十九話 陰りと団欒とそれから
秋として数えられる一つ目の月を終えた。
今月末には『ハッピー・ハロウィン』とかいう本来の目的を忘れたイベントが控えていて、その少し前、中旬とも下旬とも言いにくい頃にはささやかな文化祭が予定されている。
言うまでもなく、どちらも大したイベントではない。
ハロウィンは一部の騒がしい人が仮装して飲み会をするイベントだから未成年の俺には関係ないし、俺の通う学校の文化祭は中学と同レベルの展示と一部の部活が何かしらの発表をするだけだ。
しかし、そんな騒がしいだけの月でも、気分は悪くない。なんせ――
「この気温は最高だ。毎年五月と十月を繰り返していればいいものを。なんだ夏と冬なんていうふざけた季節は」
つい先日までフル稼働していた冷房も必要も必要がなくなり、暖房の季節までもまだ時間がある。一年、十二ヶ月のうちで五月と十月だけがこの理想的な環境を実現しているのだ。
「我は大差ないアル。強いて言えば八月と一、二月が堪えるくらいで、他は問題ないアル」
この理想的な季節にさえ冷房を効かせた部屋でダラダラしている奴に言われたくない。こちとら暑い中登校して寒い中登校するのだ。
「羨ましいなら唯野も不登校やってみればいいアル」
「嫌だよ」
即答すると、メイリンは鼻で笑った。これは何度か経験済みだ。
「全員そう言うアル。言う方は勝手アルな」
羨ましい、あんただけ楽してる。そんなことを言った同級生に、メイリンは子供らしくない冷笑を返していた。メイリン曰く「馬鹿どもは物事の良い面を羨むだけで、悪い面を見ようとしない」だそうだ。
「一応言っておくけどな、俺は羨ましいなんて一言も言ってないぞ。ただ無職同然で生活費も入れないくせに冷暖房完備の部屋でのうのうと過ごしていることにイラっとしただけだ」
中学の頃はムキになって反論していたが、今はもう馬鹿じゃない。冷静にメイリンの歪曲した言い回しの穴を突くことができる。
「我も一応言っておくが、生活費を入れないどころか学費まで払わせている唯野よりは出費が少ないと思うアル」
こいつは先行投資という言葉を知らないのだろうか。俺に投資するだけの価値があるかは別として、投資と浪費を一緒にしてはいけない。メイリンの冷暖房費は何も返ってこないが、俺の学費は将来の収入として返ってくる。
「はぁ……。まぁ、どの道父さんが認めてる以上、俺が何を言っても無駄か」
芽生えてしまった苛立ちを投げ捨てるように吐き出して、夏の名残である麦茶を流し込む。
「そういえば」
俺がコップに入った麦茶を飲み干すのを待っていたのか、メイリンが声を上げた。
「最近色々と調べているようだな。心理学入門だとか、キリスト教の何かだとか」
そういえば、という言葉とは裏腹に、メイリンの言葉に思い出すような色は感じられない。今一歯切れの悪い言い方になっていたのは、思い出したというより言葉を選んでいるような印象を受ける。あと語尾忘れてる。
「ナガミに少し言われてな。大した意味はないんだが、何をするわけでもないから、暇潰し同然に読んでいる」
嘘は言っていないだろう。しばらく前ならラノベなり大衆小説を読んでいた時間で心理学なんかの本を読むようになっただけ、と言えば事実と違わない。
「そうか……? 万が一にもユウカのエセ宗教に騙された、なんてことはあるまいな?」
……心配していたのはそんなことか。
「勿論だ。ユウカにもう少し色気があれば……じゃなくて、わけの分からんことを言い出すエセ教主の宗教なんて金を貰っても入りたくない。入信料三千円とかぼったくりにも程がある」
ユウカが美形なのは認めるが、如何せん言動がアホだ。中高生ならアホも魅力のうちなのだろうが、二十を超えればアホなんて欠点にこそなれ、魅力にはならない。
「……。唯野はさっさと彼女でも作った方がいいアル。クラスにそんな奴がいなければ、出会い系……はないアルな。最悪トガミでもいいアル。恋愛したことのない男はやることなすこと未熟で見るに堪えん」
冷静に考えてくれ。トガミと付き合っても、それは彼女じゃない。そっちに目覚めるくらいなら出会い系で数万騙し取られた方がまだマシだ。
「あ、半ば冗談アルよ? なんだか真剣に考え込んでいるようだったが……、我は少し心配になってきたアル」
