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第1話 朝の目覚め

 朝の淡い光が、アルシェ公爵家の白亜の壁面を静かに照らしていた。


 ――その穏やかさが、どこか出来すぎていることに、リアンはまだ気づいていなかった。


 王都アストラルから少し離れた高台に建つ屋敷は、湖と森に抱かれた広大な敷地を持ち、そのすべてが、薄い結界に柔らかく包まれている。

 塔を備えた三階建ての本邸。

 庭に咲く花々の向こうには湖の青が揺れ、噴水は透明な軌跡を描く。

 王城に次ぐ威厳と、家族の息遣いのある温もり。その両方を併せ持つ屋敷だった。


 その家で、リアンは十七年を生きてきた。


 アルバートを実の父として、クラウスを実の兄として、リリスを腹違いの妹として、疑う理由のない幸福の中で。


 静かな廊下に、軽やかな足音が響いた。


 「り、リアンお兄様っ……! お、おはようございます!」


 白銀の耳をふるふると揺らしながら駆けてくるのは、アルバートの娘――リリス(16歳)だった。

 

 白銀の狐耳、淡く紫を帯びた瞳。

 腰まで届く白銀のツインテールはゆるやかに波打ち、先だけ淡い紫に染まっている。

 小柄で、花の雫のような儚さをまとっている少女だ。


 リリスは抱えていた本をそのまま落としかけ、慌てて胸に抱きしめた。


 「リ、リアンお兄様、こ、これを……その……」


 「リリス、無理して一人で持たなくても。ほら、貸して」


 「っ……! い、いえ……そんな、リアンお兄様に……!」


 尻尾がぴん、と縮こまる。

 耳がかすかに紫を帯びる。

 控えめで、照れたら言葉がきつくなる。


 「迷惑だなんて感じたこと、一度もないよ。リリスは頑張り屋だ」


 「~~~~っ……! そ、その……ありがとうございます……!」


 リリスは嬉しさを隠しきれず、尻尾がぽふ、とふくらむ。

 しかし次の瞬間には、また小さく縮めてしまった。


 そこへ――低く落ち着いた声が近づいてきた。


 「朝から賑やかだな、お前たちは」


  青灰の髪を揺らしながら歩いてきたのは、クラウス(19歳)だった。

 涼しいスモーキーシルバーの瞳、端正な顔立ち。黒と深青のローブコートがよく似合う、


 完璧な兄であり、公爵家の後継者としての風格を備えていた。


 「兄さん、おはよう」


 「おはよう、リアン」


 クラウスは優しく弟の頭を軽く撫で――

 次の瞬間、妹に向かっては少しだけ厳しい声を落とした。


 「リリス。そんな大荷物、一人で持つ必要はない。執事を呼べ」


 「は、はいっ……!」


 叱るようでいて、どこか過保護でもある。

 リリスはむしろそれが嬉しいようで、こくこくと素直に頷いた。


 「兄さん、リリスはちゃんと努力してるんだよ」


 「……努力する方向を間違えるな、という話だ。お前まで甘やかすと、リリスがまた変なところで無理をする」


 「ち、違いますっ! 私は今の、えっと……その……!」


 「ほらな? 混乱してるぞ」


 「お兄様が急に変なこと言うからです! も、もう……!」


 ふるふると揺れる耳。

 くるんと丸まる尻尾。


 クラウスは小さくため息をついた。


「……まあ、元気ならいい」


「ぶ、ぶっきらぼうですけど本当は優しいんだから……」


「リリス、聞こえてるぞ」


「ひゃっ……!」


 そんなやりとりに、リアンは思わず笑みをこぼした。


 ただそこにある日常が、穏やかで愛しく思えた。


「クラウス様、リアン様、リリス様。掃除の準備が整いました」


 控えめな声に振り返ると、白いフリルつきエプロンの黒いメイド服を纏った少女が立っていた。


 ユラ(17歳)――アルシェ家に仕えるメイドのひとりだ。


 深藍のまっすぐな長い髪。

 銀青の瞳は氷のように澄んでおり、整った所作には一切の乱れがない。

 彼女は王直属の影部隊《夜織》の隊長。

 リアンの監視任務の総指揮であり、公爵家全体の警護も担っていた。

 屋敷の者は誰も彼女の裏の姿を知らない。


 彼女は冷静に、微塵も気配を乱さずに頭を下げる。


「ユラ。今日もよろしく」


「はい。リアン様も、お気をつけて」


 ほんの一瞬だけ、視線がクラウスへ向く。

 だがそこに特別な感情はない。

 職務上の観察にすぎない鋭さで、温度はなかった。


 リリスはそんなユラを見て、きゅっと尻尾を抱える。


「リリス。なぜ尻尾を抱える」


「ひゃっ……な、なんでもありません!」


「兄さん、追いつめないの。リリスが可哀想だよ」


「いや、これは普通に疑問だが……」


「二人とも! わ、私の尻尾は関係ないです!」


 小さな叫びが廊下に響き、ユラの肩がわずかに震えた。

 しかしそれは笑いではなく、驚き。

 彼女には、こうした温度のある日常がどこか異質に感じられるのだ。


 中庭では、白銀の髪に薄紫の尾を揺らす女性が散策していた。

 アルバートの後妻にして、リリスの母――エルフィナだ。


 ミストフォルン王国(精霊国)の王の妹として生まれ、王に贈られ、そしてアルバートに下賜されたという複雑な生い立ち。


 だが今はただ優しく微笑み、家族に温かい光を注ぐ存在となっていた。


「お母様!」


 リリスが駆け寄ると、エルフィナは柔らかく微笑んだ。


「おはよう、リリス。今日も耳が元気ね」


「えっ……! あ、あまり見ないでください……!」


「ふふ、そんなに可愛いのに?」


「~~っ!」


 リリスは顔を真っ赤にし、リアンの後ろへ隠れてしまう。


「リリス。耳を隠すな」


「クラウスお兄様っ!? い、今はいいじゃないですか!」


「……そういう問題ではない」


「兄さん、リリスが泣くよ?」


「泣かせてどうする」


「兄さんが言ってるんだよ」


「……俺が悪いのか?」


「お兄様たち……もう……!」


 リリスはとうとう尻尾をばさばさ揺らして抗議する。


 リアンはその様子を見て、たまらず笑いをこぼした。


 この家は、温かい。

 自分は愛されている。

 そう信じきっていた。

 けれど、その確信は、どこか薄い氷の上に乗っているようにも感じられた。





 夕暮れの光が、居間の床に長く伸びていた。


「……リリス」


  エルフィナは、手を止めて娘を見た。


「明日から、少しの間……家を空けるわ」


 その声は穏やかだったが、迷いが混じっていた。


「獣人国、ミストフォルンから呼びがあったの」


「……帰るの?」


「ええ。王家の血を引く者として、応じないわけにはいかないわ」


 それが“許された帰郷”であることを、

 リリスは理解していた。

 ――王の許可がなければ、叶わない帰郷だということを。


「数日で戻るわ」


 そう言って微笑んだが、

 その笑みは、どこか影を帯びていた。



 その夜。

 リアンは、理由もなく眠れなかった。

 胸の奥で、何かがひどく冷えている。

 それが“昔から知っている感覚”だということを、

 彼自身だけが、まだ知らなかった。




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