九話 無神論
初夏の照りつける日差しの中でも、頭の中には暗雲が立ち込めていた。休日の課題を金曜日のうちに終わらせておいてよかったと思える程度には、侵されていないのだろう。
今になって思えば、ナガミの言葉の意味がある程度は理解できた。こんな気持ちになると分かっていても考えるなど、一周回って尊敬に値する。
「あ、唯野! おはよう」
トガミの声が聞こえ、条件反射で「おはよう」と返す。
「ん? 元気ないけど、大丈夫? 具合悪いなら病院行こうか?」
一緒に行くとでも言いたげな言葉に苦笑してしまう。そして苦笑いでも笑ったら、少しは元気が出た。
「大丈夫だよ。ちょっと眠いだけだ」
答えると「ならいいけど……」と、まだ不安そうな声が返ってきた。
それでも、それ以上踏み込んでくることはなく、これまでと変わらないような会話が始まった。
「ちょっと付き合え」
黄昏の廊下で、背後から声が飛んできた。
「トガミに嫉妬されるぞ」
口を衝いて出た言葉は、それまで頑なに否定してきた事実を平然と肯定してしまっていた。
「トガミには適当な嘘をついてきた。私とお前が二人でいても問題ない」
言うと、そのまま颯爽と歩き出す。拒否権はないようだ。
常連のようになってきたファミレスの、これもいつもと同じ窓際の席で、ナガミと向かい合って座っていた。
「運命論か。まぁ、納得してしまえば生きる気力がなくなるな」
俺の説明を聞いて、ナガミが豪快に笑う。笑い事ではないのだが。
「どんな理論も、一定の『もっともらしさ』を備えている。そうでなければ広まらず、衰退してしまうからな」
批評家のような言葉を吐いてから、以前と同じように両肘を机につく。
「メイリンの運命論もそれと同じだ。前提が同じなら結果も同じだが、前提の時点で結果が平等なだけの可能性があったらどうなる? 過去、即ち前提の存在しない時点でなら、揺らぎがあっても不思議じゃない。最初の時点で数通り、場合によって数億、数兆の『未来』があったとしたら、その時点で終わりは予測できない。メイリンはそこまで考えていないか、見て見ぬ振りをしている」
ナガミの言葉は、一つの穴を突いている。しかし、それでもパラレルワールドのように何本も並行した『世界』があるだけで、前提が確立された状況から枝分かれすることはない。
「だから耳を傾けるなと言ったんだ。メイリンのそれはお前が実感したように生きる意味を問わせ、トガミのあれは頭を狂わせる」
吐き捨てるように言う言葉は、内容の割に深刻な調子ではなかった。どちらかといえば、楽しんでいるようにも見える。
「運命論は一つの確立された理論だ。そんな理論を否定できるほど賢いと自惚れるなよ。自分は馬鹿だから否定できない。でもそんな理屈は間違っている。それでいいじゃないか」
否定できないのは理論が正しいからではなく、自分が馬鹿だから。『否定できないということが、イコール理論の正当性を保証するわけではない』とナガミは言っているのか。咀嚼するだけでも面倒な言葉で励まさないでほしい。
「ありがとな」
ふと、メイリンも運命なんて信じている割には読書をしたりゲームをしたりしていることを思い出す。あいつも割り切っているのだろうか。
「それで、ナガミはどんなことを考えてるんだ?」
これまで何度も俺に忠告してきたのだから、なんらかの考えがあるのは間違いない。
「私か? 私はただの無神論者だ。日本人には珍しくないだろう?」
無神論。神は存在しないとする意見か。
「父さん――俺の父も言ってたけど、日本人に無神論が多いってどういうことだ?」
信心があまりない、などと言っていたのは覚えている。
「簡単だよ。キリスト教と仏教の二つを中心に、色んな宗教が乱雑に氾濫してるだろ? 仏壇の横にクリスマスツリーを出したり、神社と寺を混同したり。そうやって一つの神を信仰しないから、神っていう存在そのものが希薄になる。多くの者は多宗教になるが、そもそも特定の宗教で育たなかった者は、現実的ではない神をサンタと同じようなものだと考えるようになる」
あぁ、そういうことか。仏教圏では産まれてからずっと仏教に触れて育つから、それが当然のことになる。対して、そもそも宗教というのが希薄な環境で育てば、神様を信じる気持ちも希薄になる。
「なるほど。それでも神様を信じてる人は多いけどな。寺で神頼みのお守り買ったり――ってこれがもうアウトか」
俺の言葉を聞いて、ナガミが笑う。
「まぁそういうことだ。私はそんな理由で、神を信じていない。それだけだ」
その言葉に納得しそうになって、違和感に気付く。
「それだけ、ってどういうことだ? メイリンみたいに色々考えたりしないのか? それに、時々意味深なことを言うくらいで、他は普通だ」
ブラコンは少し普通じゃないが、と付け加えて、コーヒーを一口飲む。冷めかけた安いコーヒーは泥水になっていた。
「考えるさ。考えるが、無神論は確立されているし、そもそも神を信じてないってだけで、他は大して考えてない者と同じだ。それでもトガミやメイリンと話す時は熱くなってしまうが」
納得だ。神を信じていない人と神のことなんて考えない人。その違いは些細で、わざわざ喋らなければ差を認識する方が難しい。
疑問が尽きてしまったので、適当に頭を巡らせる。すると、ちょうどいいことを思い出した。
「そういえば、メイリンとは結構気が合ってたみたいだが、どうしてだ? 運命論をあれだけ言っといて」
俺の言葉に「なんだ、分からないのか?」と言ってから、ナガミが答える。
「運命論の大半は『神によって決められている』とする理論だ。だがメイリンはそうではなく、『原理によって決められている』とした。そこには神が必要ないどころか、超越者たる神は邪魔でしかない。そういう意味で、無神論と相性が良い」
「そういうことか」
納得の声を上げてから、思い出す。俺はメイリンと会話した時、その世界を神様が見ている様を想像した。
「父さんは神を信じていたよ。『ただ見ているだけ』ってだけだったけど、それならメイリンの運命論にも当てはめられる」
俺の言葉に、ナガミが「ほう」と目を細める。
「お前の父はユウシン論者か。あぁ、『ユウシン』とは『有る神』、つまり神の存在を肯定する理論だ。運命論者の兄で有神論者の子など、不幸だな。まぁ、だから私やトガミが寄っていったんだろうが」
本日何度目かになる呵々大笑をしたナガミが、伝票を持って立ち上がろうとする。もう必要な話は済んだ、ということだろう。
だが、一つ忘れていた。
「ちょっと待った。トガミはどんなこと考えてるんだ? どうせ聞く予定なんだが、気になる」
ナガミは動きをピタリと止めて、真剣な――僅かな恐ろしさすらある――声で言う。
「トガミのはやめておけ。運命論ほど致命的ではないにせよ、比較にならないほど狂っている」
さっきも言っていた。頭を狂わせる、と。それは、どういう意味なのか。
「この前と言っていることが違うぞ。聞いた振りはするなと言ったり聞くなと言ったり。どっちなんだ?」
ナガミは悩むような表情を浮かべてから、ため息とともに答えた。
「トガミのことを思えば真剣に聞いてやってほしいが、お前のことを考えれば聞かない方がいい。…………まぁ、常識的な頭を保てれば問題ないか」
言うと、今度こそ伝票を持って立ち上がる。前も思ったが、どうしてこうも自然に奢れるのか。男として見習いたい。




