第10話 天使の筋書きが破れる夜
学術院の秋を締めくくる、創立祭の夜会。
大広間には貴族の子女と教師陣、そして招かれた各国の来賓が集っていた。
その中央で、セシル様は今学期最高の舞台を用意していた。
「皆さま、聞いてくださいまし」
よく通る、涙を含んだ声。
広間のざわめきが、すうっと引いていく。
「わたくし、騙されておりましたの」
扇の陰で目元を押さえ、セシル様は震える声で続けた。
「わたくしの侍従、リュシエルは――女ですわ!」
どよめきが、波のように広がった。
視線が、一斉にわたしへ突き刺さる。
「行き倒れと哀れんで引き取った恩を仇で返し、男と偽って学術院へ入り込むなんて。ああ、わたくし、怖くて怖くて……」
完璧な被害者の演技だった。
筋書きどおりなら、ここでわたしは青ざめ、震え、衛兵に引き立てられていくのだろう。
――お生憎さま。
その台本、こちらはとっくに読み終えているのよ。
わたしは一歩前へ出て、まっすぐに背筋を伸ばした。
「はい。わたしは女です」
広間が、しんと静まった。
真っ先に固まったのは、セシル様だった。泣き崩れる予定の相手が、崩れなかったからだ。
「わたしの名前は、カエラ・リュシエ。十一の歳から七年間、ランブレー侯爵家にて、セシル様の侍女を務めてまいりました」
「な……にを、言って」
「七年です。行き倒れでも、孤児でもございません」
ざわ、と空気が揺れる。
「そういえば……お茶会で、幼いころから仕えていると仰っていたわ」
「初日には、行き倒れを引き取ったと……」
「どちらが本当ですの?」
令嬢たちの囁きが、扇の陰から扇の陰へ渡っていく。
台本の管理が甘くてよ、と申し上げましたのに。
……心の中で、だけれど。
「証拠なら、ございます」
よく通る声が、広間の隅から響いた。
人垣を割って進み出たのは――レナルドだった。
その腕には、封蝋のされた分厚い書類束が抱えられている。
(あの日、司書作業室で口にした店の名前が、家令の名前が――ぜんぶ、動かせない書類になって戻ってきた)
目が合うと、レナルドは何でもない顔で、小さく頷いてみせた。
(……ありがとうございます)
声にできないお礼を、わたしは目礼に込めた。
「男物の衣装一式の仕立て注文書。王都三番街、仕立て屋レーヴェルの帳場に残されていた控えでございます。発注主の署名は、セシル・フィオラ・ド・ランブレー様。日付は、今学期が始まる三週間前でございます」
「なっ……」
「侍従リュシエルの入構書類を作成したのは、侯爵家の家令バルト。こちらは家印の控えと筆跡が一致しております。加えて、髪を切り落とした夜についての、侍女頭の証言書」
(侍女頭……! 証言は望めないと思っていたのに……)
鋏を持たされた、あの人の強張った顔を思い出す。
もしかしてわたしの髪を切ったことを、ずっと悔いていたのかもしれない。
味方はいない。ずっとそう決めつけていたのは、わたしのほうだった。
「学術院の側からも、記録を示そう」
今度は、反対側から声が上がった。
オーレン先生が、古びた受領簿を掲げている。
「四年分の写本整理の受領記録。署名はすべて、カエラ・リュシエ。この者は四年前から、侍女として当図書室の仕事を請け負ってきた。……行き倒れの孤児が、四年前から署名を残せるものかね」
(先生……)
驚きで、一瞬、声を失った。
――仕事なら、対価と記録が要る。
四年前、鉛筆の落書きを叱る代わりに仕事をくださって、少額の報酬にまで律儀に受領簿を付けさせた、あの人。
あれは経験則などではなく――いつか、わたしを守るための覚悟だったのだ。
(四年も前から……ずっと、味方でいてくださったのですね)
目頭が、じわりと熱くなる。
……泣くのは、まだ早いわ、カエラ。
この幕は、まだ終わっていないのだから。
わたしは、息を吸った。
証拠は、出そろった。
けれど最後のひと押しだけは、書類ではなく、わたしの口から言うべきことだ。
「皆さま。わたしが男と偽ってこの学術院にいたことは、事実です。裁かれるべき偽りがあるのなら、どうぞお調べください」
シャンデリアの光の下、広間をゆっくりと見渡す。
「ただし――その偽りを、誰が、何のために書いたのか。それも一緒に、調べていただきたいのです」
