十話 人神論
衣服が乱れていないか確認する。大丈夫だ。
頭が正常に働いているか、少しでも疲れていないか確認する。大丈夫だ。
震えそうになる手をインターホンに伸ばす。震えの原因はナガミに頭が狂うと脅された恐怖か、それとも貞操の危機に対する恐怖か。
「あ、唯野? 入っていいよ」
インターホンのスピーカーからトガミの声が聞こえた。善は急げという言葉にならって、すぐにトガミの家に来たのだ。
電話で確認した様子だとナガミはまだ帰っていないようだったが、恐らく空気を読んで帰らなかったのだろう。なんでこういう重要な時に読み間違えるのか分からない。
「お邪魔します」
「いらっしゃ~い」
お前は本当に男子高校生かと言いたくなるような可愛らしい格好をしたトガミが迎え入れる。
「悪いな。もう夕方だってのに」
時刻はもうすぐ六時になるという頃で、人を訪ねるには少々迷惑な時間帯だ。しかし、トガミの顔に迷惑そうな色はない。
「いいよ。親は二人とも違うところに住んでるし、姉さんもまだ帰ってこないから。なんか急用ができたってメール来たんだよ」
両親が違うところに住んでいるというのは、父さんと同じようなことだろうか。あとナガミの言い訳があまりにお粗末なのは何故だ。
「ほら、上がって上がって。まぁお茶くらいしか出せないけど」
出来る限り自然に靴を脱ぎ、並べる。
すぐに立ち上がってトガミの後を追うと、リビングらしい部屋を通り過ぎて、『トガミ』と書かれた札が下がった部屋に入っていく。貞操の危機が高まった。
「失礼します」
トガミの部屋は、想像していたより普通だった。今着ている服のように可愛らしいわけでもなく、狂っていると言われたようにおかしなところもない。強いて言えば大きな本棚いっぱいに本が詰まっていることくらいだが、それも人格を疑問視するには至らない。
「そんなに見られると恥ずかしいな……」
トガミが誤解されそうな言葉を吐いて、身をよじる。裸体でも見られたかのような――いや男同士だから見ても問題ないはずだが――仕草に、不覚にもドキリとしてしまう。
「あ、それで、話だったね。ええと……、何かな?」
その視線は熱い期待がこもっている。
「悪いが、期待するような話じゃない。単純に、トガミはどんな『思想』を持っているのか聞きたいと思っただけだよ。これまでの核心を避けるような話じゃなくて、根本から」
俺の言葉で、静かにはしゃいでいたようなトガミの空気が一変する。一瞬まずかったかと不安になったが、そうではないらしい。熱い恋情が静かな恋慕に変わったような――と、この例えはダメだな。
「姉さんと話したのはそのこと?」
静かに、核心を突く言葉。
「正確にはナガミの思想な。無神論だったか。あれを聞いた。ついでにメイリンの運命論もこの休日に聞いた。それで、あと聞いてないのはトガミだけだなぁ、と」
トガミのことをナガミから聞いていたわけではない、と暗に弁明する。見方によっては騙すことになるが、今は嘘も許されるだろう。
「うん。分かった。でも、一つだけ約束して」
これから狼男や吸血鬼だったと告白するのだろうか、などと現実逃避しつつ「あぁ」と頷く。
「嫌いにならないでね?」
予想していた言葉に、やはり狼男か吸血鬼、あるいは女の子だったんじゃないかと期待を抱く。
「あぁ」
願望を振り払って、再び頷く。
すると、「じゃあ、話すね」とトガミが言う。
「僕は真剣に『人神論』を考えてるんだよ。人は神になれるのか。なれるなら、どうすればいいのか」
一瞬なんのことを言っているのか分からなかった言葉を、直後に続いた言葉で理解する。
「つまり、トガミは神になりたいのか?」
自分で口にした言葉がどれだけ荒唐無稽かは理解している。人が神様になるなど、今時アニメでもありえない。
「いや、そうは思ってない。そもそも、僕の考えだと、僕は神になれない」
既に不適格な人間をふるい落とせる段階まで進んでいるのか。
「どうして、トガミはその『人神論』を考えたんだ?」
「姉さんの話を聞いたなら分かるよね。この世界に神はいない。なら、その空席に何者かが座ることも可能なんじゃないか、って」
