六 自らの胸に
メイリンのこんな顔を見たのはいつ以来だろう。
失礼にも、そんな疑問が頭をよぎった。
「真面目な話をしているアル」
「真面目な話なら、真面目な口調で話しましょう」
幼稚園児を叱るような口調を作って一言言い、それから静かに、冷えきっているようで燃え盛っている瞳を見据える。
「それで、なんだ?」
問う。
「唯野は分かるアルか? 自分とは何か」
凍えた声だった。それが自らに向けられた冷気なのか、俺に向けられたものなのか、はたまた誰か第三者に向けられたものなのかは分からない。
ただ、ただただ凍えていた。
「自分とは何か、ね」
それだけ漏らし、思考の沼へと落ちていく。
……しかし、答えは数秒で出た。
「自分は自分、俺は俺だ」
にやりと笑みを作って答えると、メイリンも似たような笑みを浮かべる。
「それでこそ我が兄アル」
「こんな簡単な問題、誰でも解ける」
メイリンが問おうとしたのは、こんなことではない。それくらいのことは分かるつもりだ。
「何があった?」
それだけ問う。
「自分が何者か分からない。よくある悩みアル。そんな悩みを抱えた者は、何を悩んでいるのか。我には分からないアル」
嫌味でも、皮肉でもない純粋な疑問符。だからこそ、当人には向けられぬ問いだったのだろう。
「自分という存在が認知できなくなる病気ならあるかもしれない。自分が他人に思えて、どうして自分の中に他人がいるのか分からなくなる。そんな怪談を聞いた記憶ならある。だが、それとは違うんだろう?」
メイリンは頷いた。
「なら、答えは簡単だ」
俺の目を見据える瞳が、わずかに煌く。
「存在意義が分からない。なんのために存在するのか、ひいてはなんのために産まれてきたのか。それが分からなくなる」
まぁ、よくある悩みと言うのも無理はない。
多くの若人が抱える悩みであり、その結果は両極にまで分かれる。俺の場合は、メイリンのことでそれどころではなく、気付けば悩むまでもなく解決していた。
「分からないか?」
ここで答えてやるのも、一つの手ではある。
しかし、それでは面白味がない。そもそも問うてきたのがメイリンなのだ。多少の無駄話には付き合ってもらおう。
「自分の存在が分からなくなる、なんてことがあるか? 文字通りの意味で、だ」
二人の間には湯気を立てるコーヒーカップが置かれている。時間がなかったからインスタントだが、言うほど不味いものでもない。
「ないアル。我はここに座り、だから我はいて、ならば我は我アル」
単純明快なことをややこしく話すスキルに長けたこいつらだが、俺もその同類になりかけているのかもしれない。
「そう。なら自分の存在そのものが分からないのではなく、存在する意味が分からなくなっているのだと考えられる」
馬鹿げた話だ。
メイリンもそう思ったらしく、軽く頷いた。
「存在するものの全てに意味はあるアル。観測、干渉、なんでもいいアル。外部と触れた時点で影響を与え、意味が生まれるアル。存在する意味などなく、存在しているから意味がアル」
ふむ、と満足したように頷きを繰り返すメイリンだが、なんか語尾がおかしかった気もする。ただ、まぁ気にしないでおこう。
「それでも意味が分からないというのなら、それは意味が分からないのではない」
これは極論だ。中には、というより、少なくない数が違う理由で自問する。
だが。
「意味が欲しいんだよ、どうせ」
要は、そんな簡単な話だ。
「存在していいという、証明が欲しい」
人のためになることをしてきたか、ではない。
人から求められるようなことをしてきたか、を重視する。
求められるのなら、存在していい。求められないなら、存在してはいけない。
「存在を許してほしくて、認めてほしくて、意義を欲する」
決めつけだと言われてしまえば、それまでだろう。
「……それで、我はどうすればいいアル?」
メイリンは複雑な視線を向けてきていた。
「そんなの知るか」
一緒にいてほしいと、それだけ言えればいい。
しかし、それは受け売りではいけないのだ。自ら考え、本物の言葉として伝えなければ、綺麗に塗り固められた嘘でしかない。
だから、俺には教えられない。
「分からないアル。我には……」
困惑しきったメイリンを見るのも久しぶりだ。
当人たちには申し訳ないが、正直に言って微笑ましい。数年ぶりの、下手をしたら初めての友人だ。存分に悩み、苦しめばいい。
「お前はどうしたい?」
誰しも自由である、と人は言う。
自由という鎖に縛られた、自由である。
「そんなの、決まってるアル」
「なら、答えは単純だろう?」
久しぶりに見たリーエィの顔は、複雑に晴れ渡っていた。
何があったのか、などとは問うまい。それは野暮というものだ。
しかし、なんだ。
「そんな目で俺を見るな、俺たちを見るな」
「唯野、どうしたの? 僕たちも一緒でいいじゃない」
失敗した。完全に失敗した。
何を失敗した、などとは言うまい。それを言ったら俺の理性は崩壊する。
それでも、まぁ。
「変な病気じゃなくてよかったよ、まったく」
無用な心配事は捨て、俺はまた日頃の悩みに埋没していった。




