十一話 戦争
麦茶の中に入った氷がカランカランと音を立てて回る。
「遂にこの時期が来てしまった」
バーボンでも飲むかのように麦茶を呷ったナガミが、重苦しい沈黙を破った。
「いやなんの話だよ」
アイスコーヒーを一口飲んでから、冷静に問う。いつものようにファミレスに呼び出され、席に座って五分待った結果がこれだ。意味が分からない。
「何を言うか。夏だよ、夏」
「は?」
もう一ヶ月近く前から言われてきたことを、どうして今更言うのか。
「分からないのか? 夏は水泳の授業が始まり、水泳では学校指定の水着を着なければいけない」
ため息混じりに言われると、何か重大なことのように思えてしまう。
「まさかスク水が嫌だとか言わないよな? ていうかそういうキャラじゃないよな」
スク水とは一部の男から神のように崇められる礼装だが、俺には興味がない。どちらかといえばビキニの方が……と、これはやめておこう。
「私のことなどどうでもいい。問題なのはトガミだ」
何を言っているんだ、こいつは。女子と一緒じゃないと悲しむ男子はいるが、水泳そのものを嫌う男子は相当に希だ。
「まさか、分からないのか……!?」
驚愕の声を上げ、そのままため息をつく。それだけなのに、下手な悪口より堪える。
「トガミは男だ」
何を言い出すんだ、こいつは。
「当たり前だろ。俺だってトガミが男じゃなけりゃ――」
男じゃなけりゃ、どうすると言うんだ。あいつは女のような見た目だが、男だ。だからあの猛烈なアタックを掻い潜って……いや待て、いつトガミが男だと確定したのだろうか。男子用の制服を着て、学校にも男として登録されているが、一度も男だと確信するに至ることは――
いや、あったか。そもそもなんだこの自問自答は。
「本当に分かっていないようだな。トガミは男だ。男だから男子用の水着を着て、男子と一緒に水泳の授業を受ける。だが、トガミは可愛い。下手な女子より可愛い。ゆえに……、男どもが欲情する」
言われて、ようやく気付く。女のような容姿のトガミが上半身裸で授業を受けるのだ。彼女がいなさすぎて気が狂った男は欲情し、トガミの貞操が危ない。
いくらいつものように俺の貞操を脅かすトガミといえど、見過ごすわけにはいかないだろう。
「だが、授業に出なければ色々と痛い。……と、小学校とか中学の時はどうしたんだ?」
「小学校はトガミもちょっと女々しい程度だったから、大丈夫だった。中学は私がトガミの水着を捨ててイジメを偽装したから、教師が自主的に穏便な解決を図ってくれた」
言い方からすると、トガミには内緒で行ったらしい。この場に俺しか呼ばれていないことも考えて、それは確実だろう。弟の貞操を守るためにイジメを偽装するなど、馬鹿としか言い様がない。
「それで、どうするつもりなんだ? まさかこの時期になるまで何も考えなかったわけじゃないだろう?」
もう水泳の授業は来週に迫っている。今から考えていたら、間に合わない。
「そのことなら問題ない」
ナガミの言葉で胸を撫で下ろす。しかし、それだと疑問が一つある。
「なら、俺はどうして呼ばれたんだ?」
俺の言葉に、ナガミがニヤリと笑う。
「あの子は水泳を楽しみにしていてな。汚れ仕事は私がやっておくから、その間に説得を頼みたい。なに、お前から『トガミの裸を他の男に見られるのは我慢できない』とでも言えば、すぐに済むはずだ」
トガミの貞操を守るために俺の貞操を捨てろと言うのか、こいつは。
インターホンを押す。
「は~い、どなたですか~?」
トガミの声に「俺だ。ちょっといいか?」と答える。
前と同じようにナガミと話してすぐに家を訪ね、トガミと話をすることにした。ナガミは休日の学校に向かい、『汚れ仕事』をするらしい。どう汚れた仕事をすれば問題を解決できるのか知りたい。
「いいけど、突然どうしたの? ……あ、上がっていいよ」
玄関の戸を開けて入ると、奥からバタバタと足音が聞こえてきた。
「お邪魔します」
靴を脱いでから言い、一段高くなったところに上がる。
「は~い」
奥から現れたトガミは、以前のような可愛らしい格好ではなくボーイッシュな格好――というか男だから男っぽい格好で当たり前か――をしていた。半ズボンの先からは白い足が伸び、ノースリーブのシャツは脇が開いていて胸が見えそうだ。いや、見えても問題ないのだが。
「前とは変わった印象だな」
