十七話 心理学と失敗女
窓の外で風が吹き、茶色く染まった葉っぱが舞っていった。
そんな秋の風情を眺めてから、周りに目をやる。読書の秋というのか、図書館には大勢の生徒がいた。
その中で俺は、秋どころか青春にすら似つかわしくない本に目を落とす。
『心理学入門』
本のタイトルをチラリと見ると、ため息が漏れた。俺は何をやっているのだろう。
これまでにもしてきた自問自答を繰り返し、もう一度ため息をついてから本に書かれた文字を目で追っていく。
「やややっ!?」
小難しいカタカナや漢字の羅列を読んでいると、近くでふざけた声がした。
「あの~……」
声の方を振り向くと、一人の女が立っていた。その女の頭ではツインテールがぴょんと跳ね、異様に短いスカートがわざとらしく揺れる。
「何か用か?」
総合的に判断して、こいつは危険だ。
「あぁ、いや、その……それ、心理学の本ですよね? そういうのに詳しいのかなぁ……と、思いまして」
心理学の本だと分かるということはこの本を知っているか、タイトルを読んだかしたのだろうが、それならどうして『入門』の意味に気付かないのか分からない。
「勉強中だ。……で、君は誰だ?」
タメ口で答えてから、ふと相手の学年を知らないことに気付いたのだ。背の低さや敬語で話しかけてきたことから先輩という可能性は少ないと思うが、俺はまだ一年だから、単純な確率でいえば同級生であるより先輩である確率の方が倍高い。
「あ、ええと、一年のクミと言います! それで、あなた様は、その……」
よかった、先輩じゃない。
「一年の唯野だ」
「そうでしたか。……ええと、唯野さん」
改めて俺の名前を呼んだ女――クミは、上目遣いでこちらを見据える。……ちなみに、いくら背が低いといっても、俺は座っていて、クミは立っているのだ。自然に考えれば上目遣いになるはずがない。
「ご一緒してもいいですか? あたしも心理学に興味があるんですよ!」
……言えない。男を口説く――と言っていいのだろうか――ために勉強しているなんて、口が裂けても言えない。
「まぁ、好きにすればいい」
まごついて答えてしまったが、これは失敗だった。
「あ、ありがとうございます!」
この女と関わっていくのは相当疲れそうだ。
最終下校時刻を告げるチャイムと放送が鳴って、図書館にいた生徒がぞろぞろと外へ出ていく。
その波に乗るように俺も席を立つ。
「あ、あたしが片付けておきますよ。邪魔しちゃったわけですし」
本を棚に返そうと歩き出したところで、クミが声を上げた。
今の言葉は本当の気遣いか、それとも何か裏があるのか考えてから、「それじゃお言葉に甘えて」と本を渡す。
「あの、明日からも来ていいですか!?」
俺の言葉をなんらかの好意だと受け取ったらしい。
「いや、俺はいつも来てるわけじゃないからな。基本すぐ帰るし、そうじゃなくても教室で読書だし」
言ってしまってから、言うべきではなかったと気付く。教室で読書などといえば――
「じゃあ、教室に行ってもいいですか!?」
こうなっては、断るのも不自然だ。
「まぁ、好きにすればいい」
これでまた、俺の平穏で普通な青春は遠のくわけか。
「返報性の原理、ですか」
生徒の大半が帰るか、部活に行くかして活気を失った教室で、クミが難しいことでも問うかのように首を傾げる。その仕草が素なのか、それとも演技なのかは分からない。
「そんなに難しい話じゃないし、これでも初歩の初歩らしい。まぁ簡単に言えば『何かをしてもらったらお返しをしなくちゃいけない』と思うことだな。そう考えると、日常的な話だろ?」
数日前、クミと遭遇してしまった日に読んだことを物知り顔で説明する。
アホみたいな表情と仕草で「なるほど~」などと言っているクミを横目に、この数日で分かったことを整理していく。
馬鹿。馬鹿だけど成績は普通。入学から告白した回数が五回。うち一回は女に告白。スカートの下はスパッツ。胸にパッドを入れている。でも誰も興味がない。半年の間に口調が何度か変わっている。
集まった情報――というか噂――は大体こんなところで、これ以上の情報はなかった。ここ数日の会話で受けた印象を加味すると、高校デビューに失敗した痛い子である。
ちなみに、入学直後は一部の男子が騙され、他の生徒も面白半分にいじっていたが、夏休み前には飽きられて今ではぼっちらしい。その事実にも気付かず――あるいは気付かない振りをして――普通に過ごしているというのだから驚きだ。
「…………ってことは、ですよ? ……って、あれれっ!? 聞いてましたか!?」
思考を掻き乱すように馬鹿げた声が響いたので「うん、聞いてる」と相槌を打って、再び思考に潜る。
しかし、それをクミが邪魔した。
「むむむっ! あたしには分かりますよ。本当は聞いてなかったんですねっ!?」
そんなのお前でなくとも分かるはずだが……、という言葉は飲み込んでから、にこりと笑みを作ってクミの方を見据える。
「悪い、ちょっと考え事してた。よかったら、もう一回話してくれる?」
いっそ嫌われるようなことを言ってしまえばいいじゃないか、という悪魔の誘いを振り切って心にもないことを言う。
