第30話 戻れない足跡
ネヴァリス山脈は、遠目にはただの白い連なりに見えた。
空を裂くような険しさも、威圧する咆哮もない。
ただ、そこに在るだけの山々。
だが、その麓に立った瞬間、空気が変わった。
リアンは、無意識に一歩、足を止めていた。
理由は分からない。冷気のせいでも、標高のせいでもない。
胸の奥に、何かが引っかかる。
隣で、クラウスが短く息を吐いた。
「……おかしいな」
低く呟いて、掌を軽く握る。
いつもなら、何の意識もなく応じるはずの感覚が返ってこない。
もう一度、確かめるように指先に力を込める。
それでも、何も起きなかった。
ルカも同時に眉をひそめている。
風の流れを読むように、空を見上げ――すぐに、その視線が揺れた。
「……魔力、ない?」
冗談めかした声音だったが、笑みは浮かばない。
ネヴァリス山脈の境界線。
そこを越えたわけでもない。
ただ、近づいただけだ。
それなのに、世界から“力”だけが、静かに切り取られていた。
クラウスは舌打ちを飲み込み、深く息を吸い直す。
筋肉の張りが、はっきりと自分の重さを主張し始めている。
「……なるほどな。ここから先は、ただの人間ってわけか」
その言葉は軽い。
だが、魔力を失った身体が晒される現実を、誰よりも彼自身が理解していた。
リアンは、二人の様子を黙って見ていた。
自分の中を探る。
何かが失われた感覚は、ない。
代わりに――胸の奥で、かすかな冷たい光が、まだ眠っている。
使えるわけでもない。
滲み出てもいない。
ただ、そこに在る。
ネヴァリス山脈は、何も語らず、三人を見下ろしていた。
拒むべきものだけを、正確に選びながら。
ここから先は、力ではなく、在り方だけが試される場所だった。
◆
境界を越えた途端、足裏の感覚が変わった。
最初は土だった。
薄く霜をまとった岩と、踏み固められた地面。
だが進むにつれ、雪は柔らかいはずなのに沈まず、氷は滑るはずなのに、張りつくように重い。
魔力で均されていた世界が、
少しずつ、剥がされていく。
「ねえ、リアン」
ルカが、前を見たまま声を投げる。
「……この道で本当に合ってるのかな?」
問いというより、確かめるための声だった。
「分かりません」
リアンは、正直に答えた。
「でも、ここまでは来られてます」
「……まあ」
少し間を置いて、クラウスが口を挟んだ。
「ここまで来て、何も起きてない」
肩をすくめるような気配。
「なら、今すぐどうこうなる場所でもないだろ」
それだけ言って、歩みを止めない。
ルカは、それ以上言葉を探さなかった。
足取りが重くなる。
肩で息をする回数が増える。
それでも、進めた。
――この時点では、まだ。
やがて、雪は足首を覆い、地面は完全に見えなくなった。
踏み出すたび、雪の下で何かが遅れて応える。
沈むわけでも、跳ね返すわけでもない。
ただ、確かな感触だけが、返ってこない。
踏んだ場所が、次の瞬間も在る保証がなかった。
不意に、風が強まった。
横殴りの突風が、雪を巻き上げる。
リアンの胸の奥で、冷たい光が、わずかに脈打った。
視界が白く滲んだ、その瞬間――
ルカの足が、わずかに浮いた。
「……っ」
踏みしめたはずの場所が、ずれた。
雪が、崩れる。
身体が、斜面に引かれる。
反射的に、ルカは詠唱に入っていた。
「――風よ」
短い言葉。
いつもの半分も要らないはずの術式。
落下を殺すだけの、最低限の風。
だが――
何も起きなかった。
空気は動かない。
風は、応えない。
次の瞬間、身体が完全に持っていかれる。
「ルカ!」
クラウスが叫び、即座に前方へロープを投げた。
リアンも、迷いなく同時に動く。
二人の足場は、どちらも狭い。
踏み外せば、次は自分たちが落ちる位置だ。
ロープが張りきり、ルカの身体が宙で止まった。
前方へ投げられたそれをリアンが受け取り、後方でクラウスが踏ん張る。
ルカは、二人の間でロープにぶら下がる形になっていた。
斜面に触れていない足先が、雪の下に何もない空間を探すように揺れている。
