第27話 死を選べ、と言われた夜
玉座の前に、ユラはひとり立っていた。
その視界の端に、横たえられた少女の姿がある。
白銀と淡い光に包まれ、静かに眠るように横たわっている――精霊の少女、ティアラ。
その傍らに、黒衣の男が立っていた。
夜織の副隊長、カイ。
感情を排したまなざしで、少女を監視している。
肩から腕にかけて、ユラの血は、まだ乾ききっていなかった。
応急処置だけは施してきたが、包帯の下で、じくじくと熱が残っている。
自ら王宮を訪れた。
呼ばれたわけではない。
それでも、この場に立てば理由は問われない。
玉座の傍らに、男がいた。
黒に近い濃灰の髪。
無駄のない立ち姿。
動かず、語らず、それでいて――空気だけを測るような目。
シオン・ヴァルグリム。
夜織の指導教官であり、ユラが父のように慕う存在であった。
視線が合った、ほんの一瞬。
ユラは、反射的に目を逸らし、俯いた。
叱責はない。
問いもない。
ただ、そこに立っているだけ。
それが、かえって胸に刺さった。
「――申し上げます」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「私は、夜織である資格がありません」
息を整える、わずかな間。
「夜織を、辞めさせてください」
王の前で、頭を下げる。
「私はもう、自分の心を、裏切りたくないのです」
返答は、なかった
その重さの中で、腕の痛みが、遅れて意識に浮かび上がった。
血の匂い。
熱。
鈍い疼き。
――それが、過去を引き寄せた。
ユラは、孤児だった。
両親を失い、父の弟の家に引き取られた。
狭い家だった。湿った壁。いつも薄暗く、食卓に並ぶものは少なかった。
家には、父の弟と、その妻、そして幼い男の子がひとりいた。
女は、よく苛立っていた。
理由は些細なことだった。火の起きが悪い、食器が欠けている、子供が泣き止まない。
その矛先が、ユラに向くまで、時間はかからなかった。
足音が荒くなると、体が先に反応した。
呼吸が浅くなり、肩がすくむ。
叱責よりも早く、手が飛んできた。
殴られる場所は、決まっていた。服で隠れるところ。
声を上げても、誰も助けに来ない。
父の弟は、気づいていなかったのか。
気づいていて、見ないふりをしていたのか。
その違いを考える余裕は、ユラにはなかった。
ある日、食器棚に皿を戻そうとして、手が滑った。
乾いた音がして、白い破片が床に散らばる。
女の足音が、近づいた。
ユラは、その場から動けなかった。
謝る言葉は、喉の奥で固まっていた。
叩かれる――そう思った瞬間。
女の手が伸びるより先に、視界の端に、刃があった。
食卓の上に置かれていた、小さな果物ナイフ。
考えたわけではなかった。
逃げるためでも、反抗するためでもない。
ただ、手が伸びた。
女の腕が振り下ろされるのと、同時だった。
短い悲鳴。
刃は、女の腕を浅く裂いた。
赤い線が浮かび、血が滲む。
その場に、静寂が落ちた。
女は目を見開き、ユラを見た。
信じられないものを見るような顔だった。
ユラは、ナイフを落とした。
床に転がる音が、やけに大きく響いた。
――ここには、もういられない。
その考えは、言葉になる前に、確信になっていた。
その夜、ユラは家を出た。
誰にも告げず、振り返らずに。
◆
路地裏は、冷え切っていた。
昼と夜で、匂いが変わる。
腐った果物、湿った布、古い血の気配。
腹が鳴る音が、嫌だった。
生きている証のはずなのに、恥のように感じた。
拾ったものを売るとき、ユラは値段を聞く前に頭を下げた。
安くても、文句を言う気はなかった。
同じ場所に、似たような子供たちが集まっていた。
誰も笑わない。名前も、あまり呼ばない。
朝になって、誰かがいなくなっていても、深くは探さない。
そういう場所だった。
ある日、露天の前で立ち止まった。
