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論者の夢想論議  作者: 飯島鈴
第二部
33/66

二十七話 晴れやかなる曇天

 ちゃんと笑えていただろうか、と自問しながら料理本を交互に読み進める。

 当然のようにナガミだけは理解していたか、と自答しながら調味料の分量を見比べる。

「ここはもう好みの問題だな」

 数分の熟考で結論を出して目を離す。また別の本を探していくと、廊下を挟んだ向かいの部屋で目当ての料理本を片手に瞑目するメイリンの姿が目に入った。

「それ、貸してくれるか?」

 メイリンは眠そうに目を開けて、本を差し出す。しかし届くわけもなく、手首の動きだけで放った。

 廊下のちょうど真ん中に本が落ちる音を背景にして、メイリンが鼻で笑う。

「楽しいアルか? 最近は」

 一々鼻で笑う癖は社会に出る前に直しておいてほしいが、それは社会に出たくない病が治る見通しがつかない限り、無期限に等しい。

「そこそこ楽しい。そっちは?」

 答えにさしたる興味も示さないメイリンは「まぁまぁ」と消え入りそうな声で言う。『そこそこ』と『まぁまぁ』の違いは難しいが、十年以上も付き合っていれば大体分かるようにもなった。

「それはよかった」

 メイリンの楽しさが俺より数段劣る程度だと理解できても、頭に浮かんだのは安堵だった。

「世間一般的に見て、これに満足してはいけないと思うのだが、そういう考えはないアルか?」

 呆れるような声は、しかし俺と同様に安堵している。

「それは向上心の問題か? 現状に満足してしまっては上へは行けない、とかいう」

 相手が頷くのも待たずに、言葉を紡ぐ。声が吐き出される頃には頷くはずだ。

「お前たちと同じような結論を出せるようになったのは悲しいが、満足するために向上するんだろう? 満足したい時に満足しなくて、なんのために向上するんだよ」

 メイリンたちのやっていることの一端は、至極単純なことだった。目的を考えて、その目的のために最善手を選んでいく。

 目的地があるなら地図を開いて最短距離を探し、目的地がないなら体力かガソリンの浪費を抑えるために家で読書。それは誰もがやるようなことで、忘れがちになっていることだろう。

 そして、たったそれだけのことで、メイリンは『まぁまぁ』な楽しさで満足しているのだ。

「ようやくスタート地点に立ったわけだ」

 疲れきった老人のような言葉を吐いたメイリンは「本当に、それは大前提となる思考だが」と毒づいた。そうは言っても、常に最善を尽くしていると盲信している人間が改めて『最善』を意識することは難しいのだと、内心で言い訳する。