とりあえず挨拶代わりに一言言っておく。困った時は服装に触れておけば、大体怪我はしない。
「あっ」
何かに気付いたような声を上げたトガミが、恥ずかしそうに続ける。
「唯野が来るって知ってたらもっとちゃんとした格好してたんだけど、突然だったから、その……」
この前の服装は前もってメールしておいたから気合を入れていた、ということか。こいつ本当に男なのか。
「いや、似合ってるぞ」
言ってから「で、上がっていいか?」と聞く。客の立場で言う台詞じゃないが、玄関で立ち話もなんだ。
通された部屋は、やはりトガミの部屋だった。覚悟を決めなければいけないらしい。
「それで、なんの用だったのかな」
その問いに、高速で頭を働かせる。いきなり本題に入るべきか、それとも世間話から入るべきか。
「特に用があったわけでもないんだ。忙しかったか?」
貞操の危機を前にして、小手先の時間稼ぎをしてしまった。
自然な流れで時計を見る。来た時は十時くらいだったはずなのに、もう午後の一時だ。帰ったら昼が遅れたことをメイリンに謝ろう。
「そういえば」
トガミの話が終わったタイミングで口を開く。今を逃せば次がいつになるか分からない。
「来週から水泳だな」
部屋は冷房で冷やされているはずなのに、手の平には汗がにじむ。
「うん、そうだね」
その嬉しそうな声に、胸が痛む。
今頃になって、致命的なことに気付いた。水泳の授業を休ませるのだろうか。それとも、特例的に上半身まで隠せるタイプの水着を許可してもらうのだろうか。
あの時の言い方からすれば、前者だろう。水泳そのものを諦めさせるようなニュアンスだった。しかし、現実には後者の方が簡単だ。モンスターペアレント並みに攻めれば水着の変更くらい難しくはない。
「トガミは、水泳楽しみか?」
結論が出ず、先延ばしするために問う。
「唯野は楽しみじゃないの? 水の中って楽しいじゃん」
予想外の質問に「微妙だなぁ」と曖昧に答える。
「それじゃ、海とかは行ってみたいか?」
トガミの言葉に僅かな希望を抱いて聞く。水泳そのものが楽しみなのではなく、泳いだり水の中で遊んだりするのが楽しみなようだった。
「え? まぁ、行けるなら行きたいな」
その目は希望の色を浮かべている。
「うん、なら行こう。流石にナガミとメイリンも誘って四人で、ってことになるが……」
ここで疑問も持たれずに話が進めば問題が増えるだけになってしまうが、恐らく問題はない。
「それは、いいけど……どうしたの? 突然」
嫌ってわけじゃないんだけど、と付け足したトガミが、そのままこちらの顔色を窺うような表情をする。成功した。
「いや、実はな……」
覚悟を決める。本日何度目の覚悟か分からないが、覚悟に多すぎるということはないだろう。
「一つ頼みがあるんだ」
トガミは少し悩むような素振りをしてから「なに?」と首を傾げる。
「俺のこと、どう思ってる?」
今の俺は、はたから見れば物凄い勘違い男に見えるのだろう。
「どうって……、突然言われても…………」
これまでの猛攻はなんだったのかと言いたくなるほどに消え入りそうな声でトガミが呟く。攻めるのはよくても、攻められるのは苦手らしい。……と、この言い方もダメだな。
「やっぱり、言えないか……」
相手の好意が分かっているなら、ある程度の手順は分かる。ラノベ様様だ。
「い、いや、言うけど! 言うけど…………」
「なら、早く言ってほしい」
トガミの好意を利用してもあまり心が痛まない。散々貞操を脅かされてきたからか、それとも緊張で麻痺しているのか。
無言で白飯を口に運ぶ。美味い。
「唯野、大丈夫アルか?」
再び白飯を口に運ぶ。咀嚼するほどにほのかな甘味が広がり、白米の真の美味さを知らしめてくる。これだけで十分に美味いが、しかし、それで満足してはいけない。
「メイリン、塩を取ってくれるかい?」
「あ、良かった。生きてたアル。精神が死んだかと思ったアル」
塩を微量だけかけて、口に運ぶ。塩が白飯の甘味を引き立たせ、最高に美味い。
この白飯の美味さを軽視する馬鹿には、この味は堪能できないのだろう。残念だ。哀れだ。それを軽視してしまったがゆえに真の味を知れないなど、この世は非情だ。
「唯野、よくやった」
高校の学食に来たのはいつぶりだったか。しばらく考えて、五月に弁当を作り損ねてしまった日以来だと思い出す。
