第26話 死ね、と言われた夜
玉座の前に、ユラはひとり立っていた。
その視界の端に、横たえられた少女の姿がある。
白金の淡い光に包まれ、
静かに眠るような少女――
精霊の少女、ティアラ。
その傍らに、黒衣の男が立っていた。
夜織の副隊長、カイ。
その視線は、一度も少女から逸れなかった。
肩から腕にかけて、ユラの血は、まだ乾ききっていなかった。
応急処置だけは施してきたが、包帯の下で、じくじくと熱が残っている。
自ら王宮を訪れた。
呼ばれたわけではない。
それでも、止められることはなかった。
玉座の傍らに、男がいた。
動かず、語らず、ただ空気だけを測るような目。
シオン・ヴァルグリム。
夜織の指導教官。
ユラが父のように慕う存在だった。
視線が合った、ほんの一瞬。
ユラは、反射的に目を伏せた。
「――申し上げます」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「私は、夜織である資格がありません」
息を整える、わずかな間。
「夜織を、辞めさせてください」
王の前で、頭を下げる。
「私はもう、自分の心を、裏切りたくないのです」
胸の奥が、わずかに震えた。
それでも、視線は逸らさない。
返答は、なかった。
その沈黙の中で、腕の痛みが、遅れて意識に浮かび上がる。
血の匂い。
熱。
鈍い疼き。
――それが、過去を引き寄せた。
◆
足音が近づく。
体が、勝手に強張った。
叱責よりも早く、手が飛んでくる。
殴られる場所は、いつも服の下だった。
ユラは、孤児だった。
両親を失い、父の弟の家に引き取られた。
狭い家だった。
湿った壁。
薄暗い食卓。
女は、よく苛立っていた。
火がつかない。
皿が欠ける。
子供が泣く。
理由なんて、それで十分だった。
声を上げても、誰も来なかった。
ある日、食器棚に皿を戻そうとして、手が滑った。
乾いた音がして、白い破片が床に散らばる。
女の足音が、近づいた。
ユラは、その場から動けなかった。
謝る言葉は、喉の奥で固まっていた。
叩かれる――
そう思った瞬間。
女の手が伸びるより先に、視界の端に、刃があった。
食卓の上に置かれていた、小さな果物ナイフ。
気づけば、手が伸びていた。
女の腕が振り下ろされるのと、同時だった。
短い悲鳴。
刃は、女の腕を浅く裂いた。
赤い線が浮かび、血が滲む。
その場に、静寂が落ちた。
女は目を見開き、ユラを見た。
信じられないものを見るような顔だった。
ユラは、ナイフを落とした。
床に転がる音が、やけに大きく響いた。
ここにいたら、いつか死ぬ。
ユラは、初めてそう思った。
その夜、ユラは家を出た。
誰にも告げず、振り返らずに。
◆
路地裏は、冷え切っていた。
昼と夜で、匂いが変わる。
腐った果物、湿った布、古い血の気配。
腹が鳴る音が、嫌だった。
生きている証のはずなのに、恥のように感じた。
拾ったものを売るとき、ユラは値段を聞く前に頭を下げた。
安くても、文句を言う気はなかった。
同じ場所に、似たような子供たちが集まっていた。
誰も笑わない。名前も、あまり呼ばない。
朝になって、誰かがいなくなっていても、深くは探さない。
そういう場所だった。
ある日、露天の前で立ち止まった。
焼きたてのパンの匂いが、風に乗って流れてくる。
袋に入れられたそれは、まだ温かそうだった。
考えるより先に、手が伸びた。
指先が、袋に触れる。
次の瞬間、手首を掴まれた。
強い力だった。骨がきしむ。
顔を上げると、男が立っていた。
感情の読めない目。
背が高く、無駄のない立ち姿。
シオン・ヴァルグリム。
その名を、ユラが知るのは、まだ先のことだ。
「腹が減っているのか」
低い声だった。
ユラは、答えなかった。
否定もしなかった。
男は、掴んでいた手を離すと、袋をひとつ差し出した。
「それを持っていけ」
袋は、温かかった。
その熱を、ユラは、なかなか手放せなかった。
気づけば、男の後を歩いていた。
来いとも、付いてくるなとも言われていない。
それでも、足は止まらなかった。
男が足を止める。
「行き場がないなら、共に来るか」
そこに強制はなかった。
ユラは、短く頷いた。
――そうして。
戻る場所を、初めて得た。
◆
シオンについて行った、その日から。
ユラは、剣を教わった。
魔術を叩き込まれた。
厳しかった。
だが、捨てられることはなかった。
眠る場所があった。食事があった。名を呼ばれることがあった。
――それだけで、世界は、変わった。
気づけば。
ユラは、いつもその背中を追っていた。
だからこそ――
ユラは、夜織に入りたいと願い出た。
シオンは、即座に首を横に振った。
夜織に入れば、
いつか死ぬ。
それを、誰より知っている顔だった。
それでも、ユラは引かなかった。
ユラは、迷いなくシオンを見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、シオンは小さく息を吐き、
まるで言葉を温めるように、ゆっくりと口を開く。
「……お前の人生だ」
その声は、低く、穏やかだった。
「俺が、代わりに決めるものじゃない」
視線は、最後まで合わなかった。
喉の奥が、熱くなった。
◆
ユラは、今王の前に立っている。
肩の傷が、痛む。
もう一度、名前のないものになるくらいなら。
だからこそ。
ここで嘘は、つけなかった。
ユラは、深く息を吸い、顔を上げた。
玉座の光が、視界を白く滲ませる。
それでも、視線は逸らさない。
「――それで」
王の声が、落ちた。
問いではない。
続きを促すでもない。
ただ、処理を始める前の確認のような響きだった。
「夜織を辞めたい、と」
その一言で、場の空気が引き締まる。
ユラは、もう一度、はっきりと頷いた。
「夜織である以上、終わりは死だ」
王の声に、揺らぎはない。
光の奥で、王は感情を見せない。
――それは、選択ではなかった。
「夜織を辞めたいのなら」
王の声は、最後まで揺れなかった。
「死ね」