「嫌だな、嫌だ。本当に嫌だ」

 俺の内心を無視して、メイリンは大仰に嘆く。

「ユウカの言っていたことは、そんなに簡単なことだったアル。感情的になって声を荒らげた自分が恥ずかしいアル」

 突然出てきたユウカの名前に疑問符を浮かべる暇もなく、言葉の意味を理解する。それが指すのは、不快な正しさだ。

「そういえば」

 確信にも近い嫌な気持ちを抑えるために、ユウカの名前で思い出したもう一つのことに話題を変える。

「ムーチー教に入りませんか~?」

 自然とため息が出た。噂をすればなんとやら、だ。


「知りませんね、そんな人。女子小学生も、女子小学生くらい背の低い女性も」

 ひどく暇だったらしく別れてから二時間も経っていないのに勧誘に来たユウカは、熱いお茶を一気飲みして答えた。

「熱心な宗教勧誘のお姉さんが他にいるんじゃないですか?」

「そんなのが他にもいたら困りますよ」

 いつものように即答して「まぁ分からないならいいです」と話を切り上げる。これ以上は不毛だ。

 俺が言葉を切ってお茶を口元に持っていくと、それを見たメイリンが口を開いた。

「それじゃあユウカ、次は我から質問アル」

 そう言って椅子に座り直すと、対するユウカも「はい」と椅子に浅く座り直し、相対を受け入れる。メイリンにいつもの気怠さはなく、ユウカにも柔和な笑みがない。

「前のことは、重ねて謝る。完全に私の早とちりだった。申し訳ない」

 真面目な言葉が没個性的になってしまう現状を、メイリンはどう思っているのだろうか。これを機に一人称と口調を直してほしい。

「いえ、それはもう忘れましょう。もう謝っていただきましたし、私の説明不足でもあった話です」

 ユウカのそういう態度はもう慣れてきた。馬鹿に見えてまともな人物は他にも知っているのだが、その辺を是非トガミに見習ってもらいたい。

「それでは、話を始めるアル」

 ……諦めた、もう諦めたよ。

「以前のあれは、要するに『目的を見据えろ』という話アルか?」

「いえいえ、それ以前の話ですよ」

 姿勢を崩してお茶を飲みながら問うメイリンと、柔らかに笑って手と首を振るユウカ。いつもの姿に戻ったように見えて、その間に流れる空気は硬質だ。

「要約すれば、この世界には手段しか存在しない、ということです。それを元に、自らの物差しで手段と目的を選定して動くのが大前提だという話になります」

 そんなに綺麗な話だっただろうか、と思い返しているうちにも、メイリンが「じゃあ」と切り返す。

「その大前提の上に、そちらの教主は何を説くアル?」

 ニヤリと楽しげに笑うメイリンと、嬉しげに笑顔を咲かせるユウカ。もう俺の存在など忘れているようで、ユウカも「はい!」と熱く頷いた。

「これは非常に簡単で、生と死の関係性は、走ることと歩くことの関係性と同じだという教えです」

 俺が内心で咀嚼しようと苦心している間にも、メイリンは反芻して口を開く。

「念のため、説明をしてもらえるアルか?」

 問うメイリンに対し、ユウカは「はい」と再び嬉しそうに頷いた。

「唯野さんは、学校へ行く時は走りますか? それとも、歩きますか?」

 突然言葉が飛んできた。

「すみません、どういうことですか?」

 話を理解するための時間稼ぎに問うと、ユウカは「そのままです」と両断する。質問の意図は分からないが、素直に答える以外ないだろう。

「場合によって、ですね。大体は歩きで、寝坊気味なら小走りで。まぁ全力で走ることはないですけど」

 週四くらいで狙ったかのようにトガミたちと遭遇するが、今は置いておく。

「どうしてですか?」

 返ってきた問いは、やはり意図が分からなかった。言葉通り、歩く理由と走る理由だろうか。早速置いておくわけにはいかなくなったらしい。

「歩く時はトガミと遭遇して半ば強制的に。向こうからすれば話す時間を増やすためですかね。走る時は単純に遅刻しないためです」

 答えの内容にさしたる意味はないのだろうから、要約して答える。ユウカは予定されていたように頷き、メイリンに至っては瞑目していた。

「では、例えば。例えばですけど、寝坊しなかったらどうでしょう? トガミさんと会わなければどうでしょう?」

 寝坊しなければ歩き、歩いていてもトガミと遭遇しないのならダラダラと良き一日の始まりを謳歌しながら歩く。

 口に出す前の確認を終えて軽く頷くと、その頷きを見たユウカが答えも聞かずに口を開いた。

「生きることと死ぬことは、それと同じです。走る理由があれば走り、走る理由がなければ歩く。簡単じゃないですか」

 話の推移に満足して何度か反芻するようにお茶を飲むメイリンと、「歩く理由すらなければ立ち止まるんですけど、それはそれとして」なんて笑っているユウカを横目に、頭を高速回転させる。

 走る理由があるから走って、なければ歩く。それと生死が同じだというのなら。

「生きる理由があれば生きるのは当然です」

 俺の思考をなぞるように、ユウカが締めの言葉を始める。

「しかし、生きる理由がなければどうでしょうか?」

 ユウカは決定的な言葉を吐いて、言ってやったとばかりに満足げだ。

「今の世の中は、なんでも生きることが大前提で窮屈ですよ。走る理由がなければ歩くように、生きる理由や目的がないなら、無理に生きる必要なんてないんです」

 それはつまり、理由と目的がないなら死ねと言っているのだろうか。そう言いそうになるのを抑えて、代わりの言葉を吐き出す。

「生きる理由や目的がなくても、走る意味がなくとも、歩きたくないと思う人はどうなるんですか?」

 どうにか声を出すが、問いを受け取ったユウカは先ほどまでと同じ、予定された笑みを浮かべた。この言葉すら、予想の範疇だったらしい。

「それはもう理由じゃないですか。歩きたくない、なんていうのは、走ることの立派な理由じゃないですか。同じように、なんとなく走りたいってだけでも、立派な理由ですよ」

 返ってきた答えを聞いたら、何故だか身体の力が抜けた。張り詰めて切れるのだと恐れていた糸から力が抜けたような、そんな感覚だ。最後まで直接的な言い回しをしないでくれたユウカに感謝しつつ、こんな話を笑顔ですることを呪おう。

「それは随分な極論だが、今は無視しよう」

 空になった湯呑みを置いたメイリンが、静かに沈黙を破る。

「そんなご大層な例え話をもって、そちらの教主は何をする? 何をしている?」

 静かな声に違和感を抱いた次の瞬間には、その正体を理解した。してしまった。

「それは……正直に言ってしまえば、私にも分かりません。あの人が何を考えているのか、ほとんど分かりませんから」

 答えるユウカもどこか寂しげだ。

「まぁ、分からんでもないが……」

 メイリンは沈痛に呟き「分かりたくはなかったアル」と笑って目を閉じた。

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