三十六話 夏の始まり
プールサイドでトガミが笑う。
すぐ前ではしゃぐ集団を気にもせず、こちらを向いて。
その姿に危機感を覚えて誰かに頼ろうと周りを見るが、頼れる仲間はいない。せめて女子と一緒ならナガミとクミに頼れるのだが、悲しいかなプールは男女別である。今ようやく男女別で悲しむ男子生徒の気持ちが分かった。
「濡れないようにな」
仕方なく、当たり障りのないことを言って逃げておく。
そんなトガミは今年もナガミの策略によってプール禁止だが、今は教師の目を盗んで足だけプールに入れていた。目の前で遊んでいる集団の水飛沫がかからないのは偶然ではなく、ナガミの無言の脅しがあるからだろう。トガミを濡らせば何かしらの報復が待っていると既にクラス中の男子が知っている。
「唯野は遊ばないの? 折角の自由時間だよ?」
自由時間。嗚呼なんと嫌な響きか。
「誰のせいで遊ぶ相手がいないんだか」
トガミには聞こえないように独りごちて、そちらへ近付く。トガミから逃げたところで騒がしい中に一人ぼっちという悲しい現実を思い出してしまったのだ。
「姉さんが今年も海へ行こうって言うんだけど、唯野はどうかな?」
それは本当にナガミの言い出したことなのか、そして俺に拒否権があるのか聞き返したい。答えなど分かりきっているから聞かないが。
「奢りなら行かせてもらうよ」
やはり答えなど聞くまでもなく「分かった」という予定されたものだった。
「唯野、最近楽しい?」
一拍の沈黙を挟んで、トガミが口を開く。
「その質問には嫌な思い出しかないんだが、わざとか?」
「違うよ?」
笑って言うトガミの声音に、嘘の色はない。
「僕は楽しいからさ、唯野はどうかなって」
この状況が楽しいのか、と心中で笑ってしまった。
どうして笑うのか自問すれば、答えもすぐに出てくれる。
「俺も楽しいよ、一応は」
無論、楽しいだけではない。トガミへの答えを探し、少女の何が黒いのかを考え、まだ学校に行かないメイリンのことで悩まなければいけないが、その中に楽しさがあるのは事実だった。
俺も彼ら彼女らの仲間入りということか。
「うんうん、それは良いことだね」
トガミは自分のことかのように笑う。
その笑顔はいつになく静かで、不覚にも、いつまでもこの平和な一時が続けばいいのにと思ってしまった。
トガミは、自分が男だからいけないのかと問うた。
その問いに対する答えは、恐らくイエス。男だから、好きにはなれない。
同性愛というのは今時珍しくもない。有名人や政治家がゲイやレズをカミングアウトしたところで、三日も経たずに他のニュースに埋もれて終わりだ。
そんな中で、男だからと恋情を否定する自分は馬鹿なのだろうか。
時代錯誤も甚だしいと自分でも思うが、では突然同性の友人に好きだと告白されて、受け入れられる人間がそう沢山いるとも思えない。
こんな難題をふっかけてくれやがったトガミに呪いの思念を送ってから、同じ部屋で仕事に勤しむ人物に声を投げる。
「同性愛とは何か。ウタなら分かるか?」
俺の代わりに仕事をこなしてくれた可愛い後輩は、呆れたように振り返る。
「ただ好きになった相手が同性だった。ただ異性を好きになるように同性を好きになる。それ以上でも以下でもないですね」
バッサリ、である。
「まぁ、そりゃそうだ」
そんなことは分かっている。分かっているから、悩ましい。
「じゃあ同性愛の否定は、『ただ嫌いになった相手が同性だった』でいいのか?」
そんな冗談を投げてみると「はいそうですね」というお決まりの答えが返ってくる。ウタちゃんはスルースキルが高すぎるのが玉に瑕だ。
「別に、同性愛を否定する必要はないんじゃないですか?」
ウタはそう言うと、「というより、否定は無理です」と珍しく断言した。
「本当に無理なの?」
