを考えるより先に、身体が答えていた。
迷いはなかった。
胸の奥で、青白い光が、はっきりと応えている。
背後で、低い声が弾ける。
「リアン、待――」
ルカは、反射的に息を呑んだ。
瞳が、断崖の縁に張り付く。
次の瞬間、リアンは断崖を蹴った。
風が、鋭く耳元を裂く。
身体は迷いなく落ちていく。
空に支えられていた感覚が剥がれ落ち、重力だけが残った。
世界が、縦に引き延ばされる。
視界の中心で、湖が静かに近づいてくる。
揺れない。波立たない。
ただ、深い眠りの底で、息を潜めているようだった。
(……下だ)
胸の奥で、青白い光が、はっきりと脈打つ。
水面の、さらに奥。
闇の中から、同じ色の気配が、確かに応え返してくる。
水面に触れる――その、直前。
湖は、跳ねなかった。
砕けもせず、拒みもせず、ただ、沈む。
水が、たわむ。
落下の力を受け止めるように、静かに、深く。
衝撃は、音を立てる前に吸い取られ、リアンの身体は、水の内側へと包み込まれた。
冷たくない。
暗くもない。
水は、透明ではなかった。
深い蒼の奥に、淡い白が溶け込み、さらにその下で、青白い光が、脈のように揺れている。
夜の空と、月光と、氷の底――
そのすべてを重ね合わせたような色。
その瞬間。
胸の奥の青白い光が、応えるように強く輝いた。
世界の色が、変わる。
空の青が薄れ、岩の黒が白に滲み、影は、影であることをやめる。
水の内側に反射した光が、上下を失わせ、どこまでが湖で、どこからが空なのか、判別できなくなる。
次の瞬間――
水が、動きを止めた。
落ちるはずだった流れが、その場に留まり、意志を与えられたかのように、形を持つ。
湖が、割れる。
音はない。
飛沫も上がらない。
青白い光を宿した水が、左右へと静かに押し分けられていく。
人ひとり分――いや、それ以上の幅をもって、
湖の奥へ、一本の道が伸びていく。
水は、水のままだ。
けれど、それは流れではない。
光を内包したまま、壁となり、回廊となり、底へと続く静かな通路を形づくっている。
リアンは、水に濡れることなく、割れた水の中央に生まれた通路の上に立っていた。
湖は、もう湖ではなかった。
青白い光に満たされた深淵への入口が、静かに口を開けている。
◆
断崖の上で、二人は立ち尽くしていた。
落ちたはずの場所に、落下の痕跡は、どこにもない。
あるのは――
裂けた湖だけだった。
水面が、縦に割れている。
荒れもせず、音もなく、まるで最初からそうであったかのように。
青白い光を宿した水が左右に静止し、その奥へ向かって、一本の道が伸びている。
クラウスは、思わず喉を鳴らした。
知識も経験も、反射的な判断も、その光景を説明できなかった。
魔法とも、精霊術とも断定できない。
これまで見てきたどの現象とも、明らかに異なっている。
この高さから、人が落ちて無事であるはずがない。
そう理解しているからこそ、視界の奥に“立っている影”を認識した瞬間、言葉を失った。
水の回廊の中心に、確かに、人影があった。
「……馬鹿か、あいつは」
クラウスは、呆然としたまま低く吐き捨てた。
怒鳴るでもなく、笑うでもない。
現実を受け止めきれないまま漏れ落ちた、押し殺したような声だった。
ルカは、一歩も動けずにいた。
風の音も、湖の匂いも、何一つ変わっていない。
それなのに――
目に映る景色だけが、どこか異質に見える。
湖の蒼が、白に滲んでいる。
空の色が引き延ばされ、上下の境界が、ゆっくりと溶けていく。
「……ねえ」
ルカの声は、かすかに揺れていた。
「今の……あれ。湖の下まで、道が続いてるんだよね」
問いかけというより、目の前の現実を確かめるための言葉だった。
クラウスは答えなかった。
答えを持たないまま、ただ、無意識に拳を握りしめる。
湖の底から立ち上がる気配が、断崖の上にまで届いている。
それは、否応なく、この場所そのものを巻き込み始めていた。
二人は、まだ動けずにいる。
水の回廊が開いたまま、そこに立つ影を映し続けている限り――
視線を逸らすことができなかった。
落ちたはずの場所に、落下の痕跡は、どこにもない。
あるのは――
裂けた湖だけだった。
水面は、揺れない。
閉じる気配も、崩れる気配もない。
まるで、リアンが落ちたという事実だけを、世界が、まだ処理できていないかのように。