飛躍した。校舎の一階から三階まで一気に上るくらい飛躍した。
「その席に座れるのが人間だと思ったのは何故だ?」
神様の席が空いていたとしても、その席に座るなど不可能だ。そう言いたい気持ちを抑えて、言葉を紡ぐ。
「その席に座れるのは猿や亀――いや、まだ生まれていない新たな生命体かもしれない」
人が生物の頂点にいるなど傲慢だ、と暗に言う。
「それは考えたよ」
トガミが静かに答える。
「でも、やっぱり人間だよ。知恵も、力も、技術も、他の追随を許していない。まぁ、まだ生まれてない生物はなんとも言えないけど」
俺の感情的な意見を、トガミの冷淡な言葉が切り捨てる。
「口を挟んですまない。続けてくれ」
トガミは俺の言葉に「いや、いいよ」と笑ってから、再び冷淡な――狂信的とも言える――調子に戻り、問うてきた。
「神様って何をする存在だと思う?」
言われて、頭を働かせる。父さんの理論では見ているだけだが、一般には違う。困っている人を助けたり、逆に罪を犯した人を罰したりすることだろう。
「救ったり、罰したり……だな」
率直に答えると、すぐに次の問いが飛んでくる。
「それはどんな基準で? って言っても分かりにくいか……。そうだね、その救ったり罰したり、救済と断罪は、平等に行われるべきだと思うかな?」
平等とは、つまり私怨や愛情で優遇や冷遇をしないということだろうか。
「あぁ、そりゃそうだな。平等であるべきだ」
俺の答えに、トガミは何度も頷く。模範解答だったらしい。
「それじゃ……、覚えてくれてるかな? 理性だけの人間の話」
不安そうに発せられた問いに頷く。理性だけの人間は化物で、完全な理性は感情すら形骸化させる。どうにも忘れられなかった悪魔的な響きだ。
「ここで、そこに繋がるんだよ。本能、つまり食欲だとか性欲に影響されず、理性によって感情も形骸化すれば、完全に平等な救済と断罪ができる。そこに我欲はなくて、ただ世のため人のため――いや生物のために行動する。それこそ、神に相応しい姿だよ」
熱のこもった言葉とは裏腹に、薄ら寒さを覚える。理性だけの化物。そんなものは――
「人間とは呼べない」
口を衝いて出た言葉を取り繕おうとして、やめる。どうせ言わなければならないことだ。
「そうだよ」
不意の肯定に唖然としてしまう。人が神様になる理論なのに――
「そもそも、人であることすら捨てるのか」
俺の言葉に「うん」と可愛らしい声が返ってくる。
「どの道人の身じゃ神にはなれない。寿命があるからね」
寿命。まさかこんなところで現実的な話が出てくるとは思わなかった。
「じゃあ、どうやっ……て…………」
言いながら、気付く。こんなトンデモ理論の推測なんてできるようになりたくなかった。
「うん。一回死ぬよ。死んで、神になる」
恍惚な笑みを浮かべた口元は、ナガミの言葉通り、狂っていた。
「だが、ちょっと待ってくれ。そもそも死んだからって神になれる道理なんてない。それに理性だけの人間なんて存在しないだろう?」
理論は最初から破綻していたのだ。人が神様になるなどという荒唐無稽な言葉のせいで指摘が遅れてしまったが、前提からして間違っている。
「姉さんにも言われた」
おどけて言うトガミの顔は、狂ったそれではなく、いつものトガミの顔に戻っていた。
「まだ基礎すら完成してない理論なんだよね」
笑いながら言うと「でも」と真剣な表情になった。その顔には心なしか危機感を抱く色がある。
「唯野となら、完成させられるんじゃないかな、って……」
トガミは静かに詰め寄り、動けずにいる俺の手を握る。この状況は蛇に睨まれた蛙という言葉がちょうどいいのだろう。
「我欲で人神を求めている僕には無理でも、唯野なら……」
遂にトガミが立ち上がり、そのままの状態で抱きつくのではないかと恐怖した瞬間、電子音が響いた。インターホンの音だ。
「トガミ、入っていいかな? 今邪魔じゃない?」
またもナガミに救われたようだ。何度感謝しても足りない。
「むぅ……。もう邪魔してるって…………」
明らかにわざと聞こえる大きさで呟いたトガミが「は~い」と怒ったように言いながら歩いていった。




