三十五話 合理主義者と少女
その店に入ると、心地良い冷風が吹いていた。もう冷房の時期だということを再確認させられる。
俺の来た店は、いつも通りの喫茶店。
今日はいつもの席にいなかったから待たせてもらおうか、なんて考えながら入ったのだが、その必要はないのだとすぐに分かった。
「えぇ、分かりますよ。そうです、そういうことなんですよ」
「あら、やっぱり君は理解が早い。今日は十分及第じゃないかな?」
聞こえてくる話し声はどちらも聞き覚えがあった。いつもの少女と、カイリさんだ。
「これで及第ですか。それはなんとも手厳しい」
カイリさんは何故か敬語だ。対する少女はいつも通りで、ひらりひらりと掴みどころがない。
「それでは、今日は――」
「いや、少し待ちたまえ」
立ち上がりかけたカイリさんを、少女が引き止める。そして、目がこちらを向いた。
「そこで呆然と立っているのが、ほら、君も知っている唯野君だよ」
一応呆然と立っているのではなく、どこの席に座ろうか悩んでいたところなのだが、それは言うだけ無駄だろう。
……ちなみに、いつも座る席には見知らぬカップルが座っており、カウンター席には妙齢の女性とお茶を呷る酔っ払いが少し離れて座っている。他のテーブル席には時々見かける女性客や、少女とカイリさんまでいるから、ちょうどいい席がなかったのだ。
「ここに来なよ」
少女が手招きしてくる。いつもなら回れ右して店から出るところだが、今日はお言葉に甘えよう。
「それじゃあ、失礼します」
軽く頭を下げて、向かい合わず斜めに座っていた二人と等間隔に離れて腰を下ろす。どうして正面に座らないのかも気になったが、訊ねるのも面倒なので代わりに「なんの話をしてたんですか?」と他愛ない問いを吐いて、コーヒーを注文する。白髪の店員はいつもの笑みで頷いた。
「なんの話か?」
少女が口を開くと、カイリさんが代わりに自分が、とばかりに制止した。
「宗教と偽薬について、だ」
その言葉を聞いて、早くも後悔する。こんな店になど来なければよかった。同じ席になど座るんじゃなかった。なんで訊ねてしまったんだ、自分は。
「宗教とは最高の偽薬である」
カイリさんは、長い長い演説をそう締めくくった。
「つまりだ、宗教とは合法的に人々を騙し、また教徒は僅かばかりの賽銭で幸福を得るんだよ」
その演説に注釈を加えるかのように少女が言うと、カイリさんが「面目ないです」と額に手を当てる。この二人の上下関係が分からない。
「それはあまりにアレだな。そういう団体から苦情が来そうな」
耐え切れずにぼそりと呟く。カイリさんの言ったことは単純だ。教主や代弁者が神に祈れば救われると賽銭を求め、教徒は自らの差し出した賽銭によって不幸から逃れられたのだと勘違いする。それは両得だろうと、二人は言うのだ。
「まぁ、こればかりは一事が万事とはならないがね」
少女は嘆くように独りごつが、そこに悲観する色はない。
「世の中には腐った宗教などごまんとありますからね」
その独り言に答えるように、カイリさんも呟く。しかし「あぁ、いや」と即座に訂正した。
「勿論、フユさんのところは別ですよ? あの人は正しいことを言っていますし、何より騙すとか騙さないという類いの話ではない」
俺が幾つかの違和感を抱いた直後、少女が「口が軽い男は嫌われるぞ」と吐き捨てた。カイリさんは「失敬」と再び額をかく。
「フユと宗教。気になることを教えてくれてありがとうございます、カイリさん」
悪戯心で言ってみると、カイリさんの額を大粒の汗が垂れていく。少女がカイリさんに向ける視線は冷たく、カイリさんの視線が虚空を泳ぐ。
「さて、それでは僕はこのへんでお暇しましょうかね」
そして、逃げた。
「全く、少しからかうとすぐこれだ。冗談の分からない奴め」
三人分の会計を済ませて足早に去っていくカイリさんの後ろ姿を眺めながら、少女が言う。
「君の名前かな? フユっていうのは」
本題を後回しにして、問うべきことを問うておく。
