第21話 崩れる結界、繋がる真実
――その頃。
王宮で光が閉じた、ほぼ同じ時刻。
最初に異変に気づいたのは、アルバートだった。
胸の奥を、針でなぞられたような痛みが走る。
それが何を意味するか、考えるまでもなかった。
屋敷を包んできた結界が――
外側から、削られている。
破壊ではない。
衝突でもない。
精密に、静かに、結界そのものが削り取られていく感覚。
「……来たか」
呟きは、息と同じ高さで零れた。
窓の外は変わらず静かだった。
風もない。
足音もない。
結界が削られているのに、何も起きていない。
静かだった。
だからこそ、
異常だった。
アルバートは、ゆっくりと息を吐いた。
夜織。
その名が、思考の底に沈む。
同時に、ユラも悟っていた。
空気が、薄く歪んでいる。
もう、止まらない。
王命が、動き出した。
夜織。
捕縛対象。
――ティアラ。
「エルフィナ」
アルバートは、即座に名を呼んだ。
「使用人たちは、屋敷地下の避難区画へ。結界の内側に集めて、そのまま、守ってくれ」
指示は短く、断定的だった。
迷わせる時間はない。
問い返しも、必要なかった。
エルフィナは一瞬だけ唇を噛み、それから深く、強く頷いた。
「了解しました」
踵を返す音が、やけに大きく響いた。
アルバートは屋敷中央へと歩み出る。
アルシェ家中央ホール。
吹き抜けになった大広間だった。
中央では、
アルバートが結界を支えていた。
その少し後方。
ティアラを庇うように、リリスが立っていた。
さらに、その斜め後ろ。
ユラが、無言のまま周囲を警戒している。
両手を広げ、
アルバートは結界へ意識を集中させた。
――クラウスが張った結界。
若いが、精度が高い。
厚く、無駄がない。
本来なら、ここまで一方的に侵食されるような結界ではなかった。
アルバートは、即座に自分の魔力を重ねる。
崩れた箇所を縫い直すように、 光を流し込む。
――だが。
「……っ」
馴染まない。
結界が、拒絶している。
縫い合わせるはずの光が、触れた瞬間、崩れていく。
押し込む。
さらに魔力を注ぎ込む。
だが、止まらない。
光の膜に、細い亀裂が走った。
一筋。
また一筋。
蜘蛛の巣のように、静かに、確実に。
そこで初めて、悟る。
足りない。
強度ではない。
構造でもない。
――質が、違う。
「っ……!」
呼吸が、上手くできない。
結界へ触れる指先が、冷えていく。
修復できない。
押し返せない。
侵食が、止まらない。
ありえない。
こんな壊れ方は、知らない。
クラウスの結界は、
こんなふうに崩れるものじゃない。
なのに。
壊されている。
静かに。
一方的に。
その瞬間だった。
リリスが、迷いなく一歩前に出た。
小さな身体が、反射的にティアラの前へ滑り込む。
盾になるつもりだった。
考えではなく、身体がそう動いた。
背中越しに、ティアラの呼吸が震えているのが分かった。
「ティアラ……」
声は、震えていない。
けれど、震えを押し殺しているのが、はっきりと分かった。
「お母様のところへ行って、一緒に隠れていて下さい」
少しだけ、言葉を探す。
「……ここは、私が――」
ティアラは、静かに首を振った。
「いいえ」
小さな声。
けれど、曖昧さはなかった。
リリスが、思わず振り返る。
「私は……隠れない」
指先が震えている。
怖くないわけじゃない。
それでも。
「逃げたくないの」
その言葉に、結界が――
わずかに、軋んだ。
誰かが触れたわけじゃない。
攻撃されたわけでもない。
なのに。
光の膜が、
小さく、震えた。
結界が、悲鳴を上げる。
音ではなかった。
圧でもなかった。
――成立が、崩れる感覚。
光の膜が、
ゆっくりと沈んでいく。
息を呑む間すら、なかった。
――壊れる。
そう理解した瞬間には、もう遅かった。
爆発ではない。
光が、吸い取られる。
光が、消えた。
違う。
消えたんじゃない。
――消された。
次の瞬間、
屋敷から“守り”という概念そのものが剥がれ落ちた。
空気が、一瞬の空白を置いて戻り、屋敷全体が、肺を潰されたように軋んだ。
