三十七話 理論と恋情の狭間で
夏である。
一匹の男を混ぜた女たちは姦しく、空は青い。
見下ろせば真っ青の海が白波を立て、その周りで老若男女がはしゃいでいる。
それを見下ろすのは、俺と一人の女。
「どうして私が」
「ウタちゃんの『どうして』は聞き飽きたよ」
俺たちが歩くのは、去年も歩いた海沿いの道。歩く面子は去年より一人増えて五人。メイリンは新発売のゲームという名目で家に引きこもり、代わりにクミとウタが来ている。
しかし、そのウタは不満げだ。
「まぁなんだ、嫌よ嫌よも好きのうち。断らずにしっかり準備までして来たんだから、今更何を言おうと無駄だ」
ついでに、旅は道連れとも言う。今回の旅こそ道連れが欲しい。
「唯野、綺麗だね!」
言い返す言葉もなく呆れるウタの脇からトガミが現れる。その目は希望に溢れているようで、全てを悟っているようにも見えた。無論、そんなのは考えすぎているだけだろうが。
「その言葉で何を言ってもらおうとしてるのかは分かった。まぁ海は変わらず綺麗だが」
間違えても言ってやるものか、と心中で唾棄する。いっそ言えてしまえる性格ならどれだけ楽か。
そんな俺の心中をも置いていくように、一行はぐんぐんと進む。
そしてバス停から十分も歩けば、目的の旅館に着いていた。
ここも去年と同じところだが、今回通されたのは『春の間』という、青一色の部屋だ。
「うんうん、真っ青は綺麗だね!」
何故撃沈した手法を繰り返すのかは分からないが、俺は「そうか?」と答えておく。こうも全てを揃えられては、綺麗どころか落ち着かない。
恐らく、それは部屋の内装のせいだけではないのだろう。
「女子は『夏の間』だったか?」
そう、今年は男女別、つまり俺とトガミは二人で一室なのだ。
表向きはウタに気遣ってのことだったが、実際にはトガミと二人になるためである。無論、そこにある意図はトガミ本人の意図とは真逆に近い。
「夏の間は何色だろうね」
去年の秋の間は白だったが、さて夏は何色だろうと思っていると、トガミは「まぁ分かりきってるけど」と呟く。
「なんだ、予想できるのか?」
気になって訊ねるが、トガミは「ひ、み、つ」と口元に人差し指を持っていくだけ。全く可愛くない上に背筋が凍る。
「まぁ、後で行ってみればいいか」
何も旅館の部屋全てが風呂場というわけではない。少しお邪魔して雑談するくらいは許されるだろう。
「なにそれ、隠す意味ないじゃん!」
トガミはやたらと楽しげに言う。
変な話だが、その笑顔を見て、より一層覚悟が決まった。
今日、あるいは明日。俺はこの笑顔を消すのだ。
パシャパシャと音を立てて水遊びが繰り広げられる。
クミとトガミが二人きりで遊んでいるのだが、実情は遊びではなく喧嘩だ。それも結構本気の。
「やるんですよね?」
「そうだろうな」
その二人に目もくれない二人。ウタは眼鏡をかけて本を読みながら、ナガミが特には何もせずジュースを飲みながら駄弁っている。
「しかし、ウタはいつもコンタクトだったのか」
同席する者として会話に参加しておくが、即座に「逃げないでください」と切り捨てられる。
「まぁ私は事後報告でいいがね。事後でいいぞ、事後で」
ナガミが冗談めかして笑う。女子の吐く冗談ではない気もするが、事情が事情だ。笑えない。
「本当に事後でいいなら終わってから報告するさ」
そう答えてから、ウタの方に「同性愛はまた今度」と投げる。
「随分とやる気なんですね、先輩」
「まぁな」
いつかやらなければいけないのなら、さっさとやってしまってもいいだろう。
ちょうど、クミとトガミがこちらに手を振りながら何かを叫んだ。
その二人を一瞥して、何も答えず立ち上がる。そうして立ち去れば、嫌と言っても追ってくるのがトガミという人間だ。
帰りの予定は明後日の午後だ。
