九 妄想と救済と神様と
しんと静まり返った部屋はじっとりと暑く、そこに座る俺たちは視線も合わせず、さりとて同じことを考えていた。
トガミは俺のことを考える。
俺はトガミのことを考える。
相思相愛などではない。トガミは俺に熱情を向け、俺はトガミに無関心にも似た感情を向ける。果てしない乖離があった。
それでも、両者が互いのことを考えていることに違いはない。
当のトガミはそれで満足したのだろう。俺が一切手を付けようとしないお手製クッキーを一欠片食べ、それから「うん」と小さく頷いた。
「唯野は良い人だよ。多分口では否定して、内心では当たり前だって言い捨てるんだろうけど、良い人だよ、唯野は」
すらすらと吐き出された言葉の真意を探ってしまう。
「俺が良い人なら、トガミはなんだ? 良くて大馬鹿者か、悪けりゃ救いようのない子供だ」
大馬鹿者は夢を見る。叶えられると信じて疑わず。
子供もまた夢を見る。夢が夢だと知らぬまま。
似ているようで、決定的に違う。子供は無垢だ。汚れを知らないから、汚れない夢を見られる。
その夢が幻で、現実は汚らしいのだと知った時、子供は大人になるか、それとも……。
「もう子供じゃないよ?」
「なら大馬鹿者か」
そうは言ってみたものの、このトガミという人間は子供なのかもしれない。
汚れは見ている。二十年近くも生きてきて、汚れを見ないわけがない。しかし、それを汚れだと理解していないのだ。
「いや、やっぱり俺は良い人じゃないな」
幻想を見たのはトガミ自身だ。
だが、その幻想に閉じ込めたのは誰だろう。まぁ、もしかしたら現実に続く扉をこじ開けても、出ようとはしなかったのかもしれないが。
「世界は主観でしか見ることができない。なら、僕が良い人だと思えば、唯野は良い人以外にはなれない」
そう笑うトガミはいつになく真剣そうだ。
「無駄話は終わりにしよう」
トガミは俺との他愛ない話を楽しんでいる。俺だって楽しくないとは言えない。かといって、本題をおろそかにしていい理由にはならないのだ。
「もう本題だったつもりなんだけどな」
ぷすっとむくれてみせたトガミは、やはり可愛くなどない。
「全てが主観で、自由なら」
儚げな声だった。
「神だと自覚し、名乗った時点で、人は神になれる」
全てが主観であるはずなどない。
俺から見た正解は人から見た不正解。主観があると同時に客観が存在し、俺の世界は俺の主観であっても、世界の全てが俺の主観であることはない。
人が言う自由とやらも、存在しない。
今の世の中は自由を犠牲に安全を買っているだけに過ぎないのだ。本当に自由ならば、人々は常に銃やナイフを持って、互いに互いを自由にできるのだと誇示しなければいけなくなる。そうしなければ、自由を侵害されて終わりだろう。
トガミが分からないわけもない。幻想の中から出たがらないのは、現実を知っているからだ。
こいつは知らなくていいことは知っている。壊れやしないと分かっていながら壁を叩き続ける儚さを抱いているのだ。
「……」
ふと、沈黙していた。
いつもなら小言や冗談で一蹴していただろう。
どうしてなのか、と自分に問うてみるものの、答えは出ない。
「そうだな。トガミは、そんな神でもいいのか? 独り善がりどころか、ただ妄想にふけるだけの変人じゃないか」
答えてくれ、と無意識に思っていた。納得できるだけの答えを欲していた。
「うん。そうだね、そうなんだよ」
その目は感情をたたえていなかった。
「じゃあさ、救いって何? 結局は主観でしかない。客観的に見た救いであっても、主観で見れば崖から突き落とされるだけかもしれない。そんな救いって、何かな」
自殺する者がいる。明日食う物もなく、頼るあてもなく、せめて苦しみだけは少なくしようと死ぬ者がいる。
その者の死を阻止する行為は、『救い』と呼べるだろうか。
ただ苦しみを長引かせるだけのそれは、果たして『救い』だろうか。
「主観と客観。その乖離を埋めることはできない」
諦めたような、諦めきれないような、噛み締める声だ。
「それなら、問おう」
そんな声で言われてしまえば、俺とて、問わずにはいられない。
「それでも神に固執する理由は、なんだ」
静寂が流れた時間は、そう長くなかった。
「一つだけ、大切なことを教える」
だから一つだけ、大切なことを教えて。
トガミはそう言って、天井を見上げた。その目に浮かんだものから、俺は目を逸らす。それを見てしまえば、教えてもらうのは二つになってしまう。
「僕はね、救いたいんだよ」
誰を、と問う必要はなかった。
「でも、救えない。僕に僕を救うだけの力はない」
言葉と言葉の間には長い沈黙があった。嗚咽を噛み殺すための時間だ。
「僕はずっと、ずっと探してた。僕を救い上げてくれる、神様を」
いくら目を逸らそうとしても、目は動かなかった。両の頬を流れる涙の筋が顎まで達し、カーペットを濡らす。
「でも、神様なんていない。いないから、ねぇ」
僕の神様になってよ、とトガミは泣きじゃくった。
天井を見上げる俺の視線を遮る影があった。泣きじゃくった末に客人を無視して寝始めた馬鹿によく似た女だ。
「お前じゃ無理なのかよ」
無意識に、責めるような声音で吐いてしまった。
「唯野にメイリンが救えるなら、私にもトガミを救えるだろう」
返ってきたのはため息だった。
「救えるもんなら救ってやりたいが、それはお節介で驕りか」
苦笑するしかない。
誰にもできないことはある。
しかし、なんだ。一番身近で大切な者すら救えないとなると、他に何ができても意味がないように思えてしまう。
「メイリンにとってのリーエィ、ユウカにとっての嘉喜」
人は自らを救うことなどできない。崖から落ちていく自分の手を握ったところで、一緒に落ちていくだけだ。
「気が向いたら、やってやる」
善意はある。だが、それは善意であってそれ以上の何かではない。
善意では足りないのだ。
「まぁ、私は気長に待つさ」
その言葉は暗に言っていた。トガミがそう長く待てないことを。