ホール正面の壁が、外側から押し開かれる。
音を立てず、影だけが流れ込んでくる。
黒。
黒。
黒。
夜織。
侵入ではない。
処理開始だった。
黒装束の夜織たちが、無言のまま広間へ散開する。
吹き抜け二階へ二人。
正面出入口に三人。
階段前にも黒装束が立つ。
退路を、先に潰していた。
一切の無駄なく、制圧位置へ配置されていく。
逃がさない。
そのためだけの陣形だった。
黒装束たちは、無言のまま動かない。
けれど。
空気だけで分かる。
一歩でも動けば、始まる。
誰も、声を発さない。
その静寂を割るように、
一人の男だけが歩いてくる。
床を踏む音は、やけに静かだった。
漆黒の髪。
灰銀色の瞳。
人を見る目ではなかった。
視線が、屋敷の中央を一巡する。
アルバート。
リリス。
ティアラ。
ユラ。
――感情は、そこになかった。
「夜織副隊長、カイ」
それだけを告げる。
「精霊の少女を引き渡してください」
声は低く、平坦。
怒気も、威圧も、焦りもない。
まるで、
決定事項を読み上げるだけの声だった。
「それが確認でき次第、この場は終了します」
一瞬の処理のあと、カイの瞳が、ティアラに定まる。
「拒否が選択される場合」
ほんの僅か、首が傾いた。
「――排除工程に移行します」
脅しではない。
本当に、 “次の工程”なだけだった。
その場の空気が、沈む。
音が、一段落ちる。
ユラの足が、無意識に前へ出る。
止めるつもりだったのか。
庇おうとしたのか。
自分でも、分からない。
「……っ」
魔力が、反射的に立ち上がる。
――だが。
そこで、止まった。
違う。
止められたんじゃない。
迷った。
その一瞬で、
終わった。
その、生死を分けるには十分すぎる迷いを、
カイは見逃さなかった。
カイが、踏み込んでいた。
たった一歩。
それだけで、空間が変質する。
――《夜織・零式封鎖》。
攻撃ではない。
破壊でもない。
ただ。
――成立しない。
それだけが、空間を支配していた。
魔力の流れが、鈍る。
判断と反射が、噛み合わない。
アルバートは、迎撃術式を起動する。
――発動しない。
一瞬、理解が遅れた。
術式が、閉じている。
最後の一手だけが、どうしても繋がらない。
指先が、空を切る。
――失敗。
最初から、成功という結果だけが存在していなかった。
カイは、その様子を一瞥しただけだった。
「……抵抗の兆候を確認」
淡々と、事実を処理する。
次の瞬間。
黒い影が、アルバートの目前にあった。
「《無名処断》」
技名だけが、落ちる。
踏み込み。
それだけ。
剣は、見えなかった。
斬撃の軌跡も、残らない。
次の瞬間には、すべてが断たれていた。
アルバートの身体から、力が抜け落ちる。
立てない。
指が、動かない。
魔力が――繋がらない。
膝が、床に触れた。
痛みは、ない。
なのに。
指一本、動かなかった。
カイは、もう見ていなかった。
倒れた存在は、
すでに盤面から外れている。
次に視線が向く。
――ティアラ。
カイの瞳が、僅かに細まる。
判断。
犠牲数。
成功率。
感情ではなく、計算。
「……保護対象、確保可能」
静かに、告げた。
◆
光が、閉じている。
王家封蔵庫。
クラウスは、肌で理解していた。
――屋敷の結界が、完全に破壊された。
「……くそっ」
光の檻から抜け出そうと、力を解放する。
だが。
結界は、揺らぎすら見せない。
ヒビひとつ、走らない。
「っ……!」
もう一度。
さらに、もう一度。
衝撃が封蔵庫を打ち、壁龕が震え、古い書物が次々と床へ落ちる。
鈍く、乾いた音。
「っ」
リアンの肩に、硬い感触。
足元へ転がった書物が、衝撃で開かれる。
リアンは、無意識に視線を落とした。
――その瞬間、思考が止まる。
そこにあったのは、家系図。
アストラル王国
国王 ヴァレスト
生年:アストラル暦 1754年 6月21日
第六王妃 リュミエル(没)
生年:アストラル暦 1762年 4月10日
死亡:アストラル暦 1781年 3月13日
長女 ――(没)
生年:アストラル暦 1780年 4月10日
死亡:同日
長男 レイヴン
