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お嬢様の命令で男装侍従になったら、隣国の王子殿下に溺愛されています  作者: 岸根しき


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第9話 本当の名前




 異変に気づいたのは、三日後の夜だった。


 屋根裏の自室。床板の下の銀貨は、無事。


 けれど、上着の内ポケットに入れたはずの出発帳が――ない。


 血の気が引くのと、呼び鈴が鳴るのは、ほとんど同時だった。


 セシル様の私室へ入ると、その方は暖炉の前の椅子で、見覚えのある小さな手帳をめくっていた。


「『出発帳』……ふふ。可愛らしい題ね」


 ぱらり、ぱらりと、頁がめくられていく。


「船賃。試験料。ヴェルディアで読みたい本。……あなた、わたくしの物語の外に、こんなものを書き溜めていたの」


「お返しください」


「あら、侍女の持ち物は主人の持ち物よ」


 セシル様は立ち上がり、暖炉の前へ歩いた。


「言ったでしょう。皆が信じれば、それが本当になるの。逆に言えば――誰も知らなければ、なかったことになるのよ」


 白い指が、出発帳を火の上へ差し出す。


「お嬢様……!」


「十九になっても、あなたは更新の署名をするわ。あなたの帰る場所は、ここしかないのだから」


 小さな手帳が、炎の中へ落ちた。


 二年分の数字と、書きたい本の題名と、わたしの本当の気持ちが、めくれ上がりながら黒く縮んでいく。


「これで、すっきりしたわね」


 セシル様は、満足そうに微笑んだ。


「下がっていいわ、リュシエル」




 屋根裏へ戻る階段の途中で、わたしは一度だけ、壁に額を押しつけた。


 泣くかと思った。


 髪を切られた夜のように。


 けれど、目の奥が熱くなったのは一瞬だった。


 気づけば、奥歯を噛みしめている。


(――帳面は、本当のことだけを書く場所)


 オーレン先生の言葉を思い出す。


 帳面は燃えた。でも、書かれていた事実は燃えていない。


 銀貨は床下にある。四年分の署名は受領簿にある。わたしが解いた一行は、写本の欄外に残っている。


 そして。


(数字なら、ぜんぶ覚えているのよ。お生憎さま)


 四年分の受領記録を書き写して、二年間、毎晩なぞってきた数字だ。忘れられるはずがない。


 わたしは顔を上げた。


 燃やされたのは、帳面だけ。


 わたしの出発は、燃えていない。


 それから、もう一つ。


 胸の奥で、あの日の諺が、はっきりと蘇った。


 ――沈みかけた船から荷を降ろすのに、船長の許可は要らない。


 東屋で聞いたときには、意味が分からなかった。


 けれど今夜は、痛いほど分かる。


 この船は、もう沈みかけている。


 わたしという荷を降ろすのなら、今だ。


 そしてそのことに――お嬢様の許可は、要らない。


(いつか思い出せと、仰いましたね。……思い出しましたよ、アル様)


 屋根裏へ戻ると、わたしは寝台の下の木箱を引き出し、底から、使っていない古い帳面を掘り出した。


 表紙は薄汚れているし、頁の端は湿気で少し波打っている。


 ――構うものですか。


 蝋燭を灯し、机に向かい、羽根ペンを執る。


 最初の頁に、題を書く。


 出発帳、と。


 それから、数字を書きはじめた。


 最初に貯めた銅貨の日付。写本整理の報酬、第一回から先週の分まで。船賃の合計。試験料の残り。読みたい本の題名は、綴りのひとつまで。


 毎晩、暗闇で諳んじてきた数字たちが、指先から次々と、紙の上へ帰ってくる。


 途中で一度だけ、手が止まった。


 涙が一滴、頁の端に落ちたからだ。


 染みになる前に、袖で押さえる。


 帳面は、本当のことだけを書く場所。……悔し涙も、まあ、本当のことのうちだけれど。


 書き終えたのは、夜明け前だった。


 四年分の仕事と、二年分の夢が、ぜんぶ、わたしの手の中へ戻ってきた。


 窓の外が白みはじめる。


 わたしは新しい出発帳を、上着の内ポケットではなく、胸元の――肌にいちばん近いところにしまった。


(今度は、燃やさせないわ)







