二十一話 食道楽
気付けば、十月も下旬に近付いていた。先週あたりまであった暖かさも鳴りを潜め、これからは冷える一方なのだということを知らしめているようだ。
そして、そんな寒い今日は文化祭の初日だった。
その文化祭を目当てに、学校には見慣れない人が大勢来ている。といっても、その大半が生徒の保護者や友人、この高校への入学を考えている中学生だ。露店の一つも出ない文化祭にわざわざ足を運ぶ物好きはそう多くない。
それでも、生徒たちの半数近くは年に数日の非日常を謳歌するかのように盛り上がっていた。……もう半数のテンションなど言うまでもない。
その微妙な盛り上がりの中、俺は一人で学食にいた。
食べているのは、見るからに辛そうな麻婆豆腐。燃えたぎるような深紅から想像するように、最辛だ。
この学食で麻婆豆腐を見つけてから何度か食べているが、これは美味い。五段階ある中の最上に相応しい辛さだが、ただ辛くしただけのエセ激辛とはわけが違う。辛味の中にも旨味があり、しかし旨味の中に辛味がある。辛味と旨味の相乗効果のせいでご飯が進みすぎるほどに美味い。この麻婆豆腐を知ってから体重が増えた気がしないでもないが、気にする必要はないだろう。
しかし、その代わりに気になることはあった。周りからの視線だ。
「そんなに気になるなら食べてみればいいものを……」
小さく呟いて、再び箸を麻婆豆腐に伸ばす。
そして豆腐を口に入れようとした時、すぐ前から声がした。
「悪い、ここいいか?」
口に入れる寸前だった豆腐を皿に置いて顔を上げると、学食のお盆を持った見覚えがあるような見慣れない男が立っていた。制服を着ているから保護者や中学生というわけではなさそうだ。……もっとも、背の高さだけ見ても中学生とは思わないが。
「どうぞ」
この学食のテーブルは横長の大きなテーブルだ。わざわざ向かいに座る必要はないが、相席を拒むような形でもない。
そんなことだけ考えて即座に食事を再開しようとしたところで、予想外に相手が言葉を続けた。
「一年の唯野だったか?」
どうして知っているのかは分からないが、まぁ知っていてもおかしくない。同じ学校の生徒なら知る機会などいくらでもあるだろう。
「そうですけど」
答えながら相手を見ていると、お盆に乗っている料理に目がいった。麻婆豆腐だ。それも最辛。
「僕は君のことを何度か見かけて知っているが、君は僕のことを知っているかな?」
座った男が声を上げる。言葉の意味は分かるが、ここまで直球で言ってくる人も珍しい。
「同じく、何度か見かけた気はします。まぁ勘違いかもしれませんけど」
向こうが見かけたというのなら、こちらが見かけていてもおかしくない。さっき見覚えがある気がしたのはそういうことだろう。
「そうか、それは良かった」
男が僅かに嬉しそうな笑顔を浮かべ、言葉を返してくる。その微笑は偽物ではないかと疑ってしまうほどに、僅かすぎる微笑みだ。
「僕は二年のカイリだ。君と少し話をしたくてね」
そして男は「呼び方はなんでも構わない」と告げて再び笑った。
……困るな、それは。先輩なのだから分かりやすく『先輩』と呼ぶべきか、ユウカと話す時のように『さん』を付けるべきか。
まぁ、さん付けが無難だな。
「それじゃあカイリさん。話ってなんですか?」
そうこうしているうちにも、机に置かれた麻婆豆腐の湯気は勢いを失っていく。早く食べなければ冷めてしまうという事実に、多少の無礼は承知で話を急いだ。
「いやなに、君の食べているそれ、最辛麻婆豆腐の感想を聞きたいんだ。僕もこれは好きなんだが、もしかしたら同胞ではないかと思ってね」
不自然な馴れ馴れしさは同族意識というわけか。
「そうですね。端的に言って、美味しいです。ただの刺激ではない辛さ。旨味のある辛味。勿論辛味だけでなく、塩味や酸味もある。それが米をそそって、こうして話している時間が惜しいくらいです」
要約と割愛に皮肉を添えて答える。真剣に語れば三十分は余裕で続けられるが、言葉の通り時間が惜しかった。
その答えに嫌な顔をするかと思ったが、相手は笑う。先ほどのような僅かな微笑ではなく、獰猛にすら見える笑みだ。
「僕の思った通りだ!」
そして男――カイリさんは「食べながら話そうではないか」と手を合わせた。
「故に! 料理とは一足す一が二ではダメなのだ。ラーメンの上に唐揚げを乗せて『唐揚げ美味しい! ラーメンも美味しい!』ではダメなのだよ」
「無論ですとも。一足す一が三、四にならなければ素材をそれぞれ食べればいいだけですからね」
「だから、女子アナにそれだけの美学を求めるわけではないが、食レポをするなら、せめて『唐揚げにラーメンのスープが染みて、油と油が溶け合ってとても美味しいです』くらい言わなければいけないと思うのだが、どうだろうか?」
「同感ですよ、同感です。テレビだから若い女性を出す必要があるんでしょうが、そんな食レポは料理を無下にしているとしか言わざるを得ません。作った当人を前にして、『これは別々で食べても同じだ』なんて言っているに等しい愚行です」
「あぁ。……少し前に流行った『ちょい足しレシピ』なんていうものは、大半がそんなものだった。メロンに生ハム。これは分かる。甘味と塩味がともに引き出し合っていることを、誰もが理解していた。だが、先の唐揚げラーメンのような一と一を使って二にしかならないようなものがまかり通っていたのだ。これは……、これは悔しい――――」
「なればこそ、我々は――」
熱くなったカイリさんの言葉を、上から響いた電子音が遮る。その音から少し遅れて続いた女子生徒の声が、生徒たちに文化祭一日目の片付けを始めるようにと言った。
ふと我に返って周りを見ると、この学校の生徒しか見えない。一般の客は既に帰ったということだろうか。
そこで、ようやく学食のカウンターの上に設置された時計に目を向けた。四時半。俺は昼飯を食べていたはずだから、普通に考えて四時間、短くとも三時間は話し込んでいたことになる。
「そうだ、しまった。一日目でも片付けがあるんだった」
声を上げたのは、眼前にいるカイリさんだ。秋だというのに腕をまくり、額には大粒の汗を浮かべている。……対する俺も、腕まくりこそしてはいないが、汗でワイシャツの下に着ていたシャツがじっとりとしていた。
「話が途中で終わるのは好きではないが、片付けは生徒の義務なのだから仕方ない。それでは、また話の続きをしよう」
そう言って、カイリさんは空になった皿が乗るお盆を手に取って足早に行ってしまった。
「……なんだったんだ? これ」
ふと冷静になってみると、悪寒がした。話の途中は熱くなりすぎて覚えていないが、その前後でも相当に下らないことを張り上げるように喋っていたのだ。
即座に襲いかかってくる羞恥心と後悔を振り切るように、お盆を持って立ち上がる。向かうのはお盆と皿の返却口。
周りの視線に最大限の注意を払いながら返却口の前まで歩き、お盆を置く。厨房のおばちゃんに「今日も美味しかったです」と一方的に投げかけてすぐさま去――
「いつもありがとうね。嬉しかったよ、さっきの」
返ってこないと思っていた返答に、足が止まる。ついでに心臓でも止まったかのような衝動の直後、その反動かの如く鼓動が早まった。もう学食で昼飯食べるのやめようかな……。