「こちらの首尾は上々だ」
四月から五月で数回ほど利用したが、味がコンビニ弁当に劣っていたので来ていなかったのだ。塩と油に彩られたコンビニおにぎりの方が断然美味かった。
「で、海へ行く約束をしたそうだな」
しかし、この麻婆豆腐はこの二ヶ月ほども何故気付けなかったのかと後悔したくなるほどに美味い。学食なのに辛さを五段階から選べるというのは特に良かった。『最辛』という最高の辛さは一部の酔狂な者を除き食べられた辛さではないというから四段階目の辛さを選んだが、次は最辛を頼んでみよう。
いや、いっそ一段階目の全く辛くない麻婆豆腐というのも、食べてみる価値があるのかもしれない。
「私たちは、まぁ分かると思うが夏休みは暇だ。トガミの水泳の補習もない」
これだけのものを食べさせられてしまっては、全品食わなければ名折れというものだろう。よくよく考えれば、全一二〇種という学食らしからぬ品数から味が想像できた気もする。
「できることなら、入学した日まで戻りたい」
入学してから毎日二品ずつ食べていれば、今日食べた麻婆豆腐はおろか、他の美味いメニューも早く知ることができたはずだ。早々に判断してしまった自分が恨めしい。
「いや、すまなかった。まさかトガミがそこまでとは、流石に思っていなかった。知り合う前まで戻りたいという気持ちは分からないでもないが、どうか、トガミを嫌いにならないでくれ」
時計を見れば、昼休みはまだ二十分もあった。ならば、答えなど決まっている。
券売機の前まで歩く。百を超える品数で口頭での注文が円滑に進むはずもなく、うちの高校は券売機を用意している。この時点で、この学食に金がかけられていることを想像できなかった過去の自分が恨めしい。
「くそっ、高校生活に友達など不要だったんだ」
友達作りに割く時間があったなら、その時間で学食を調べ尽くせばよかった。これほどの麻婆豆腐が作れるのだから、学食に来た先輩たちに聞けば簡単に分かったはずじゃないか。
「本当にすまない。ただただ謝るしかできないが、本当に、本当にすまなかった」
券売機の上から目を滑らせていくと、先ほどの麻婆豆腐のところに目が止まった。「辛さは五段階から選べます。食券を出す時に一言言ってください」と書かれている。
ここで最辛を頼むのもいいが、やはり違う物の方が良いだろう。
「お、回鍋肉があるのか。これはいい」
券売機に千円札を入れ、回鍋肉のスイッチを押す。音を立てて百円玉と五十円玉が出てくる。八五〇円という値段相応の味か、それ以上の味か。はたまた、それほどの価値もない味か。
「おばちゃん、麻婆豆腐美味しかったです」
言いながら食券を出す。中にはこういう一言を嫌う人もいるが、これだけ美味いものを作ってもらって何も言わずにいられるはずがない。
「お~い、唯野? まさか無視じゃなくて聞こえてないだけなのか?」
さて、出来上がるまでの時間はどうしようか。券売機を眺めて次のために考えるのも良いが、他の人の邪魔になるだろう。
「仕方ない。読書でもするか」
幸福論という幸せそうなタイトルに合った表紙の本を開く。
『名馬ブケファロス』
タイトルを改めて見る。
『幸福論』
再び本を開く。
『名馬ブケファロス』
俺の想像していた本と違うのだが……。
「ほう、幸福論とは……。あぁ、表紙に騙された口か」
ふと、聞き覚えのある声が聞こえた。
「これは表紙の美少女が幸福を謳歌する話じゃないのか?」
「いや、哲学の類いだ。というか、タイトルから分かるだろ」
そういえば、ナントカ論という響きは記憶に新しい。運命論に有神論、無神論に……あと一つはなんだったか。喉に魚の骨が引っかかったように気持ちが悪いのだが、脳が思い出してはいけないと警告する。素直に従っておこう。
「あ、ここにいたんだ。お昼ご飯くらい一緒に食べようよ。っていうか、学食来るなら声かけてくれてもいいのに」
不意にトガミの声がした。今までも親しげだった声は、いつにも増して親しげだ。
「なんだ、いいことでもあったか?」
本を閉じながら問うと、明瞭としない言葉が返ってきた。トガミは耳まで真っ赤にしてもじもじしている。
「恥ずかしがるほどいいことがあったのか。ますます気になるな」
暇になってしまったから時間を潰すように言う。
「唯野の意地悪っ!」
ひどく怒るような声は、しかし底抜けに嬉しそうだった。