焼きたてのパンの匂いが、風に乗って流れてくる。
袋に入れられたそれは、まだ温かそうだった。
考えるより先に、手が伸びた。
指先が、袋に触れる。
次の瞬間、手首を掴まれた。
強い力だった。骨がきしむ。
顔を上げると、男が立っていた。
感情の読めない目。
背が高く、無駄のない立ち姿。
シオン・ヴァルグリム。
その名を、ユラが知るのは、まだ先のことだ。
「腹が減っているのか」
低い声だった。
ユラは、答えなかった。
否定もしなかった。
男は、掴んでいた手を離すと、袋をひとつ差し出した。
「それを持っていけ」
罠かもしれない、と思った。
だが、袋は確かに温かかった。
ユラは、それを受け取った。
気づけば、男の後を歩いていた。
来いとも、付いてくるなとも言われていない。
それでも、離れられなかった。
男が足を止める。
「行き場がないなら、共に来るか」
命令ではなかった。
試すような響きでもない。
ただ、選択肢が置かれただけだった。
ユラは、短く頷いた。
――そうして。
戻る場所を、初めて得た。
◆
シオンについて行った、その日から。
ユラは、生きるために剣を振った。
生き延びるために、魔術を覚えた。
教え方は、厳しかった。
だが、投げ出されることはなかった。
型が崩れれば、無言で隣に立つ。
詠唱を間違えれば、同じところからやり直す。
日が落ちても、稽古は終わらなかった。
できるまで。
できるようになるまで。
それが、当たり前だった。
ある日、剣を振り終えたユラに、短く声が落ちた。
「今のは、悪くない」
それだけだった。
だが、その一言を、ユラは何度も胸の中で繰り返した。
眠る場所があった。
食事があった。
名を呼ばれることがあった。
それだけで、世界は別の色を帯びて見えた。
人として生きるということが、
日々を少しずつ満たしていくのだと、
ユラは、そこで初めて知った。
物心がつく頃には、
ユラの剣と魔術は、大人を凌ぐ域に達していた。
シオンは、夜織の隊長だった。
その背中を、いつも少し後ろから見ていた。
父のように思うようになるまで、時間はかからなかった。
だからこそ――
ユラは、夜織に入りたいと願い出た。
シオンは、即座に首を横に振った。
夜織が、どんな場所かを知っていたからだ。
剣と魔術を教えたのは、生き延びるためであって、
命を使い捨てるためではない。
それでも、ユラは引かなかった。
役に立ちたかった。
側で、支えたかった。
それが、選んだ生き方だった。
ユラは、迷いなくシオンを見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、シオンは小さく息を吐き、
まるで言葉を温めるように、ゆっくりと口を開く。
「……お前の人生だ」
その声は、低く、穏やかだった。
「俺が、代わりに決めるものじゃない」
視線は合わせないまま、けれど拒む気配はない。
そこにあるのは、手放すことを選んだ優しさだった。
ユラは胸の奥が、静かに満たされていくのを感じた。
◆
ユラは、今王の前に立っている。
肩の傷が、痛む。
それでも、あの路地裏よりは、ずっと暖かい。
人として立つことを、ここで捨てるわけにはいかなかった。
だからこそ。
ここで嘘は、つけなかった。
ユラは、深く息を吸い、顔を上げた。
玉座の光が、視界を白く滲ませる。
それでも、視線は逸らさない。
「――それで」
王の声が、落ちた。
問いではない。
続きを促すでもない。
ただ、処理を始める前の確認のような響きだった。
「夜織を辞めたい、と」
その一言で、場の空気が引き締まる。
ユラは、もう一度、はっきりと頷いた。
「夜織である以上、終わりは死だ」
王の声に、揺らぎはない。
光の奥で、王は感情を見せない。
――それは、選択ではなかった。
「辞めたいというなら――死を選べ」