生年:アストラル暦 1781年 3月13日
次男 リアン(没)
生年:アストラル暦 1781年 3月13日
死亡:同日
――死亡。
その二文字が、視界に焼きつく。
違う。
違わない。
消されたのは、過去じゃない。
今もだ。
俺は――
最初から、いなかったことにされていた。
指先が、わずかに震えた。
視線が、次の行へと滑る。
第六王妃 リュミエル(没)
――死亡日。
長男 レイヴン
――生きている。
次男 リアン(没)
――俺は、死んでいることになっている。
……同じ日。
息が、止まる。
母は、この日に死んだ。
俺と、同じ日に。
産んで、死んだ。
――そういうことか。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
双子。
俺と、レイヴンは――同じ日に生まれた。
なのに。
片方は王子として生き、片方は、死んだことにされた。
選ばれた光。
葬られた影。
どうして。
どうして、俺だった。
どうして。
――レイヴンじゃなかった。
そう思った瞬間。
胃の奥が、ひっくり返りそうになった。
違う。
そんなこと、思いたいわけじゃない。
どうして、
俺じゃなくて、
レイヴンが死ねばよかったなんて―─
――違う。
そんなこと、思いたいわけじゃない。
俺の方が、 不要だったのか。
問いが、形にならないまま、頭の中を巡る。
理由を探そうとする思考そのものが、
すでに、無意味だと告げられているようだった。
――残されたのは、レイヴンで。
消されたのは、俺だった。
その事実だけが、冷たく残る。
文字が、視界の中心で歪む。
心臓の音だけが、
やけに大きかった。
呼吸が、上手くできない。
ただ。
“死亡”
の二文字だけが、
頭の中で反響していた。
夜織襲撃の夜。 第七王子と呼ばれた、自分。
アルバートが、いつも核心を語らなかった理由。
すべてが、一本の線で繋がった。
――俺は。
最初から、
存在していなかったのか。
息が、浅くなる。
クラウスは、リアンの異変に気づき、視線を追う。
そして、一瞬で理解してしまった。
――昔の記憶が、脳裏に滲む。
まだ、クラウスが二歳だった頃。
病弱だった母が、ある日、静かに赤ん坊を抱いていた。
淡い光を映す湖畔の部屋。
窓辺に立つ母の髪は、深い栗色で、柔らかな波を描いていた。
淡色のドレスは装飾が少なく、けれど不思議と品があった。
振り返った母の瞳は、淡い琥珀色。
いつものように、穏やかな微笑みを浮かべている。
その腕の中で、赤ん坊が抱かれていた。
湖の光を反射して、透き通るような青い瞳だけが、はっきりと記憶に残っている。
「クラウス、今日からお兄ちゃんよ」
声は静かで、押しつける響きがなかった。
命令でも、願いでもない。
ただ、事実を告げるような口調。
「リアンを、守ってあげてね」
それ以上、何も言わなかった。
犠牲になれとも、責任を負えとも言わない。
――でも。
幼かった。
なのに、 あの時の母の目だけは、 今でも忘れられない。
小さな指先。
折れてしまいそうで、触れることをためらった。
それでも、赤ん坊は屈託なく笑った。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
消えない感触が、そこに残った。
母は、多くを語らなかった。
けれど。
あの人はいつも、 “選ばせる人”だった。
それが、リディア・アルシェという女性のやり方だった。
それからずっと。
クラウスは、兄として生きてきた。
血の繋がりが、近くはないことも、わかっていた。
けれど、共に過ごした年月が、すべてだった。
――今のリアンは。
この事実を、受け止められているのか。
光の檻の中。
脱出は、不可能。
外では、 ティアラが狙われている。
分かっている。
分かっているのに、 指一本、届かない。
クラウスは、歯を食いしばり、思考を巡らせる。
アルシェ家では、夜織副隊長カイが動いている。
感情を削ぎ落とした処刑具。
盤面しか見ない男。
そして今。
その中心にいるのは――
ティアラだ。