それまでは女子は女子、男子は男子で同室に泊まり、そして三日を過ごす。
ならば今日こんなことをするのは俺にとってもトガミにとっても良くないのかもしれないが、今を逃せば言いそびれてしまいそうな気がしてならない。
それで結局、俺は春の間でトガミと向かい合っていた。
「呼び出したようで悪いな」
トガミは「ううん」と首を振る。その目にあるのは希望か、それとも諦めか。まぁ、どちらにせよ変わらない。
「単刀直入に言う。お前のことは好きじゃない。だから付き合えない」
たった五分の間に、三ヶ月分以上の「どうして」を聞かされた。
どうして。どうして。どうして。
それは「僕じゃダメなの?」と続いたり、「僕が男だから?」と続いたりしたが、問いの本質は変わらない。
何故好かないのか、である。
「僕のこと、嫌い?」
一滴の涙も流していないトガミは、しかし泣きはらした後のように問うた。
「そうだね。少し嫌いだ」
俺は嘘をついた。なんだかんだと言って、俺はトガミもクミも嫌いではない。しかし、それをそのまま言ってしまえば、トガミは変わらない。変われない。
「どこが嫌いか、教えてくれる?」
その言葉は、言外に「直すから」と言っていた。
「……」
俺が答えないでいると、トガミはまた「どうして」と問いかけてくる。
「ねぇ、教えてよ。どこが嫌いか言ってくれないと分からないよ」
それが慟哭の言葉なのだと、誰でも分かるだろう。
「そういうところだよ」
だから俺は、踏みにじる。慟哭なんぞ糞食らえだと、唾棄してやる。
「そういう感情的なところが、大嫌いだ」
長い沈黙が流れた。
ちらりと時計を見れば、まだ五分も過ぎていない。
それでも、それは長かった。
「それってさ、つまり……」
ようやく涙を流したトガミの声は、自身の乾いた笑いに遮られた。
「そう。仮に、まだ俺に好かれたいと思うなら、常に理性的であれ」
これはトガミの言葉の代弁だ。完全なる理性は、一瞬たりとも感情的になってはいけない。
「どうして?」
何度も問うてきたことを、再び問うトガミは哀れに見えた。
「お前は矛盾してるんだよ。誰よりも感情的で、恋情なんていう本能に動かされる人間が、どうして。どうして完全な理性なんて説けるか」
できる限りの皮肉と侮蔑を込めて贈った言葉は、果たしてトガミの元に届いたのか。
そんな心中の問いに答えるように、トガミが口を開く。
「それは地獄だよ?」
絞り出された声は、かすかに震えていた。
トガミの言う通り、常に理性的であることは地獄だろう。
「強要はしない。だが、お前の選んだ道だろう?」
賽を投げたのなら、最後まで演じなければいけない。それが俺の義務だ。
「違うよ。僕は選んでなんかいない。理性的でなければいけないのは神だけだ」
「そんな言葉に説得力はない」
最大限の理屈は、しかし苦し紛れの子供騙しだった。
「理性的でない人間が完全なる理性を説いたところで、誰が耳を貸すというのか」
きっぱりと言い捨てる。容赦をしては、意味がない。
「じゃあ、唯野は信じてくれない?」
トガミは問う。すがるような声で。
「聞くまでもないことだよ」
俺が答えると、トガミの肩が震える。
「その答えを吐いても、まだ強制ではないと?」
「あぁ」
そしてまた、沈黙が流れる。
しかし今度の沈黙は、それほど長くなかった。俺が自ら破ったからだ。
「これが最後の選択だ。恋情に歩むか、思想に歩むかの」
俺が迫るのは、一つの地獄。完全なる理性など不可能だろうと、そう努めるのは苦行だ。そして、その苦行の果てには何もない。
それでも――
「それは、決まってるよ」
その地獄を、トガミは選んだ。あくまでも、自らの意思で。
「なら、これで話は終わりだ」
そう言って笑う俺の口元は、自分でも分かるほどに歪んでいた。




