四十二話 不可知論
「不可知論か。面白いことを言うね、彼は」
シキはひらひらと手を振りながらそう言った。
「調べなかったはずもないだろう?」
そう言われると、返す言葉もない。
冬を目前に控えたある日、俺はいつもの喫茶店にいた。最早常連どころか週休三日くらいで来ている。
そこでいつものようにシキと会って、いつものように話を始めた。
「まぁ、そりゃ」
あの日トガミに言われてからしばらくして、俺は不可知論について調べた。
その結果分かったことは、トガミの言葉がそれ以上ないほど正しかったということだ。
「不可知論。人間には認識できないことがある。物事の本質、と小難しく言われるが、例えて言えば神の存在だ。神がいるのかいないのか、それは誰にも分からないし認識できない。そんな思想が世には存在する」
シキは朗々と解説する。
俺が不可知論者かと問えば、答えはイエス。そもそも――厳密な区別を除けばの話だが――大抵の日本人は不可知論者と言えるだろう。
人間には知りえないことがあるという思想。たったそれだけのことを難しく表す言葉が『不可知論』なのだから。
「しかし、唯野君」
楽しげに喋っていたシキは一瞬だけ視線を伏せ、沈んだ声で口を開く。
「それは言ってはいけないことだよ」
続けられた言葉は婉曲だ。
「言ってはいけない? 禁句ということか?」
問うと「まぁ端的に言えば」とシキは頷く。
「考えてもみたまえ。論議の上で『答えは分からないし分かるはずもない』なんて言えば、それで全てが終わってしまうだろう? テストの回答に『分かりません』と書いてはいけないのと同じだよ」
つまりは暗黙の了解だと、シキは言外に言う。
「分からぬのなら沈黙を貫くか、正直に問うか。要は空白を答えとするか、あるいは試験を棄権して教科書を開くかだ。それができないなら論議の場に立つべきではない」
シキはさらさらと言ってから「さて」と、また声音を変える。
「君はどうする? 彼に不可知論者だと言われたということは、分からないという言葉を答えとした。それでいいのかい?」
シキの言葉はいつになく直接的だ。難解な例え話などなく、ただただ正直な言葉。
確かに、俺は「分からない」と答えた。しかし、それはシキの言う『論議の場』ではない。いつかのように変人たちが集まって論議するなら、俺は何も言わず黙っていただろう。
ただ問われたから、答えただけだ。
それを悪とは呼ばないだろう。
「良いも悪いもないよ。俺の考えが不可知論的なら、それはそれで構わない。論議に付き合うつもりもない」
言うと、「ほう」と意外そうな声が返ってきた。
「存外につれない。珍しいね」
「珍しいか?」
シキはからかい甲斐がないとでも言わんばかりにむすっと黙ってコーヒーを飲む。
「まぁ、分からないことを分からないと言うことは悪くない」
コーヒーを三口飲むだけの沈黙の末に、シキが言う。
「だが、それで楽しいかい?」
楽しいわけがないだろう、と断ずるかのような言い方に、ふと笑えてしまった。
「なら聞くが、楽しむ必要があるかい?」
気が付けば、口元が歪んでいた。
未だ不慣れな笑い方に少しずつ馴染んでいくことが嫌に思えて、その笑みを消す。すると相手が入れ替わりで同じ笑みを浮かべた。
「やっぱり君は楽しいよ」
その笑顔はあまりに楽しげで、あぁシキにもこう見えていたのかと、納得してしまった。
自分が何者であるか、などと問うつもりはない。
答えを言ってしまえば学生である。学生でなければメイリンの兄で、メイリンの兄でなければ父さんの息子で、どれでもなければ日本人の青年。
学生だったり兄だったり息子だったりするのに、わざわざ自分から不可知論者を名乗る必要もないだろう。
論議を楽しんでいる人たちに水を差す必要もないのだ。
しかし、俺がそう決めたところで、周りの変人たちは黙っていてくれない。
「不可知論者か。身も蓋もないな」
メイリンが言う。
「えぇ? 的を射てると思うんだけどな」
トガミが言うと、ナガミが横合いから口を挟む。
「誰にでも分かるだろうさ、そんなこと」
そんな話の最中にも、「シキさんお茶をどうぞ」「あぁクミか、ありがとう」などといった会話が進行している。二人とも隠す気がないのだろうか。
「分かっている人間とばかり話していても楽しくないのさ。そうだろう? シキさん」
ナガミが問い、シキが「まぁね」と答える。
「皆が皆分かっていたのさ。こいつは馬鹿だから何も知らない。だから教えてやろうと考えて近寄った」
酒も飲んでいないのに酔っ払ったようなナガミが言い放つ。
「僕は違うよ? 分かってくれるよね、唯野は」
「シキさん、どうぞ上座へ」
「我は自分の意思とは関係なくだな……アル」
「うむ、苦しゅうない」
それぞれが好き勝手に話すリビングはいつにも増してうるさい。
そして、いつにも増して楽しかった。
その騒がしかったリビングも、気付けば静まり返っていた。
そこに流れるのは三人の男女が息をする音とお茶を飲む音だけ。
しかし、沈黙も長くは続かなかった。
「神の存在を否定も肯定もしない、か」
父さんは不意に呟き、それから呵々と笑った。
「運命論者の兄が不可知論者か。笑えんな」
そんな言葉を笑いながら吐くのだから、どうかしている。
その隣ではコウさんが微妙な表情を浮かべていた。憤るべきか、思想を説くべきか、はたまた認めるべきかで悩んでいるような、分かりやすい表情だ。
「父さんもコウさんも単純で助かるよ」
俺も笑うしかない。
「もっと面倒な奴らと付き合ってると、父さんたちが普通に思える」
ここで何を言っているんだと叱りだすようでも、同じ感想を抱いていたかもしれない。しかし、それは想像の範疇だからだ。想像どころか常識の埒外から口を挟まれるよりはずっとマシだった。
「単純ですか。私たちが?」
「単純じゃなくてなんですか」
神はいる。それだけだ。
噛み砕くことすら難しい理屈ではなく、婉曲な言い回しもせず、ことさらに疑おうともしないし、互いに否定することがない。
そんな相手との会話ほど簡単で、気楽なものもないだろう。
「変わったな」
父さんは笑う。
「口が悪くなっただけですよ」
コウさんは面白くなさそうに、それでも笑った。
「だからって、何をするわけでもないんだろう?」
不意に笑みを消した父さんが、深刻に問う。
「メイリンほどの行動はしないさ。ただ少し話してくるだけだよ」
そう、話してくるだけだ。
その話がどうなるのかは分からない。そもそも俺は、その相手を知らないのだ。
しかし、話す以外にすることもないだろう。
「そうか」
相手は誰だ、なんて問われれば困っていたが、そんなことはなかった。
静かに、静かにお茶が冷えていく。




