第11話 決意、そして霧の回廊へ
消えた光の余韻が、まだ空気に残っていた。
その中で――
「……ありがとうございました」
小さな声が、落ちた。
ティアラだった。
視線が、一斉に集まる。
ティアラは、視線を伏せる。
胸元で、指先が静かに重なった。
リアンは、何も言わない。
ただ――
その言葉の奥を、測るように見ていた。
「……助けていただいて……本当に」
呼吸が揺れる。
ティアラは、顔を上げた。
「……私、ここを出ます」
「母を――助けに行きます」
空気が、止まる。
リアンの視線が、鋭くなる。
クラウスが、何も言わずに様子を見る。
リリスは、小さく息を呑んだ。
ティアラは、そのまま続ける。
「……母が、まだ精霊国にいるんです」
その言葉に、場の空気がわずかに揺れた。
「……助けに、行かなくてはいけません」
指先が、震えていた。
もう、時間がない。
その焦りだけが、静かに滲んでいた。
アルバートが、ゆっくりと口を開く。
「……精霊国、だと……?」
ティアラは、小さく頷く。
「……私は……精霊王の妹である母と、人間との間に生まれました」
その言葉が落ちた瞬間――
沈黙が、重く沈む。
リリスの瞳が、大きく揺れた。
クラウスの視線が、わずかに細くなる。
リアンは、何も言わない。
ただ、静かに見ていた。
「……精霊と人間の間に生まれた子は、禁忌とされていて……」
ティアラの声が、落ちる。
「……私は、力を封じられて……母と二人で、ずっと……」
言葉が、少しだけ詰まる。
「……閉じ込められていました」
静かな声だった。
だが、その奥にある時間の重さだけが、確かに伝わる。
ティアラは、続けた。
「……でも」
一瞬だけ、息を吸う。
「……十六歳の誕生日に、封印が――壊れて」
指先が震える。
「……空間が歪んで……私だけが、外へ……」
その先の言葉は、少しだけ曖昧になる。
「……気づいた時には……あの森に、いました」
静かに、言い切る。
その場に、再び沈黙が落ちた。
リアンが、静かに口を開く。
「……俺も、一緒に行く」
――一人で、行かせるわけにはいかない。
そんな選択は、最初からなかった。
ティアラの瞳が、大きく見開かれた。
驚きに、言葉が追いつかない。
ただ――その視線だけが、リアンを捉える。
リアンは、ティアラから視線を逸らさない。
ただ、静かに立っている。
次の瞬間。
リリスは、両手を胸元に当てた。
「……リアンお兄様が行かれるのなら」
「……私も、一緒に行きます」
一度、言葉が途切れる。
だが。
迷いを振り切るように、視線を上げた。
まっすぐに、リアンだけを見つめる。
「……離れたく、ありません」
少しだけ震えた声。
その瞳は、逸れない。
リアンの視線が、揺れる。
クラウスが、小さく肩をすくめる。
「……まあ、そうなるよな」
口元が緩む。
「……そういうの、嫌いじゃない」
「――俺も行く」
軽く言ったようでいて――
その声音だけが、不自然に沈んでいた。
ユラが、クラウスの背に、ほんの一瞬だけ視線を置く。
すぐに、何事もなかったかのように前へ出た。
「……私も同行します」
短い言葉。
だが、迷いはなかった。
アルバートが、その様子を一瞥する。
「……精霊国へ入るにはな」
低い声が、場を引き締める。
「アルシェ家の森の奥にある――霧の回廊を通る」
視線が、全員をなぞる。
「……何が待っているかは、分からん」
静かな警告だった。
だが――
誰も、退こうとはしなかった。
アルバートは、ゆっくりと視線を外した。
割れた窓の向こう――森の奥。
夜織の気配は、もうない。
だが、退いたとは思っていない。
「……ここに留まるのは危険だ」
一度、視線を外す。
「夜織は、必ず戻ってくる」
視線が、ティアラへ向く。
その顔色は、まだ熱を帯びていた。
呼吸も、わずかに浅い。
さらに、リリスへ。
壁に叩きつけられた衝撃が残っているのか、
足元が、わずかに不安定だった。
アルバートの眉が寄る。
「……だが、このまま回廊に入るのも無謀だ」
全員の状態を、改めて見渡す。
「……森の中に、小さな小屋がある」
アルバートは、静かに続ける。
「アルシェ家の者しか知らない場所だ。最低限の結界も張ってある」
一度、視線をティアラとリリスへ向ける。
「今の状態で回廊に入るのは危険だ。夜を越すなら――そこだ」
判断は早かった。
「――ここを出る。すぐにだ」
空気が、引き締まる。
クラウスが、小さく息を吐く。
「……だな。ここで待つ理由はない」
ユラも、無言で頷く。
ティアラは、一度だけ目を閉じ――
小さく、頷いた。
「……はい」
リアンの視線が、森の奥へ向く。
――まだ、終わっていない。
