第21話 選んだ距離
その頃――王都では。
光の帰還は、静かすぎるほど静かに迎えられていた。
まだ、命は下っていない。
◆
森の空気が、ゆっくりと色を変え始めていた。
夜の名残を含んだ青が、木々の隙間から淡くほどけていく。
霧はまだ地を這っている。
けれど、その輪郭は曖昧になり、朝に居場所を譲ろうとしていた。
リアンは、冷えた地面の感触で目を覚ました。
背中にあるのは、草と土の硬さだけだ。
身体を覆うものはなく、夜気をそのまま受け止めていたせいか、指先にわずかな強張りが残っている。
息を吸う。
白くはならない。
それでも、冷たさは確かに肺の奥に残った。
──朝だ。
焚き火は、すでに火を失っている。
炭が黒く崩れ、かすかな焦げの匂いだけが、夜の名残として漂っていた。
夢の余韻が、まだ意識の底に引っかかっている。
霧。
距離。
届かない背中。
内容は曖昧なのに、感覚だけが異様にはっきりしていた。
リアンは、ゆっくりと上体を起こす。
少し離れた場所で、枝を踏む音がした。
振り向くと、クラウスが立っている。
剣を肩に担ぎ、周囲を一瞥しながら、すでに森の様子を確認していた。
「起きたか」
「……ああ」
それだけのやり取り。
朝の森は、言葉を多く必要としない。
クラウスは焚き火跡に視線を落とし、短く息を吐いた。
「外から動きはない。今のところはな」
その「今のところ」が、どれほど脆いものか。
互いに、言葉にしなくても理解していた。
リアンは立ち上がり、軽く身体を動かす。
眠りは浅かったが、意識は澄んでいる。
視線を巡らせると、仲間の姿があった。
リリスは、少し離れた木の根元に腰を下ろしている。
背を丸め、膝を抱えるような姿勢だが、眠ってはいない。
狐耳が、かすかに動いた。
「……おはようございます」
小さな声。
朝の空気に溶けるような調子だった。
「おはよう」
リアンが答えると、リリスは小さく頷く。
その視線が、森の奥へと向いた。
誰かを探しているわけではない。
ただ、周囲を確かめるための仕草だ。
さらに視線を動かす。
ティアラは、焚き火跡の向こうに座っていた。
地面に直接腰を下ろし、両手を膝の上に置いている。
夜のあいだ、身体を温めるものはなかったはずだ。
それでも、姿勢は崩れていない。
朝の淡い光が、銀の髪に触れ、静かに反射していた。
ティアラは、リアンの視線に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
「……おはよう」
声は少し掠れている。
「寒くなかったか」
「少しだけ。でも、大丈夫」
即答だった。
無理をしているわけではない――そういう答え方だ。
リアンは、それ以上踏み込まなかった。
焚き火の残り香が、朝の空気に薄れていく。
森が、完全に目を覚まし始めていた。
鳥の声。
葉を渡る風。
夜とは異なる、現実の音。
その少し後ろ――
木立の影に、ユラが立っている。
夜とほとんど同じ位置。
全員の動きが視界に収まる場所だ。
剣には触れていない。
腕も組まず、ただ立っている。
視線が合う。
感情は読み取れない。
だが、そこにいるという事実だけは、はっきりと伝わってきた。
リアンは、短く息を吐く。
昨夜の均衡は、まだ保たれている。
だが、時間は確実に進んでいた。
「……さて」
クラウスが、森を見回しながら口を開く。
その動きに合わせるように、木立の影でユラの視線もわずかに揺れた。
「いつまでも、ここにいるわけにはいかない」
当然の言葉だった。
誰も反論しない。
「進路を決める必要がある」
その一言で、空気がわずかに引き締まった。
ティアラが、静かに視線を落とす。
精霊国には戻れない。
王都は、追われる。
安全な場所は、ない。
リリスが、控えめに口を開いた。
少し考えるように視線を伏せてから――
「……アルシェ家、でしょうか」
その声は、確信というより――
不安から絞り出したようだった。
名前が出た瞬間、空気が変わる。
クラウスは、わずかに視線を伏せた。
「あそこに、父上を残したままだ」
一拍置いて、クラウスは続けた。
「あそこなら、古い記録が残っている。図書塔もある」
リアンは、その言葉を胸の奥で反芻する。
アルシェ家。
夜織。
ティアラを匿ったことで、すでに王命に逆らったと見なされる可能性がある。
そこへ向かうということは――
その選択に、足を踏み入れるということだ。
リアンは、一瞬だけ視線を落とした。
アルバートを、アルシェ家に残してきた。
あれは、選んだ結果だった。
だが同時に――背を向けた、という事実でもある。
王命に背いたと見なされれば、責は、彼の方に向かうかもしれない。
何も起きていないと信じたい。
だが、そう断言できる材料は、どこにもなかった。
胸の奥に、冷たいものが残る。
それでも、振り返らなかった。
朝の森の音が、ゆっくりと意識に戻ってくる。
その沈黙を、別の角度から切り取るように――
誰かが言葉を発する気配を、リアンは感じ取った。
現実に引き戻すような、低い声で――
「……光の器を解く手がかりがあるとすれば、精霊核に関わるはずだ。だが、きっと代償のない話じゃない」
クラウスの声は淡々としていた。
だが、それが容易でないことは、全員が分かっている。
ティアラが、ゆっくりと顔を上げた。
「私のせいで……」
言葉が、途中で途切れる。
一瞬、空気が止まった。
その先を言わせる前に、リアンが口を開いた。
「違う」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
ティアラは一瞬、驚いたように目を瞬かせる。
それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
けれど、その表情から迷いが消えたわけではない。
守られたことで、誰かを危険に晒しているかもしれない。
その事実を、彼女は理解している。
リアンも同じだった。
王命。
選択の重さ。
ここにいるだけで、誰かを巻き込んでいる。
それでも。
「行こう」
そう言ったのは、クラウスだった。
一瞬だけ、視線を伏せてから――
「止まっていれば、決められる。動けば、選べる」
単純で、厳しい現実。
リリスが、小さく頷く。
「……私も、行きます」
ユラは、何も言わない。
だが、その立ち位置が答えだった。
ティアラは、わずかに視線を彷徨わせたあと、リアンを見る。
問いかけるような目。
リアンは、静かに頷いた。
「無理はしなくていい」
昨夜と同じ言葉。
だが、朝の光の中では、少し違って響いた。
「……側にいるから」
一瞬、ティアラの瞳がわずかに揺れる。
息を呑むように瞬きをしてから、そっと口元を緩めた。
そして、静かに頷く。
森の奥で、朝が完全に息をする。
焚き火跡を振り返る者はいない。
均衡は、まだ保たれている。
だがそれは、選び続けなければすぐに崩れるものだと、全員が理解していた。
彼らは、歩き出す。
朝の森へ。
均衡は、まだ保たれている。