不覚だった。いつの間にか論外だと一蹴できなくなっていたらしい。
「これはあれだ。無神論だとか人神論ってのを知ったせいで俺の知っていた常識が崩れ始めていたんだ。断じてトガミと付き合うことを考えたりはしていない。ついでにクミも有り得ない」
常識というものはとかく崩れやすい。少しの間一般的な『常識』から離れただけで、正確なものを思い出せなくなる。
そういえば、馬鹿が空気感染するというのも、それと同じだ。「勉強する気があればどんな高校に入っても同じ」と言われていたが、仮に同じ授業が行われていたとしても、周りの生徒に影響されてしまう。勉強していないのが普通の学校と、勉強して当然の学校。どちらが良い環境かは言うまでもない。
厳密に言えば空気感染であるはずがないが、それと同じようなものと言っても過言では――
「…………い。おい、現実逃避はやめにするアル」
俺の健全な常識力を保つための思考を、メイリンの冷酷な言葉が引き裂いた。
「待ってくれ。もう少しでトガミのことなんて忘れて静かな思考に専念できるところだったんだ」
ちなみに、クミのことは簡単に忘れられた。
「意識して意識しないようにしてる時点で意識してるのは明白アル」
なんだよ、その達観した言い草は。
「それはあれじゃなかったっけ? ほら、気付いたら目で追ってたから焦って目を逸したけど気付いたらまた見てる……みたいな」
「いや、まぁ、それを言ったんだがな……?」
予想外の答えに、一瞬呆れる。
そして、呆れた直後に愕然とした。
これは恋愛なんかではない。断じて違う。強いて言うなら、恋愛ゲームだ。どの選択肢を選べば望んだルートに進めるのかという思考を延々と巡らせる感じだ。……まぁ、恋愛ゲームなんてラノベ原作の中途半端なやつを一回やっただけだが。勿論その時は男友達と仲良くなるエンディングを迎えた。
「……と、まぁそんなわけで、この話はやめにしよう」
何がそんなわけなのかは自分でも分からないが、メイリンから返ってきたのは呆れるようなため息だけだった。
なんだか無駄に喉が渇いた。もう一杯麦茶を飲んだら昼寝しよう。
僅かな肌寒さで目を開けると、部屋は薄闇に包まれていた。
夏用から替えたばかりの薄い毛布を手繰り寄せながら枕元に置いておいたはずの携帯に手を伸ばす。
五時半。
「……夕飯作らないとな」
二度寝したい頭を叩き起すように呟いて、立ち上がる。
夕方だというのに外は静まり返っていて、いやに不気味だった。
部屋を出てすぐに異変に気付く。メイリンならいつも付けっぱなしにしているはずの電気が消えている。
起き抜けの頭で非現実的で妄想じみた想像をしたところで、ようやく夕焼けの橙色が一切ないことに気が付いた。
焦って手に持っていた携帯を開くと、表示は五時三十五分。その左に小さく表示されたアルファベットは、午後を示す『PM』ではなく『AM』だ。寝過ごしたどころの話ではない。
そして夕飯のことを思い出した直後、戸の開く音が聞こえた。
「あ、ようやく起きたアルか」
メイリンは昼間と変わらぬ顔で立っていた。
「すまん、寝過ごした。夕飯はどうした?」
徐々に起き抜けの不自然な感覚が抜けていき、いつもの調子を思い出していく。
「ラーメンを食べたアル。麺が一食分残っているから、食うならさっさと食うアル。食わないなら我の明日の昼食になるアル」
昼食ということは、朝食は食べずに寝るということか。
「分かった。もう寝るのか?」
寝る、と答えられればすぐに「おやすみ」と続けられるように頭を整理してから問うが、メイリンの言葉は返ってこなかった。
返事の代わりに流れた沈黙が不快に思えてきた頃、ようやくメイリンが口を開く。
「最近、楽しいアルか?」
何について聞かれているのか、全く分からない。
「なんのことか分からないが、まぁつまらないことはない。それがどうした?」
特段何かした覚えはない。『最近』と問われた以上、日常的にやっている何かだろう。それでも漠然としていて分からないが、つまらないと思ったことは、幸いにも記憶にない。
「そうか。ならいいアル」
そして歩き出したメイリンの背に浮かんでいた色は、早朝の薄闇のせいか、判然としなかった。