「もしかしたらできる、かもしれないですね。いやできる、はず。……って、冗談に付き合わせるのやめてくれません?」
前言撤回。今日のウタちゃんはノリが良い。
「先述の通り、否定は無理です」
ウタは改まった口調で言う。
「素直に付き合えない理由を答えればいいんじゃないですかね」
……。それを言っては、おしまいである。
その日家に帰ると、玄関に一人の男が立っていた。
……とはいっても、客人や新たな変人というわけではなく、荷物を持った配達員だったが。
「あぁ、すみません」
その男が俺の足音に気付いたのか振り返って、「こちらのお宅の方でしょうか?」と問う。
「そうですが」
決まりきった問答の末にサインして、それを持ったまま玄関の戸をくぐる。それはメイリンへの荷物で、中身は『書籍』と書かれていた。
「メイリン、届け物だ」
ただいま、より先に投げかける。
すぐに「分かった」と声が返ってきて、戸が開いた。
「また漫画かラノベか?」
「あ? あぁ、そうアル」
一瞬ぽかんと口を開け、それから頷くメイリン。それだけで中身の予想はついた。本当に漫画やラノベなら、頷く時間すら惜しんで「悪いアルか?」と返ってくるのが常である。
「ま、ほどほどにな」
俺の言葉の意味を理解したのか、それとも額面通りに受け取ったのかは分からないが、メイリンは頷く。できれば前者であってほしいが、まぁ気にするほどのことでもない。
「夏だねぇ……」
「夏ですねぇ……」
ふと呟いていた。誰もが変わり、あるいは進み、はたまた立ち止まる。
俺もそろそろ進まなければならない。いつまでも尻込みしていては、メイリンにすら抜かされてしまうだろう。
「あれれ?」
今日も今日とて、セミはうるさく鳴いている。
必死になって地面の中から這い出してきたと思ったら、陽の光を楽しむ間もなく次の子孫を残そうと鳴き始めるそれは、人からすれば哀れだ。しかし、その意味を問えるほど俺は賢くないし、俺の役目でもない。
それに、いずれ誰かが問うてくるだろう。
「無視ですか? 無視ですよね?」
そして、また一匹セミが鳴いた。
「無視されたと分かったなら、気付かない振りをして逃げることを勧めます。そんなことを面と向かって言ったら余計に嫌われますよ?」
これだけ無視しても逃げようとも隠れようともしない酔狂な変人さんを追い返す方法は、しばらく話に付き合うことである。……もっと良い方法ないかな。
「メイリンさん、明日から本気出すんでしょうか?」
今度はユウカが俺の言葉を無視した。また無視してやりたいが、話の内容からして無視するわけにもいかない。
「あの子が本気を出すのは運命論だけでしょうね。二つのことに本気を出せるほど器用じゃないですよ」
メイリンには聞こえないように、少しだけ声を抑えて言う。
「ほうほう。それでは、今はもう本気だと?」
そんなのは、言うまでもないことだろう。
「ユウカさんはどうです? 俺にそちらの宗教を否定されて言い負かされたら、本気になりませんか?」
ユウカは「なりますね、それは」と頷いてみせ、それからにやりと目を細める。
「なら唯野さんは、いずれムーチー様の理論を否定なさると?」
また飛躍した、と言いたいが、なかなかどうして。
「無理でしょうね」
この人は油断できない。気を抜けば全てを読まれそうになるのは、あの少女とよく似ている。
「そうですか、それは安心です」
一片の不安もないといった顔だ。
「今年の夏は、楽しくなりそうですね」
今度はけろりと、いつもの能天気な笑顔でユウカは告げる。
「変人にとって楽しいってことは、俺にとっては地獄でしょうけどね」
そう言って小さく笑うと、ユウカも笑う。
これは宣戦布告だったのかな、と少し思う。メイリンの運命論を――感情論であれ――否定し、これからトガミの恋情を否定する。
そうして否定した先に何があるのかは、まだ分からなかった。




