二十五・五話 微笑する少女
トガミがカフェラテを飲み終えて喫茶店を後にしたのは、もう外が夕焼けに染まり始めた頃だった。
家を出た時間や喫茶店に入った時間はそう遅くなかったはずだが、トガミと俺の間に流れていた沈黙が長すぎるくらいに長かったのだろう。
そんな長い沈黙と別れの末に、俺はテーブルに座ったまま漠然と何かを考えていた。思考の大半は『何を考えているのか考える』という、あまりに無意味なことだったが、それでもいい。
トガミの沈んだ雰囲気と自己矛盾が伝染してしまったように、気分が沈んでいた。
「やぁ、唯野君。暗い顔をしているね」
名前を呼ばれ顔を上げるが、相手を見つける前に声に聞き覚えがないと気付く。そして気付いた直後には、声の主らしき人物が見つかった。
「人違い……じゃないね。君は誰かな?」
俺の名前を呼んだ人物は、さらっと俺の向かい、先ほどまでトガミが座っていた椅子に座った、小学生程度に見える背の低い少女。髪の毛がぞんざいに切られ、大人びた服装と口調をしているからか、不思議な空気をまとっているように思えた。
「僕が誰か。それは哲学かい?」
答えが返ってきたはずなのに、謎は増えた。
「冗談は上手だね。それで、君の名前は?」
今の古典的な冗談を上手いと思う感性は持っていないが、小学生にしては達者だ。
「そういう唯野君は嘘が下手だ」
そして早速見透かされた。
「しかし、先ほどの『君』という呼び方は気に入った。名乗らないから、『君』と呼んでほしい」
少女はニタァと嫌な笑みを浮かべる。しかし、そこに悪意は感じられず、ここまでの言動から考えても心の底から笑っているのだと思わざるを得なかった。
「名前を教えてくれないのは分かった。なら、君。俺の名前は誰から聞いた?」
少女は「そうだね……」と顎に手を添える。
「熱心な宗教勧誘のお姉さんに教えてもらった、ということにしておこう」
明らかに今適当に考えましたと言ってくれているのだが、ユウカなら本当にこの超ド級の変人を呼び込んできてもおかしくないと思えてしまう。後で確認しておかなければいけない。
「じゃあ、熱心な宗教勧誘のお姉さんに教えられた君が、俺のところに来た理由は? それと、俺がここにいると知った理由も知りたい」
問いを重ねると、少女は再び嫌な笑みを浮かべる。今度の笑みは悪戯っぽさが滲んでいた。
「そんなに僕のことを知りたいかい? なんだか質問だけで丸裸にされてしまいそうだけれど」
そう言って、少女は子供らしく真っ平らな胸の前で両手を交差させて微笑む。こいつは小学生じゃないと確信できた。
「で、理由は?」
重ねて問う。
「つれないなぁ……」
少女は楽しげに笑い、こちらを見据える。その視線は射抜くように鋭い。
「傍から見ていて、唯野君は面白そうだったんだよ。唯野君だけじゃなくて、周りの子たちも」
そう言って「ほら」と店の玄関に目を向けた。
「さっきの彼なんて特に面白いじゃない。唯野君は彼のことに興味はないようだけど、あれはとても面白そうだと思うよ?」
少しずつ理解できてきたが、この少女の見た目をした女は相当に性格が悪い。
「君からすると、あれは面白そうに見えるのか」
他愛ない相槌を装って問う。そんな偽装くらい簡単に見抜かれそうだが、答えてはくれるだろう。
「面白いとは思わないかい? 彼は自分でも間違っていると理解しているのに、それを認められずにいるんだ。僕にはただの喜劇にしか見えないよ。せめて問えば済む話くらいは問うてしまえばいいのに」
少女が浮かべるのは、心底理解できないといった表情。その表情にすら当然のように冷笑にも似た微笑みが張り付いているのだから呆れる。
「なんだか聞いたら負けだと思ったから聞かなかったんだが……」
少女の話を聞いていて、分からなかったことを口にする。
「どうしてそんなことまで知っている? 俺が君を知らなかっただけで、トガミやユウカは君と知り合いだったのか? そうでなければ知り得ないようなことまで知っているように思える」
また少女が笑う。笑顔だけで沢山のレパートリーを持っているものだ。