果たして、答えは「いいや」という否定だった。
「便宜的な呼び名に過ぎない。彼がそう呼んでいるだけで、僕の名前ではないよ」
返された言葉に、嘘の色は感じられない。少女なら俺くらい余裕で騙せそうだが、それならそれで考えるだけ無駄だ。
「なら宗教ってのは?」
続けて問う。
「言っただろう? 僕をこの道に引き込んだ張本人がかじっていることだ」
やはり嘘はないが、隠し事は多分にある。勿論、内容など推測すらできない。
「宗教家に引き込まれたか。災難だね」
俺が締めるように他愛のないことを言うと、意図した通りに沈黙が流れる。少女も汲み取ってくれたのだろう。
「それで」
その沈黙を破るのは、これまた予定通り少女だった。
「何か用があったんだよね?」
続けられた言葉に「いや、なに」と答える。そして、「ありがとう」とも。
「変わっているね。何もしてないのに礼を言うなんて」
「してもらったよ。君が何もしてなくても」
今回の礼はメイリンのことだ。本人にその気があったのかどうかは分からないが、俺は助言を貰った。だから踏み切れたのだ。
「それじゃ、もう一つ質問」
それ以上続けるのが気恥ずかしくなって、話題を変える。
「カイリさんとは知り合いだったんだな。どういう関係で? ……っていうより、俺も敬語の方がいいのかな?」
少女は「弟弟子みたいなものだよ」と小さく笑った。
「彼が中学の頃、ここで会ってね。少し話をして、知人を紹介したら今みたいな関係性になった。それ以上でも以下でもない」
最後の言葉で続きが予測できた。
「嬉しいかい? 僕とそういう関係ではなくて」
念のために言っておくが、俺に変態的な性的嗜好はない。変態を好くことも少女を好くこともないのだ。
「まぁ君の一面を知れたのは嬉しかったよ」
適当に答えておくと「良い逃げ口上だね」とお褒めの言葉が返ってくる。
「それはそうと、今日はゆっくり飲もうじゃないか。珍しく僕の奢りではない」
少女はからからと笑う。
「それは、追加の注文は自腹ってことか。残念」
こちらも笑って、カウンターの向こうでカップを拭いている白髪の店員に注文を入れる。
「しかし、ゆっくりってところには大いに賛成だ」
夏の暑い日の選択肢は二つある。
冷たい冷やし中華なんかを食べるか、いっそ熱いラーメンを食べるか。
暑い中で食べる冷たい物の美味さは別格だが、暑い中で汗をかきながら頬張るのも捨てがたい。
そうやって悩んだ結果、俺は素直に汁なし坦々麺を頼んだ。冷たくも熱くもない、悪く言えば中途半端な選択である。しかし、今汗をかくのは得策ではないのだ。
少女とのお茶から一夜が明けた月曜日の昼、俺は食堂で昼飯を食べている。
テーブルを挟んで向かいに座るのはカイリさん。俺が選べなかった豚骨ラーメンを美味しそうに食べ、額から大粒の汗を垂らしている。
そう、今はまだ昼休みなのだ。これで予鈴が鳴れば教室に戻り、次の授業が始まる。その時に汗だくでは、隣の席の人に迷惑だろう。カイリさんの隣の人は悲惨だ。
「あの少女……、カイリさんがフユさんって呼んでる女の子と知り合いだったって、なんで教えてくれなかったんですか?」
その少女を知っているかと問うたことはない。しかし、共通の知人であるなら、一言くらいくれてもいいだろうに。
「僕はこのように、口が軽いからね」
カイリさんは僅かばかりの謝意を込めて、口を開いた。
「言うべきでないことまで言ってしまう。彼女、フユさんにとってそれは嬉しいことではないだろう」
勿論、僕にとっても。カイリさんはそう言ってラーメンをすすった。
「本人のいないところでこんなことを訊ねるのは反則かもしれませんけど、あの子に何があるんです?」
少女の様子は、少し変だった。いや、元々変なのだが、少しだけ変わっていたのだ。何とは言えない、何かが。
「それは僕からは言えない」
レンゲでスープを飲んだカイリさんが、子供を諭すような声音で言う。
「それに、彼女は言っていた。君には既に教えた、と」