 翌朝、図書室の扉を開けると、アル様はもう、いつもの窓際の席にいた。


 開館の鐘も、まだ鳴っていない時刻なのに。


「……お早いですね」


「ゆうべから、嫌な予感がしていた」


 アル様はわたしの顔をひと目見て、写本を閉じ、静かに立ち上がった。


「……当たっていたようだな。顔に書いてある」


「はい」


 隠す気力は、もうなかった。


 ――いいえ。隠す必要が、もうなかったのだ。


「お話があります。オーレン先生もご一緒に、人のいない場所で」


 わたしたちは、司書作業室へ移った。扉の外には、レナルドが立ってくれている。


 アル様は椅子に座り、黙ってわたしの言葉を待った。


 急かさない。この人は、いつもそうだ。


 わたしは一度だけ深く息を吸い、七年ぶりに、自分の声で名乗った。


「わたしの本当の名前は、カエラ・リュシエと申します。没落しかけた伯爵家の娘で、十一の歳からランブレー侯爵家で侍女を務めてまいりました」


 わたしの、と言えた。


 僕の、ではなく。


「男装は、今学期からお嬢様に命じられたものです。行き倒れの孤児という筋書きも、すべて。……つまり、その」


 言葉を探して、結局、いちばん短いものを選んだ。


「女、です」


 沈黙が落ちた。


 オーレン先生は「知っていた」という顔で茶を啜っている。


 アル様は――固まっていた。


 金色の瞳が、まばたきを三回。


「…………女」


「はい」


「……カエラ」


「はい」


 アル様は額に手を当て、天井を仰ぎ、それから深く息を吐いた。


「……道理で」


「道理で、とは」


「……いや。俺の中に、長いこと答えの合わない一行があってな。答えはとうに出していたんだが――その式の意味に、いま、心の底から納得した」


「古語の、お話ですか?」


「そうだな。古語の話だ。……く、くく……はっはは!」


 こらえきれなくなったように、アル様は声を上げて笑い出した。


 肩を揺らして、目元まで緩めて。こんなに笑うこの方を、わたしは初めて見た。


(……女だと知って、そんなに嬉しいものかしら)


(もしかして、まんまと騙されていたのが可笑しいのかもしれないわ)


 まあ、笑って済ませてくださるなら、こちらとしてはありがたい話だけれど。


 扉が開き、レナルドが茶器を載せた盆とともに入ってくる。


「おめでとうございます、殿下」


「待て。お前、驚かないのか」


「初日に、真新しい入構証で『今学期から』と伺いました。ですがお嬢様は『幼いころから』と仰る。数が合いませんので。あとは指の形と、歩幅と、お茶を注ぐ角度で」


「なぜ先に言わない」


「殿下がお気づきになるまで黙っている、と申し上げました」


 ……この従者、そのうち人の心まで読みはじめるのではないかしら。




 それから、わたしは全部を話した。


 燃やされた出発帳のこと。手首の痕のこと。実家への援助と入構書類を握られていること。十九歳の誕生日まで、あと三百日と数えていたこと。


 アル様は最後まで口を挟まなかった。


 けれど話が終わったとき、卓の上で組まれたその手は、指の色が変わるほど固く握られていた。


「……よく、話してくれた」


 低い声だった。


「レナルド」


「はい」


「例の件、進めろ。これまで以上に、丁寧に」


「かしこまりました」


 ……例の件?


