十五話 論議の余波
「あづい」
もう九月だというのに、まだまだ暑い。残暑と言うには暑すぎるほどに暑い。
「口に出すな……アル。一回『暑い』と言うだけで暑さが二割増しになるアル」
一回言うだけで二割増しということは、二回言えば更に二割増えて元の一四四パーセントになるわけか。そこにもう一回加えると一七二・八パーセ――
「暑さのせいで頭がおかしくなったらどこを訴えればいいんだ?」
「精神科行けアル」
仕方ない。これ以上暑さで頭がおかしくならないように努力しよう。
「二割増しの更に二割増しまで計算したから、次は二割増しの二割増しの二割増しか」
二〇七・三六パーセント。
更に二割増しにすると……、二四八・八三二パーセント。
更に二割――
『うーまいメロン、うーめろん! うーまいメロン、うーめろん!』
理性を保つための呪文を更なる呪文が掻き消す。
携帯電話の画面を見ると、『トガミ』と表示されていた。
「なんだ?」
「今、大丈夫?」
社会人でもないのだから、大丈夫じゃないなら電話に出ないだろうに。
「大丈夫だ」
「よかった。今度の土日って暇かな?」
これは嫌われる誘い方だ。ここで暇だと言えば嫌な用事でも断れず、最初から断ろうにも用件が何か分からないから断り方を絞れない。
「一応暇だ」
俺の休日に入っている予定などトガミかナガミに誘われた用事しかない。
「じゃあさ、登山行かない?」
「嫌だ」
反射的に即答してしまった。
登山に嫌な思い出があるわけではないが、この暑い中でわざわざ登山などしたくもない。それに、紅葉の季節はまだ少し先だ。
しかし、そんな俺の思いを断ち切るかのように、トガミが言葉を返してきた。
「暇なんだよね?」
なんだ、確信犯だったのか。
「そういえば、トガミは知ってるか? 確信犯って『結果が分かっていてやった』とかいう意味じゃないんだ――」
「話逸らさないでね?」
こいつはいつの間にか成長している。以前のようにおどおどとした雰囲気はなくなり、代わりに自らの外見を十分に活かした図々しさが増した。
……まぁ、男の外見に惑わされるほど頭がおかしくなったわけじゃないが。
「で、大丈夫かな?」
イエスとしか答えられない問いを投げるトガミに、電話越しに頷きを返す。
すると――勿論こちらの頷きを察したわけではないが――トガミは嬉しそうに「じゃあ登山の準備しといてね!」と告げ、電話を切った。
「メイリン、今週末は登山に決まった」
道連れを一人増やすごとに、俺の苦痛は二割ほど減るのだ。
さて、次は二割ずつ減らしていく計算に入ろう。
山麓のバス停で降りると、いくらか霧がかかっていて、心地の良い涼しさだった。
「半日ほど登って、宿に着いたら適度に休んでから散策だな」
さらっと恐ろしいことを言ったナガミは、そのまま歩き出してしまった。
「え? ちょっと待った。半日使って登ってから散策とか、帰るの夜になるよな?」
ここまでの道のりも相当だったから、家に着くのは夜中だろう。夜中に帰ることに抵抗を持つような歳ではないが、散策するくらいなら早く帰りたい。
「言ってなかったか? 宿で一泊するぞ?」
そういう大事なことはしっかり伝えてほしい。
そういえば、トガミは『土日』と言っていた。その時点で気付くべきだったのだろうか。
「あの……、俺たち着替えとか持ってきてないんだけど…………」
「あ、我は持ってきたアルよ」
なんで持ってきてるんだよ。なんで仲介した俺が持ってきてないのに末端のメイリンが持ってこられるんだよ。
「大丈夫! 僕は唯野の汗の臭いとか嫌いじゃないから!」
もう嫌だ。帰りたい。
しばらく登った先、宿の近くにあった沼の辺でトガミがくるりと振り向いた。
「知ってるよね? 昔は山に神様がいる、って信じられてたんだよ?」
言葉の意図が分からずに頷くと、トガミは満足そうに再び前を向く。
「海にも、空にも、地球の裏側にも神様がいるって信じてた」
地球の裏側にいるのは神様ではなく亀だか象だった気がするし、それは神話の頃まで遡る気がしないでもないが、さしたる問題でもないだろう。
「今の人たちは、みんな空にいると信じてる。今になっても米粒の中に神様がいるなんて信じてる人はいないだろうし、いたとしても、それは生まれた時から洗脳に近い教育を受けたからだ」
「洗脳とは、また失礼なことを言うな」
そんな俺の言葉にはクスリと笑っただけで、トガミは言葉を続ける。
「その空も、そう遠くないうちに神様がいないと証明される。……いや、もうされてるのかな?」
それは無理だろう。空、即ち宇宙の全てを人が知ることは不可能に近いし、一説によれば今この瞬間も広がり続けているという。それなら、そこにいないと証明することは、やはり無理だ。
「それで、トガミは信じているのか? その神様を」
当然のように「信じてないよ」という答えが返ってくる。元になったのがナガミの無神論である以上、信じているわけもないか。
「なら、本当に人は神になれると思っているのか?」
以前の話ではないが、最初から答えが分かっていて、それでも欺瞞を繰り返しているのではないだろうか。
「さて、どうだろうね」
トガミの声音は隠し、誤魔化すというよりは、本当に疑問に思っているかのようだった。
「でも、本当に人が神になれたとすれば、世界平和も夢じゃないよ。神が人の世を管理するんだから、争いなんて簡単に潰せる」
よくある話か。絶対者に管理され、全てが予定された通りに進んでいく社会。それが良いことか悪いことか、という疑問を抱いた少年少女が旅でもするのだろう。
「だが、現実的ではないわな」
投げやりに核心を突く。トガミも分かっているはずだが、人が神になるなど、現実的に不可能なのだ。
「そんなことを言ったら、三大宗教だってあまりに非現実的だよ。それでも彼らの頭には神なり仏なりがいて、いつまでも盲信してる」
元も子もないことを言ったトガミは「まぁ、比べたところで根本的な解決にはならないわけだけど」とため息をついた。
「本当にな。全く、何も解決しちゃいない」
そもそもキリスト教なんかと比べるくらいなら、人神論なんか既に完成されている。とことんまで悪行をなせば、死んだ後で神として祀られるのだから。
「しかし、あれだな」
沈黙に耐えられなかったのか、それとも見て見ぬ振りも限界にきたのか、気付けば声を上げていた。
「紅葉もしてない山の中で、綺麗でもなんでもない沼を見てるってどういう状況だよ」
もっと言えば、この場にいるのは男二人で、しかも人神論や神様について語っている。悪夢だとしたら相当高レベルな部類に入るだろう。
「ん? それがいいんじゃん。紅葉してたら、綺麗な池だったら、人が沢山いるよ?」
何故だろうか。尋常じゃない寒気を感じた。
「さて、それじゃあ宿に戻るか。そろそろメイリンとナガミも戻ってる頃だろう」
散策はもうやめにしよう。これ以上人気のないところにいると熊か何かに襲われるくらいの身の危険が待っている。
「む……。まぁ、そうだね、帰ろう」
なんとか危機は脱したようだが、今晩のことを思うと、手放しでは喜べない。