「そんなに質問がお好き? それとも、本当に僕のことを裸にしたい?」
ねっとりとした声。百戦錬磨のお姉さまが言うのなら分かるが、少女の外見年齢はどう見ても十歳前後である。人類は遂に若返りの秘術を完成させたらしい。
「……無視しないでくれる?」
「無視されたくないなら無駄口叩かないでくれる?」
不満を前面に押し出した声に即答すると、「まぁいいよ」と少女が悪戯っぽく言う。それは俺の台詞だ。
「どうして僕が君たちのことを知っているか、だっけ?」
首を傾けてこちらを上目遣いで見てくる様は可愛らしいのだが、その印象を歪んだ口元と見透かし、見下すような視線が帳消しにする。
「君たちが通っている道を、僕はもう通ったからさ。ああでもない、こうでもないと悩む時期はとうの昔に終わった。そうして過ぎ去った頃を眺めていると、君たちの考えていることも分かるようになる。違うかね? 思い悩む青年よ」
いやに達観した声音で告げた少女は「まぁ僕も教えてもらった立場なんだけれど」と子供らしい調子に戻った。
「はぁ……」
そんな少女を見ていると、ため息も出てしまう。
「これも聞いたら負け……というか、諸々の事情で聞いたらダメだと思ったんだけど、君は何歳なんだ?」
達観したような幼い女の子に年齢を聞くのはダメだと大人に習った気もするが、大人の事情を守るのは大人だけでいいと言い訳しておく。
「女性に歳を聞くのは良くないなぁ……」
大人の事情以前に常識の壁に阻まれてしまった。
「でも、今回だけは教えてあげよう」
少女はそう言うと、人差し指を立てて口の前に持っていく。そして片目だけ瞑って、見た目には似合わないジェスチャーをして見せた。
「僕は黒い」
それだけ言って「これで満足?」と何故か意味深な表情を浮かべる少女。
「腹の色は聞いてないんだけど……」
そんな仕草をされると何か女性の恥じらいに関する秘密を聞いてしまった気もしてしまうのだが、どう考えても意味が分からず、中途半端な返答をしてしまう。
「おぉ、上手いね!」
少女は心底感心したような声を上げるが、全くもって上手くなどない。
「……俺は歳を聞いたはずなんだが、何故だか色の名前が返ってきた気がするんだ。気のせいかな?」
自分が咄嗟に吐いた言葉を弁解するのは面倒だから、無視して問いを重ねる。
「今ので分からないの?」
返ってきたのは理解できないといった声。
「逆にどうすれば分かると思ったのか知りたいよ」
呆れ顔の少女は「袋とじものの大サービスだったんだけどな……」と更に呆れる。
「唯野君なら理解してくれると思ったんだけど、これは僕の失態だね。見誤ったよ」
少女は呆れ顔に謝罪の色を浮かべる。それはもう嫌味の域だ。
その恐らく無自覚でやっているであろう嫌味に意見しようとして、やめた。窓の外で刻一刻と暗くなっていく空が見えたのだ。
「もうこんな時間か」
俺の視線の先を目で追った少女が呟く。
「それじゃあ、僕の歳は次回までの宿題にしよう」
「次回なんてないけどな」
立ち上がりかけた少女を制止して、先に立ち上がる。一応の礼儀で三人分の注文が書かれた伝票を手に取ることも忘れない。
「次回はない。俺は君の連絡先を知らないし、君も知らない。教える気もなければ教わる気もないから、もう会わない」
悲しいかな、俺の周りには変人しかいない。今更一人増えるくらい変わらないと思う気持ちも否定できないが、変人など少ないに越したことはないのだ。
「残念でした」
そんな俺の内心まで見透かしたのか、少女が邪悪に微笑む。
「この店は君の家から離れていて偶然知り合いに会うことは少ないだろうから、ちょっとした息抜きには最適で、なおかつここのコーヒーは美味しい。君はまた来るさ」
そして、少女は立ち上がる。
「電話やメールなんて無粋なものは、僕も好きではないからね。会う時は偶然でいい」
俺の手から伝票をさらっていった少女がひらりと振り返り、何事かを呟いてから再び歩く。
そうして慣れた手つきで会計を済ました後に残ったのは、少女に奢られた男子高校生だけだった。