そんな予感だけが、静かに残っていた。
◆
誰も、もう迷わなかった。
アルバートの言葉を合図に、動き出す。
そのとき。
リアンは、何も言わずにティアラの身体を抱き上げた。
「……っ」
小さく、息が漏れる。
ティアラの頬に、わずかに赤みが差す。
「……あの、私……歩ける……」
控えめな声。
だが――
リアンは答えない。
そのまま、歩き出した。
ティアラは、一瞬だけ言葉を失い――
やがて、そっと視線を伏せた。
リリスの視線が、その姿を捉える。
一瞬だけ。
そして――静かに、逸らした。
その頭に、ぽん、と軽い衝撃が落ちる。
「……いくぞ」
クラウスだった。
いつもの調子で、肩をすくめる。
そのまま、リリスの腕を取る。
無理のないように、自然に支えながら。
リリスは、目を見開き――
小さく頷いた。
「……はい」
二人も、歩き出す。
その後ろ姿を――
ユラは、静かに見ていた。
ほんの一瞬だけ、
クラウスの背に視線を置く。
それから、何も言わずに歩き出した。
一番後ろから、距離を保つように。
アルバートは、そのすべてを見送っていた。
何も言わず。
ただ、静かに。
やがて、五人の背が森へと消えていく。
その背を、最後まで見届けてから――
アルバートもまた、ゆっくりと歩き出した。
◆
森の奥。
人の気配を断つように、その小屋はひっそりと建っていた。
中は簡素だった。
だが、最低限の結界は機能している。
外とは、空気が違う。
クラウスは入口付近に背を預け、
ユラは窓際で外の気配を探っている。
その視線が、ほんの一瞬だけ入口――クラウスへ流れ、
すぐに外へ戻った。
ティアラは、壁際に腰を下ろしている。
呼吸はまだ浅い。
それでも、先ほどよりは落ち着いていた。
リアンは、そのすぐ近くに立っている。
視線は外へ向けながらも、
意識の一部は、ティアラに残したままだった。
リリスもまた、静かに座り込んでいる。
足元に、わずかに力が入らない。
弱さは見せまいとするように、背筋を伸ばしていた。
物音がするたびに、視線が揺れる。
誰も、深くは眠らなかった。
張り詰めたまま――夜だけが、過ぎていった。
いつ破られてもおかしくない静けさの中で。
◆
やがて、夜がほどけていく。
薄い光が、小屋の中へと差し込んだ。
ユラは静かにティアラの傍へ寄り、そっと額に手を当てる。
「……熱も下がり、脈拍も安定しています」
静かな報告だった。
リアンの肩から、力が抜ける。
張り詰めていたものが、ようやくひとつほどけた。
その視線が、今度はリリスへ向く。
「……リリス。大丈夫か」
リリスは、一瞬だけ目を見開く。
そして――小さく頷いた。
「……はい。大丈夫です」
声は落ち着いている。
だが――
その頬に、ほんのわずかだけ、熱が残った。
視線を、少しだけ逸らす。
クラウスが、その様子を横目で見る。
だが何も言わず、軽く肩を回した。
「……じゃ、予定通りだな」
一度、全員を見渡す。
「霧の回廊へ行くぞ」
◆
霧が、揺れた。
それは風によるものではない。
世界の境界そのものが、軋んだ音だった。
精霊国。
精霊たちの都、その最奥にある静謐の間で、淡い光が脈を打つ。
「――反応、確認」
低く告げる声に、周囲の複数の気配が応じた。
「座標、外界。
精霊核の共鳴……依然として基準値を超過」
「……目覚めたか」
誰かが、そう呟いた。
「……王族核の反応。沈黙は、破られたか」
答えは、すぐには返らない。
光の像に映し出されたのは、逃走中の少女。
銀の髪、澄んだ紫の瞳。
その胸奥で、精霊の核が不安定に瞬いている。
「逃走状態、継続中。現在、外界の人間と接触」
一瞬の沈黙。
「精霊王の判断は?」
「――まだだ」
代わりに、別の声が静かに続ける。
「だが、このまま放置するわけにはいかない。彼女は“戻るべき存在”だ」
沈黙が、ひとつ落ちる。
「……対象は、霧の回廊付近へ接近中」
空気が、静かに張り詰める。
「霧の回廊を開く」
次の言葉が、迷いなく落ちた。
「――回収準備だ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
淡い光が、静かに広がった。
それが、救いなのか。
それとも――拘束なのか。
まだ、誰にも分からない。
確かなのは――ひとつだけ。
霧の回廊の向こうで、
精霊国は、すでに動き始めている。
◆
霧の回廊の入口。
その前に――
一人、立っていた。
淡い金の髪。
感情を削ぎ落としたような、静かな瞳。
リアンの足が、わずかに止まる。
「……レイヴン」
その視線は――
最初から、こちらを見ていた。
――ずっと、待っていたかのように。




