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第21話 選んだ距離

 その頃――王都では。

 光の帰還は、静かすぎるほど静かに迎えられていた。

 まだ、命は下っていない。



 森の空気が、ゆっくりと色を変え始めていた。

 夜の名残を含んだ青が、木々の隙間から淡くほどけていく。

 霧はまだ地を這っている。

 けれど、その輪郭は曖昧になり、朝に居場所を譲ろうとしていた。

 リアンは、冷えた地面の感触で目を覚ました。

 背中にあるのは、草と土の硬さだけだ。

 身体を覆うものはなく、夜気をそのまま受け止めていたせいか、指先にわずかな強張りが残っている。

 息を吸う。

 白くはならない。

 それでも、冷たさは確かに肺の奥に残った。


 ──朝だ。


 焚き火は、すでに火を失っている。

 炭が黒く崩れ、かすかな焦げの匂いだけが、夜の名残として漂っていた。


 夢の余韻が、まだ意識の底に引っかかっている。

 霧。

 距離。

 届かない背中。

 内容は曖昧なのに、感覚だけが異様にはっきりしていた。


 リアンは、ゆっくりと上体を起こす。

 少し離れた場所で、枝を踏む音がした。

 振り向くと、クラウスが立っている。

 剣を肩に担ぎ、周囲を一瞥しながら、すでに森の様子を確認していた。


「起きたか」 


「……ああ」


 それだけのやり取り。

 朝の森は、言葉を多く必要としない。

 クラウスは焚き火跡に視線を落とし、短く息を吐いた。


「外から動きはない。今のところはな」


 その「今のところ」が、どれほど脆いものか。

 互いに、言葉にしなくても理解していた。

 リアンは立ち上がり、軽く身体を動かす。

 眠りは浅かったが、意識は澄んでいる。

 視線を巡らせると、仲間の姿があった。

 リリスは、少し離れた木の根元に腰を下ろしている。

 背を丸め、膝を抱えるような姿勢だが、眠ってはいない。

 狐耳が、かすかに動いた。


「……おはようございます」


 小さな声。

 朝の空気に溶けるような調子だった。


「おはよう」


 リアンが答えると、リリスは小さく頷く。

 その視線が、森の奥へと向いた。

 誰かを探しているわけではない。

 ただ、周囲を確かめるための仕草だ。

 さらに視線を動かす。

 ティアラは、焚き火跡の向こうに座っていた。

 地面に直接腰を下ろし、両手を膝の上に置いている。

 夜のあいだ、身体を温めるものはなかったはずだ。

 それでも、姿勢は崩れていない。

 朝の淡い光が、銀の髪に触れ、静かに反射していた。

 ティアラは、リアンの視線に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。


「……おはよう」 


 声は少し掠れている。

 

「寒くなかったか」


「少しだけ。でも、大丈夫」


 即答だった。

 無理をしているわけではない――そういう答え方だ。

 リアンは、それ以上踏み込まなかった。


 焚き火の残り香が、朝の空気に薄れていく。

 森が、完全に目を覚まし始めていた。

 鳥の声。

 葉を渡る風。

 夜とは異なる、現実の音。


 その少し後ろ――

 木立の影に、ユラが立っている。

 夜とほとんど同じ位置。

 全員の動きが視界に収まる場所だ。

 剣には触れていない。

 腕も組まず、ただ立っている。

 視線が合う。

 感情は読み取れない。

 だが、そこにいるという事実だけは、はっきりと伝わってきた。

 リアンは、短く息を吐く。

 昨夜の均衡は、まだ保たれている。

 だが、時間は確実に進んでいた。


「……さて」


 クラウスが、森を見回しながら口を開く。

 その動きに合わせるように、木立の影でユラの視線もわずかに揺れた。


「いつまでも、ここにいるわけにはいかない」


 当然の言葉だった。

 誰も反論しない。


「進路を決める必要がある」


 その一言で、空気がわずかに引き締まった。

 ティアラが、静かに視線を落とす。

 精霊国には戻れない。

 王都は、追われる。

 安全な場所は、ない。

 

 リリスが、控えめに口を開いた。

 少し考えるように視線を伏せてから――


「……アルシェ家、でしょうか」


 その声は、確信というより――

 不安から絞り出したようだった。


 名前が出た瞬間、空気が変わる。

 クラウスは、わずかに視線を伏せた。


「あそこに、父上を残したままだ」


 一拍置いて、クラウスは続けた。


「あそこなら、古い記録が残っている。図書塔もある」


 リアンは、その言葉を胸の奥で反芻はんすうする。

 アルシェ家。

 夜織。

 ティアラを匿ったことで、すでに王命に逆らったと見なされる可能性がある。

 そこへ向かうということは――

 その選択に、足を踏み入れるということだ。


 リアンは、一瞬だけ視線を落とした。

 アルバートを、アルシェ家に残してきた。

 あれは、選んだ結果だった。

 だが同時に――背を向けた、という事実でもある。


 王命に背いたと見なされれば、責は、彼の方に向かうかもしれない。

 何も起きていないと信じたい。

 だが、そう断言できる材料は、どこにもなかった。

 胸の奥に、冷たいものが残る。

 それでも、振り返らなかった。

 朝の森の音が、ゆっくりと意識に戻ってくる。


 その沈黙を、別の角度から切り取るように――

 誰かが言葉を発する気配を、リアンは感じ取った。

 現実に引き戻すような、低い声で――


「……光の器を解く手がかりがあるとすれば、精霊核に関わるはずだ。だが、きっと代償のない話じゃない」


 クラウスの声は淡々としていた。

 だが、それが容易でないことは、全員が分かっている。

 ティアラが、ゆっくりと顔を上げた。


「私のせいで……」


 言葉が、途中で途切れる。

 一瞬、空気が止まった。

 その先を言わせる前に、リアンが口を開いた。


「違う」


 短い言葉。

 それだけで、十分だった。

 ティアラは一瞬、驚いたように目を瞬かせる。

 それから、小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


 けれど、その表情から迷いが消えたわけではない。

 守られたことで、誰かを危険に晒しているかもしれない。

 その事実を、彼女は理解している。

 リアンも同じだった。

 王命。

 選択の重さ。

 ここにいるだけで、誰かを巻き込んでいる。

 それでも。


「行こう」


 そう言ったのは、クラウスだった。

 一瞬だけ、視線を伏せてから――


「止まっていれば、決められる。動けば、選べる」


 単純で、厳しい現実。

 リリスが、小さく頷く。


「……私も、行きます」


 ユラは、何も言わない。

 だが、その立ち位置が答えだった。

 ティアラは、わずかに視線を彷徨わせたあと、リアンを見る。

 問いかけるような目。

 リアンは、静かに頷いた。


「無理はしなくていい」 


 昨夜と同じ言葉。

 だが、朝の光の中では、少し違って響いた。


「……側にいるから」


 一瞬、ティアラの瞳がわずかに揺れる。

 息を呑むように瞬きをしてから、そっと口元を緩めた。

 そして、静かに頷く。

 森の奥で、朝が完全に息をする。

 焚き火跡を振り返る者はいない。

 均衡は、まだ保たれている。

 だがそれは、選び続けなければすぐに崩れるものだと、全員が理解していた。

 彼らは、歩き出す。

 朝の森へ。


 均衡は、まだ保たれている。



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