「アル様。何を、なさるおつもりですか」


「聞くな」


 あまりにあっさり切り捨てられて、わたしは一度、口を閉じた。


 閉じて――それから、開き直した。


「いいえ。聞きます」


「……なに?」


「わたしの七年です。わたしの帳面で、わたしの名前です。それを取り返す算段から、当のわたしだけが外されるのは、納得がいきません」


 言ってしまってから、心臓が遅れて跳ねた。


 王子殿下に、真っ向から「いいえ」と言ったのだ。


 けれどアル様は、怒らなかった。


 怒るどころか、レナルドと顔を見合わせ、それから観念したように息を吐いた。


「……レナルド。言うと思ったか?」


「わたくしは、七割ほどは言うと予想しておりました。殿下は?」


「……三割だ」


「まだまだ、リュシエル様……いえ、カエラ様へのご理解が浅うございますね」


「お前は黙っていろ」


 アル様は椅子に座り直し、わたしをまっすぐに見た。


「証拠だ。誰の目にも動かせない、書類と、署名と、日付。それを揃えて、あの主人を人前の舞台から降ろす。……だが正直に言えば、侯爵家の内側は、外から調べるには時間がかかる」


「でしたら、近道をお教えします」


 今度は、わたしが息を吸う番だった。


 七年、あの屋敷にいたのだ。どこに何があるかなら、目を閉じていても言える。


「男物の衣装は、王都三番街の仕立て屋レーヴェルへ注文されました。お嬢様のお名前入りの注文書の控えが、店の帳場に残っているはずです。わたしの入構書類を作らされたのは、家令のバルト。家印の管理台帳と筆跡を照らせば、一致します。それから――髪を切った夜、その場に居合わせたのは侍女頭です。ただ……あの人も、侯爵家に暮らしを握られている身です。証言までは、望めないと思います」


 レナルドが、懐から手帳を出して書き取っていく。


「店の名前、家令の名前、当夜の在室者。……完璧でございますね。調べが三月は縮まります」


「帳面に書くまでもありません。ぜんぶ、覚えていますので」


「……お前のその記憶力は、本当に大したものだな」


 アル様が、呆れ半分、感心半分の顔で言った。


「今は、いつも通りにしていろ。あちらは必ず、自分から舞台に上がる。ああいう手合いは、幕が上がらないと生きていられない性分だ」


「……お待ちになるのですか」


「航海術の基本だ。追い風は、待って使う」


 目が合った。逸らされることのない、まっすぐな目だった。


「そのときが来たら、逃げるな。自分の名前を、自分の口で名乗れ」


「名乗ります。……そのあとは?」


 あとは俺が引き受ける――そう言われるのだと思った。


 この方は、そういう方だから。


 けれどアル様は、少しだけ黙って、それから首を横に振った。


「引き受けない」


「……はい?」


「これはお前の戦だ。俺が横から全部さらっていったら、お前は七年の落とし前を、自分の手でつけ損なう。――だから」


 アル様は、卓の上へ手を置いた。


 差し出すのでも、掴むのでもなく。ただ、わたしの手の隣へ、並べて置くように。


「お前がやれ。俺に、手伝わせろ」


 ……ずるい人だ。


 命令なら、従えばいい。庇護なら、頭を下げればいい。


 でも「手伝わせろ」には、わたし自身の返事が要る。


「……はい」


 声が、少しだけ震えた。


「わたしの戦に、あなたをお雇いします。報酬は――そうですね。勝ちましたら、古語の議論で一勝、差し上げます」


「たった一勝か。……ずいぶん安く雇われたな、俺は」


「ご不満でしたら、辞退なさっても」


「誰が辞退するか」


 アル様が笑い、レナルドが手帳を閉じた。


 わたしの戦が、この日、始まった。


「カエラ」


 扉に手をかけたわたしを、アル様が呼んだ。


 初めて呼ばれた本当の名前は、思っていたより、ずっとくすぐったかった。


「今までよく頑張ったな」


 そのことばを聞いて目頭が熱くなり、わたしはアル様に顔を向けられないまま、司書作業室を後にした。




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