予行演習のつもりだったのだが、実際にやってみると案外気持ち悪い。トガミくらいなら適当に騙せるだろうが、曲がりなりにもスパッツを履いてまでスカートを短くするような策略系女子に通用するはずが――
「し、仕方ないですね! もう一回だけですからねっ!? こっ、今度はちゃんとこっちを見て、しっかりと聞いて……っ」
ていうか、策略系女子ってなんだ。
「それでですね? その返報性の原理を使えば、もしかしたら…………」
そもそも、この馬鹿女が策略など練られるはずがない。できて雑誌に書いてあるようなことくらいだろう。
「あっ! また聞いてないですね!? 今度こそ許さな――」
「聞いてたよ」
即答すると、クミはいくらかまごついた。
そのクミに「聞いてたって」と重ねて言うと、今度はすごすごと謝るようなことを口にする。しかし、言葉は明瞭としない。
「ちゃんと聞いてるのに疑ったりして、ちょっとひどくないか?」
面白そうなので、少し遊んでみる。
予想通り、クミは「あっ」だの「いやっ」だの、よく分からない声を出すだけだ。
しばらく待って「ごめんなさい」の言葉を聞いてから、本題を口にする。
「本当に悪いと思ってるなら、今度の休みにどこか行かない?」
我ながら思う。気持ち悪い。
しかしクミは気付いていないらしく、焦ったような、顔色を窺うような様子で首を縦に振る。よし、失敗しなかった。
「はい、今のが返報性の原理な。クミが一つ失敗をしてしまった。そこを許すと言って、その代わりにお返しを……って話だけど、分かったか?」
返報性の原理は真っ当な商売は勿論、詐欺にまで利用されることがある。これは『悪用厳禁!』という謳い文句の本に書いてあった。
「あ、そうだったんですか! ……で、休みにどこかへ行くというのは、その、本当なんですか?」
先ほどの件で嫌な思いをさせなかったのだと理解したらしいクミは元の笑顔に戻って問う。
「無論冗談だ」
そもそも俺はクミの話など聞いていなかったのだから、この件で悪いのは俺なのだが、まぁそれは置いておこう。
「な、なんだぁ。焦っちゃいましたよ! 会って数日でデートなんて……」
意味深に言ったクミはやはり上目遣いで言う。同性に告白したという話は聞いていたが、どういう基準で相手を選んでいるのだろうか。俺は顔もスタイルも頭も良くなかったはずだ。
……まさか手当たり次第ということだろうか。
「さて」
クミによって演出された、というかクミが必死に振りまいた甘い雰囲気を断ち切るように立ち上がる。
「返報性の原理を覚えたところで帰るか」
焦って立ち上がり、一緒に帰ろうとしているクミに「それじゃ、また明日」と告げて気付かれないギリギリの早足でその場を去る。
クミは近くの机の椅子を持ってきて座っていたから、それを片付けるのに時間がかかるだろう。そのアドバンテージで一気に差をつけるのだ。教室を出れば死角をついてダッシュできる。
「よっ、唯野」
しかし教室を出たところで、引き止められてしまった。声の主はナガミ。タイミングが悪い。
「あ、すまん。何か急ぎの用事だった……か?」
一瞬言葉を躊躇ったナガミの視線を追っていくと、わざとらしく怒った顔をしたクミの姿があった。
「誰ですか!? この女っ!!」
いや待て、それは恋人の浮気を責める時の言葉だ。どう考えても数日前に会った同級生Aに対する言葉ではない。
「待ってくれ、誤解されるような言い方をするな。これはただの友人で……ってこれも誤解されるじゃねえか。とにかく、俺とナガミは何も……ってまた――」
「本当にそういう関係じゃないんですか!?」
焦りで言葉が浮かばない俺に、クミが詰め寄る。
「本当だ」
「ほんとにほんと!?」
「本当に本当」
ここにいたのがトガミではなくナガミだったのが不幸中の幸いだ。ナガミなら後で説明すれば全く問題はないが、トガミなら説明と埋め合わせで厄介なことになる。……あ、その埋め合わせも返報性の原理によるものか。なるほど、勉強になった。
「まぁ、仕方ないですね。今回は許します」
許すも何も、俺は悪いことなどしていない。冤罪どころか、そもそも罪状がないのだ。
「それで、この人は誰なんですか? ただの友達って言ってましたけど……」
まだ疑うような視線を向けるクミに、ナガミが微細な笑みを浮かべた。こいつ楽しんでやがる。
「同じクラスのナガミだ。唯野の友人だが……、そっちは?」
ナガミの言葉に、「あたしも唯野さんの友人です」と対抗意識を燃やしているらしいクミが答える。無論、友人になった覚えはない。
「ほう、友人か。友人……。友人か」
三度も繰り返したナガミは、ニヤリと笑った。その意図など分かりきっている。
「い、今はまだ友人ですけどねっ! そう遠くないうちに…………」
ゴニョゴニョと何事かを言ったクミは、「さ、さっきだってデートに誘ってもらったんですからっ!」と捨て台詞を吐いて走っていった。
いや誘ってないし。あと、そこではっきり言わないのは策略系女子の名折れだと思う。
「唯野、貴様の周りには面白い連中が集まってくるな!」
そしてナガミは呵々と笑った。
「その連中の中にお前がいるのは承知の上だよな?」
ため息混じりの言葉には、「無論だとも!」と即答された。こいつも無駄にテンションが高い。何か良いことでもあったのだろう。




