第17話 前へ
足を止めたのが誰だったのか、分からなかった。
気づいたときには、全員が立ち止まっていた。
背後には霧がある。
振り返れば――戻れる距離だった。
リアンは、見なかった。
胸の奥に、あの感覚が残っている。
あの圧。
あの視線。
“選ばせる”という形の、拒絶。
終わっていない。
理由は分からない。
それでも――消えない。
夜の森は静かだった。
月明かりが、木々の隙間から落ちる。
風が揺れるたび、葉擦れがかすかに鳴る。
現実だった。
あまりにも、何もなさすぎるほどに。
「……ここでいいな」
クラウスが言う。
周囲を一度だけ見渡した。
「長居はできない。このまま進むのもまずい」
間を置かず、続ける。
「――アルシェ家に戻る」
決定だった。
「図書塔なら古い文献がある。光の器についても、何か拾えるかもしれない」
リリスの耳が、わずかに動く。
「……危険です」
リリスの声は小さい。
「夜織が、また来る可能性があります」
リリスが、わずかに息を詰める。
「……次は、守りきれる保証がありません」
クラウスは否定しない。
ただ、視線を流すだけだった。
「……他にあるか?」
それだけで十分だった。
誰も、答えを出せない。
ティアラが俯く。
指先に、わずかに力が入る。
「……私のせいで」
零れる。
「私が来たから、全部……」
「違う」
被せるように、リアンが遮った。
「ティアラのせいじゃない」
視線をティアラから逸らさない。
「……でも」
声が揺れる。
「私が来たから、夜織は動いた」
「……だから、どうした」
低く、押し返す。
「来なければよかったって言うのか」
言葉が、出ない。
「違うなら――勝手に決めるな」
「迷惑かどうかは、こっちで決める」
「来るなって言われてから、考えろ」
「それまでは――前だけ見てろ」
ティアラの呼吸が乱れる。
言葉が出ない。
目を閉じる。
ティアラの胸の奥で、何かが折れかける。
逃げれば、楽になる。
全部、終わる。
――何も、失わずに済む。
――違う。
それは“救い”じゃない。
ただの、破棄だ。
全部、切り捨てるだけの選択肢。
そこに未来はない。
――だから。
止まる。
呼吸が、一度だけ乱れる。
次の瞬間、整う。
顔を上げる。
「……行く」
小さい声だった。
「アルシェ家に行く」
ティアラの視線が、遠くへ向く。
もう届かない場所へ。
「……母を助ける方法、見つける」
息を吸う。
「……絶対に、見つけてみせる」
言葉が、落ちる。
「戻る。もう一度、精霊国へ」
逃げていない声だった。
「……だから、前に行く」
もう、揺れていない。
リアンは何も言わなかった。
それでいい。
クラウスが、短く息を吐く。
「決まりだな」
リリスが頷く。
ユラは動かない。
リアンを捉えた視線が、すぐに外れる。
その先にあるのは、クラウスの背中だった。
無意識か、意図か。
距離だけが、変わらない。
そのとき。
レイヴンが、一歩前に出た。
「俺は王都に戻る」
決定だった。
「……今か?」
クラウスが、低く問う。
「今だ」
間を置かず、返る。
ティアラの視線が、レイヴンへ向く。
一瞬だけ、揺れる。
レイヴンは、その目を見たまま――逸らさない。
「――まだ、終わっていない」
それが何を指すのか、誰も問わなかった。
光が、レイヴンの足元に集まる。
淡く、冷たい輝き。
空気が歪む。
次の瞬間、姿は消えた。
残ったのは、夜と――選んだ結果だけだった。
リアンは、背後を見ない。
霧は、そこにある。
あの先に、戻る理由はある。
だが――今じゃない。
方法もないまま、戻るわけにはいかない。
だから、進む。
少なくとも、隣にいる存在だけは、
絶対に、置いていかない。
「行こう」
短く告げる。
足を踏み出す。
止まるという選択肢は、もうどこにも残っていなかった。
◆
王宮は、夜でも静まり返っていた。
扉が、音もなく開いた。
ノックはない。
侍従が、一歩だけ部屋に入る。
不在のはずの主の部屋を、整えるために。
その足が――止まった。
「……え」
窓際に、影がある。
月光を背にして、
そこに立っているのは――レイヴンだった。
呼吸が、一瞬だけ乱れる。
おかしい。
戻られた報は、受けていない。
――そもそも、外出の記録自体がない。
だが。
目の前に、いる。
幻ではない。
気配も、立ち方も、間違えようがない。
「……レイヴン様」
声をかける。
わずかに遅れて、
レイヴンが振り向いた。
いつも通りの目だった。
何も映していないようで、
すべてを見ているような、あの静けさ。
「いつ、お戻りになられたのですか……」
問いかけながら、
侍従は自分の声に違和感を覚える。
“戻った”と、前提にしている。
だが本当に――そうなのか。
「最初から、ここにいる」
返ってきたのは、短い言葉。
それだけだった。
否定も、補足もない。
ただ――断定。
侍従は、わずかに息を止めた。
おかしい。
だが。
目の前の存在は、揺らがない。
言葉よりも、その“在り方”の方が、
強く現実を上書きしてくる。
――疑う理由が、消えていく。
いや。
消されているのかもしれない。
そこまで考えて、
侍従は思考を止めた。
「……失礼いたしました」
深く頭を下げる。
それ以上、何も言わない。
聞かない。
踏み込まない。
それが、この場で取るべき最適解だと、
身体が理解していた。
部屋を出る直前――
ほんの一瞬だけ、視線を上げる。
レイヴンは、窓際に立っていた。
夜の光が、淡くその輪郭を縁取っている。
動かない。
何もしていない。
ただ――
視線だけが、わずかに外を向いていた。
ほんの一瞬だけ、
誰かを思い出したように――
そう見えた気がしただけかもしれない。
その方向が、どこを捉えているのかまでは分からない。
王都の夜か。
それとも、もっと遠くか。
けれど。
ほんの一瞬だけ。
何かを“見ている”ようだった。
それが何かを、考える前に。
侍従は、静かに扉を閉めた。
廊下に出てからも、
侍従は一度も振り返らなかった。
違和感は、残っている。
だが――それ以上は考えない。
考えるべきではないと、
どこかで分かっていた。
部屋の中では。
レイヴンが、動かない。
窓の外。
王都の灯りを、ただ見ている。
足元に、わずかな光が宿る。
一瞬で消える。
痕跡は、残らない。
何も、残らない。
――それでいい。
そうでなければならない。
レイヴンは、目を閉じた。
次に開いたときには、
そこにあるのは――
いつもの、何もない静けさだけだった。