風も、支えも、応えなかった。
頼れるものは、張りつめたロープだけだった。
この山は、魔力に頼る在り方を、確実に拒んでいた。
踏みしめるたび、下が空洞のように軋む。
ネヴァリス山脈は、入った者を歓迎しない。
だが、追い返すために吠えもしない。
ただ、静かに――
登れる者と、登れない者を分け始める。
クラウスが後方でロープを巻き取り、リアンも前方から、無言で距離を詰める。
二人の動きに合わせて、張りつめていた綱が、わずかに弛む。
ルカの足先が、雪に触れた。
沈まない。だが、確かに“在る”感触だった。
「……悪いな。助かった」
リアンは小さく頷いただけだった。
「当たり前だろ。落とすわけない」
クラウスはそう言って、綱から手を離さなかった。
足元で、嫌な音がした。
氷が軋む、低く鈍い音。
それは一度きりでは終わらなかった。
ぎ、と。
もう一度、さらに近くで鳴る。
雪の下が、沈む。
クラウスが即座に動きを止めた。
「……止まれ。全員」
だが、その声が落ちきる前に――
一歩、二歩。
三人が通ってきたばかりの斜面に、細い亀裂が走った。
線は、後ろから前へではない。
後ろから、消えていく。
踏み固めた足跡ごと、雪が割れ、沈み、闇に落ちていく。
雪の下は、山の裂け目に張り出した空洞だった。
最初から、道など存在しなかったのかもしれない。
山は、踏ませただけで、支えるつもりはなかった。
深さは分からない。
底が見えない、というより――
最初から、底という概念が存在しないようだった。
戻る道が、音を立てて崩れ始めた。
ルカが息を呑む。
「……戻ったら、落ちる」
「だな」
クラウスは短く答え、即座に腰の装備に手を伸ばした。
登攀用のロープが、手袋越しに冷たい。
雪が、また崩れる。
時間がない。
進むしかない。
だが前方の雪面も、いつ裏切るか分からなかった。
沈黙が落ちる。
風が止み、雪の軋む音だけが、足元から伝わってきた。
その沈黙を割るように、リアンが一歩、前へ出た。
「……俺が行きます」
低い声だった。
即断に近い、短い判断。
だが、そのまま続けて、はっきりと言葉を足す。
「考えがあります。二人は――そこから動かないでください」
クラウスの眉が、わずかに動いた。
「待て。……何か、見えてるな?」
問いというより、確認だった。
リアンは答えなかった。
ただ、足元を見下ろす。
その瞬間。
リアンの足元で、淡く、青白い光が滲んだ。
それは一箇所ではない。
雪面の下に、点々と浮かび上がる、細い光の痕跡。
力というほど強いものではない。
安定しているとも言えなかった。
それでも――
そこだけが、まだ“残っている”場所だと、はっきり分かる。
(……ここだ)
(……次は、そこ)
使おうとしたわけじゃない。
選ぼうとした、その瞬間に、勝手に現れただけだった。
リアンは、青白く滲む一点を選び、慎重に足を置く。
沈まない。
崩れない。
だが――
そのすぐ横の、光のない雪が、音もなく消えた。
今、立っている場所が、
次の瞬間には、もう失われる。
後ろは、振り返らなかった。
ルカは、その背中を見ていた。
怖くないはずがない。
足は震え、呼吸は浅くなる。
それでも――
リアンの動きに、迷いがないことだけは分かる。
ルカは、無意識に呼吸を整えていた。
この距離で、あの背中を見失ってはいけないと、そう思った自分に、わずかな違和感を覚えながら。
「……リアン」
名前を呼び、
そして、静かに言った。
「分かった。ここは、動かない」
それだけだった。
託すのではない。
判断を、任せる声。
ロープが張られる。
誰かが落ちれば、残った二人で引き戻すための距離。
「……行け」
クラウスの声は短い。
それ以上の言葉は、要らなかった。
一歩進むたび、リアンが踏みしめた場所が、遅れて崩れていく。
戻る道は、完全に消えた。
それでも、誰も振り返らなかった。
進むと決めたからだ。
この山が拒まない在り方を、ひとつ、選んだから。




