八 同じ穴の狢
「七面倒臭い話はやめにしよう」
ガラスのグラスを机に叩きつけるように置いた嘉喜が、怒号にも似た喜悦の声を上げる。
その笑顔を見たシキは目をまん丸く見開き、見たこともないような笑顔を浮かべたものの、他の一同は真逆の顔をしていると言っていい。
頭のネジが数本飛んでいる兄妹の喜悦に、ユウカまでもが絶句していた。
「まずいで――」
「誰もが語る話になど興味はない」
最上級の警告であるユウカの声を、落ち着いた嘉喜の声が遮った。
始まるのだと、全員が理解した瞬間だ。
「人は何に意味を求める? 何を欲し、何に満足する?」
心からの喜びを隠しきれない嘉喜は、目を輝かせて問う。
「僕が断ずるに、それは欲だ。人間は欲に手足が生えたようなものだからねぇ。そうは思わないかい?」
シキは蛇のような視線を俺に向けた。
「さて、難しい問題だな」
ペースに呑まれてはいけない。それだけを意識し、言葉を紡ぐ。
だが、しかし少女の可憐にして毒々しい目が一瞬で曇った。一種の失望であると、子供でも分かるだろう。
「忘れたか? 俺の性分を」
咄嗟にそう言っていた。人に、とりわけこの少女に嫌われることを、本能的に嫌ってしまった。
失望の色を浮かべていた瞳に、倦怠感にも似た粘っこい光が灯る。あぁ、失敗した。
「傍から言わせれば、そんなの自分たちの勝手にしろ、としか言えないが、まぁそうだな」
仕方なく、答えを口にする。
「自分だろう。自らに意味を求め、自らを欲し、自らに満足する」
究極的に、人は自らを嫌いにはなれない。嫌いになるとしたら、それは思考回路に異常が発生しているのだ。
「……唯野さん、本気で言ってます?」
おずおずと、横合いから声がかかる。当然といえば当然か、嘉喜の狭い城に馴染んでいるのはクミだ。
「屁理屈ではある。……が、根本の結論を求めるなら、そうなる」
俺に向けられる視線の半分が諦めに染まり、半分が歓迎に染まっていくのが分かる。クミとシキはその両方を同時に宿していた。
「むぅ……。僕は違うと思うんだけどな」
静寂と言っていいほどの沈黙の中に声を漏らしたのは、俺の横でシキを視界から外そうとしないトガミ。
「人が求めるのは情だよ、情」
情。それが意味することがなんなのか。考えるべきではないのだろう。仮に考えたところで、答えが同一のものになるとは思えないが。
「いいや、人が欲するのは証明だ。それが真実であるという証明を欲する」
じろりとした視線を嘉喜から外そうとしないナガミが、吐き捨てるように言う。
「欲に自身、情に証明。否定はしない。するつもりはないし、したところで意味もない」
嘉喜が、やはり落ち着き払った声を上げる。
「物事は本質を見なければいけない。分かるだろう? 形や色ばかりを見て語るのは馬鹿のすることだ」
俺を見据える目は、凍えていた。先ほどの熱情が嘘かのように、ただただ静かな思考を映している。
「君はどうかな? 唯野……、ええと、唯野なに君だったかな?」
にやりと笑ってみせたその顔は、もう熱気も冷気も感じさせなかった。
「本当に入らないんですか? 入ったら面白いと思うんですけど」
玄関先で置きっぱなしの折り畳み椅子に座ったユウカは、ペットボトルのジュースをストローで飲んでいる。
「あの人、分からないんですよね」
形は分かる。色も分かる。しかし、それは本質ではない。
本質とは、外から見た形や色などとは無関係に存在するものだろう。
嘉喜はその本質を見せようとしない。ありもしない形を装って、ありもしない色で塗り固めている。
「まぁ唯野君は何か勘違いしているけどね」
目を逸らしたくなる程度には薄着のシキは、俺に寄りかかったまま「何か、どころか、ほとんど全てを誤解している」と笑って言う。本当にこの子、帰りはどうするんだろうか。俺が親御さんなら、絶対に家から出さないけど。
……というより、部屋からも出さないしなんなら風呂上がりでも許さない。
「勘違いに誤解か。何がどう違っているのかね」
少なくとも、あの貝なのか餅なのか分からない奴の頭がおかしいということは、まず間違いないと断言できる。
「そうですねぇ、構えすぎなんですよ、唯野さんは」
ユウカはひらひらと手を振って柔和に笑う。
小学生に簡単な算数を教えるような言葉と、柔らかな笑みと仕草。当人にその意味を問うても意味はないと分かっているから、俺は寄りかかってくる少女に目を向けた。
「そのうち」
少女はわざとらしく俺の袖を握り、そして身を寄せる。
「そのうち、教えてあげるよ」
小悪魔的な微笑が間近に迫った頃、視界の外から静かな、あまりに静かな怒号が飛んできた。トガミだった。




