第18話 精霊王セラフィオン ― 裁定
それは、侵入だけによる反応ではなかった。
霧の回廊の奥。
理の境界で、ひとつの精霊核が――
拒絶を受け入れたまま、なお前へ進む選択をした。
守られる側ではなく、切り離される側を、自ら選んだ存在。
その在り方は、あまりにも古い。
かつて、一度だけ見た光と、同じだった。
だからこそ。
理は、応えざるを得なかった。
聖域が、応えた。
侵入を認識し、均衡が崩れたことを、理が受理した結果として。
光が、降りてきた。
音はない。
足音も、気配も、予兆すらなく。
だが――
その瞬間、リアンの呼吸が、止まった。
(……重い)
空気ではない。
圧ではない。
この場にある“理”そのものが、静かに位置を定めに来た――そんな感覚。
無意識に、足に力が入る。
抗うためではなく、ここに立っていることを、保つために。
周囲も、同じだった。
誰一人、動かない。
声を発するという発想そのものが、遠のいていく。
空間そのものが“整えられる”。
聖域の空気が一段澄み、同時に、選択肢だけが削られていった。
泉の水面が、静かに割れた。
白金の光が立ち上がり、人の形を成す。
背に宿るのは、巨大な翼。
白を基調に、七色の光がゆっくりと混じり合い、ほどけ、また収束する。
固定された形ではない。
光そのものが、意志を持って揺らいでいる。
精霊王セラフィオン。
ルミナシアの理、そのもの。
精霊王セラフィオンの視線が、最初に留まったのは ――リアンでも、聖域でもなかった。
小さな少女。
未完成の光を宿した、ひとつの精霊核。
その奥に、かつて“支え続けた光”の名残を見つけた瞬間、セラフィオンは理解した。
――語られなかった沈黙の理由を。
「混血が生きている理由は、まだあるのか」
声は低く、静かで、感情を含まない。
問いかけでありながら、答えを期待していない声音だった。
ティアラは、一歩も下がらなかった。
涙も、弁明も、願いもない。
ただ、真っ直ぐに立つ。
「……あります」
震えはなかった。
「私は、生きています」
それだけ。
生きていること自体が理由だと、そう告げる声。
聖域の光が、わずかに揺れた。
だが、精霊王の表情は変わらない。
「生存は理由にならない」
淡々とした断定。
「お前は禁忌だ。個の生命としても、国の理としても」
背後で、精霊文字が浮かび上がる。
処分。
隔離。
再利用。
いずれも感情を排した、選択肢。
――その中に、“救済”はない。
ティアラは、奥歯を噛みしめた。
視線の先。
泉の奥、光に包まれた聖域。
横たわる母の姿が、脳裏に浮かぶ。
眠りに近い、動かぬ身体。
呼びかけても、今は応えのない存在。
「……母は」
声が、わずかに掠れた。
「まだ、生きていますよね」
精霊王は、即答しなかった。
沈黙そのものが、答えだった。
「生きている」
やがて告げられた言葉は、冷たい。
「だが、この封印は王命だ。
今、解けば――
その精霊核は耐えられない」
ティアラの胸が、静かに沈む。
「連れ出せば、死ぬ。それだけのことだ」
事実の提示。
脅しでも、説得でもない。
ティアラは、目を閉じた。
胸の奥で、何かが確かに折れる感覚があった。
今は、救えない。
理解してしまったからこそ、涙は出なかった。
だが、彼女は目を開く。
視線に、揺らぎはない。
今ではない。
けれど、終わりでもない。
誓いだけが、胸に残った。
リアンの喉が、ひくりと鳴った。
最初から、決まっていた。
裁くために来た。
聞く気など、最初からない。
それでも――
リアンは、前に出た。
精霊王の視線が、初めてティアラから外れる。
冷たい光が、リアンを捉えた。
「人間が、口を挟む場ではない」
「王なら」
リアンは、目を逸らさなかった。
「王なら、答えろ」
空気が、張り詰める。
下位精霊たちの光が、一斉に硬化した。
だが、セラフィオンは止めない。
「答えとは何だ」
「処分か、利用かしかないって言うなら」
リアンの声は低い。
「それは、国を守る判断じゃない。
弱さを切り捨てて、楽な方へ逃げてるだけだ」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、光が脈打った。
怒りではない。
だが、無関心でもない。
「……その物言い」
精霊王は、リアンを静かに見据えた。
「権力の内側を知る者のものだ」
リアンの背筋が、僅かに強張る。
精霊王は、それ以上踏み込まない。
名も、出自も、断定しない。
ただ――
理解したという沈黙だけを残す。
彼は、再びティアラを見る。
「選べ」
簡潔だった。
「ここで処分されるか」
沈黙。
「あるいは――
王国のための“器”として、生きるか」
リリスは、唇を噛みしめ、クラウスは視線を逸らさず、ユラだけが、精霊王とティアラの間を静かに測っていた。
ざわめきが、聖域を走る。
器。
意思を持たない媒介。
生きてはいるが、生きてはいない存在。
ティアラは、静かに息を吸った。
背中で、かすかな光が揺れる。
結晶翼は、まだ形にならない。
だが、拒絶するように光が散った。
「……どちらも、選びません」
精霊王の視線が、わずかに細まる。
「第三の選択肢はない」
沈黙。
それは迷いではなく、確認だった。
「私は、救わなかった」
セラフィオンは、事実として告げる。
「救えば、理は学習する。
切り離されても、生きられると」
白金の翼が、静かに揺れた。
「それは例外では終わらない。
やがて、理の外に立つ者が“選択肢”になる」
視線が、ゆっくりと持ち上がる。
「私は王だ。一度の情で、世界を変える権限は持たない」
――妹は、理解していた。
だからこそ、逃げなかった。
それが、彼女の選択だった。
沈黙が落ちる。
聖域の光が、再び均衡を取り戻す。
理が、現在へと戻ってくる。
「――追放する」
短く、明確な宣告。
「精霊国への帰属を否定する」
「抹消は、保留とする」
ティアラは、目を伏せなかった。
「条件がある」
「二度と、精霊国に戻るな」
「精霊の力を、人間の国のために使うな」
「理を乱す行為が確認された場合――
次は、処分を保留しない」
慈悲ではない。
管理から外すという判断。
ティアラは、一歩、前に出た。
「……わかりました」
その声に、迷いはない。
リアンは、その横に立った。
触れはしない。
だが、離れるという選択肢だけが、最初から消えていた。
もう、戻れない。
だが、それでいい。
精霊王は、最後にレイヴンを見る。
光と光が、無言で触れ合う。
選ばない。
その意思だけが、確かに伝わった。
「行け」
聖域の光が、道を割る。
帰路ではない。
放逐のための通路。
霧の回廊が、静かに待っていた。
裁定は下った。
精霊国は、彼らを必要としない。
それでも――
ティアラは、歩き出した。
母を置き去りにしたのではない。
未来を、取り戻すために。
生きる場所を、初めて、自分で選んだ者として。