声は、震えなかった。
七年間、他人の台本を読み上げてきた喉だ。
自分の言葉ひとつ、読み上げられなくてどうする。
広間の視線が、ゆっくりと向きを変える。
わたしから――セシル様へ。
「ち、違うわ……その子が、その子が勝手に……!」
「わたしが勝手に、髪を切ったと?」
「そうよ!」
「わたしが勝手に、侯爵家の家令に書類を作らせ、お嬢様のお名前で男物の衣装を注文したと?」
「そ……それは……」
セシル様の扇が、小刻みに震えはじめる。
追い詰められた天使は、最後の台本を破り捨てた。
「――ええ、そうよ! わたくしが命じたのよ!」
金切り声が、大広間に響き渡った。
「没落した伯爵家の小娘を、わたくしが養ってあげていたの! 男にしてやったのも、物語の挿絵にしてやったのも、全部わたくしの恩情よ! 感謝こそすれ、逆らうなんて――」
言い切ってから、セシル様は気づいた。
大広間の全員が、聞いていたことに。
ぱき、と乾いた音がした。
握りしめられた扇の骨が、折れた音だった。
それでも――追い詰められた天使は、最後の毒を吐いた。
「……で、あればっ! その小娘こそ、泥棒ですわ!」
セシル様は、折れた扇の先で、わたしを指した。
「屋敷の金子を盗んで、こそこそと貯め込んでいたのよ! 証拠の帳面なら、わたくしが取り上げましたわ! やましいお金だったから、燃やされても文句ひとつ言えなかったのだわ!」
――来た。
折れた扇の先が、まっすぐこちらを指している。
わたしは、瞬きひとつしなかった。むしろ胸の内で、お礼を言ったくらいだ。
その舞台を、待っておりましたのよ、お嬢様。
「盗んだ覚えは、ございません。あの帳面に書いてあったのは、わたしが四年かけて働いた、報酬の記録です」
「帳面ですって? 燃えてなくなったものを、どうやって証明するというの!」
「――覚えております」
わたしは、まっすぐに顔を上げた。
「一年目の春。詩集の補修で、銀貨一枚。同じ年の夏、写本整理三冊で銀貨二枚。秋、傷んだ航海記の綴じ直しで、銀貨二枚と銅貨五枚――」
日付。仕事の中身。金額。
四年分の数字が、淀みなく口から流れていく。
毎晩、蝋燭を消した暗闇で諳んじてきた数字だ。
間違えるはずが、ない。
「――以上、三十一件。合計、銀貨四十七枚と銅貨三枚。……オーレン先生。受領簿と、照らし合わせていただけますか」
「うむ」
先生は受領簿を開き、眼鏡を押し上げた。
広間じゅうが、静まり返って耳を澄ませる。
「一年目、春。詩集補修、銀貨一枚。……同年夏、写本整理、銀貨二枚。……秋、航海記綴じ直し、銀貨二枚、銅貨五枚……」
一行、また一行。
先生の読み上げる記録の上へ、わたしの諳んじた数字が、ひとつずつ、寸分違わず重なっていく。
「――全件、一致」
先生は受領簿を閉じ、広間を見渡した。
「日付も金額も、一言一句たがわぬ。四年間、己の手で働いた者でなければ、こうは言えぬよ」
どよめきが、今度はわたしの側から湧き上がった。
「まあ……ぜんぶ、覚えていらしたの……」
「働いたお金だという証明を、ご自分の記憶で……」
わたしは、胸元から小さな帳面を取り出した。
薄汚れた表紙の、新しい出発帳。燃やされたあの夜、夜明けまでかけて、記憶から書き直したものだ。
「燃やされた帳面なら、ここに。……一行残らず、書き直しましたので」
掲げられた帳面を、セシル様は、幽霊でも見るような目で見た。
「な……んで……燃やしたわ……わたくしが、この手で……なかったこと、に……」
「なりませんでした」
わたしは、掲げた帳面を下ろさなかった。
「――誰も知らなければ、なかったことになる。お嬢様は、そう仰いましたね」
一歩、前へ出る。
「ですが、わたしが知っております。わたしが書いて、わたしが覚えて、わたしが、ここに掲げております。……ですから、なかったことには、なりません。ただの、一行も」
「セシル」
低い声とともに、人垣が割れた。
夜会に列席していたランブレー侯爵が、蒼白な顔で立っている。
「お、お父様……違うのです、これは」
「……もう、よい」
侯爵は娘を見ず、深く、深く頭を下げた。
学院長へ。オーレン先生へ。そして、わたしへ。
「この不始末、すべて我が家の責任にございます」
「その通りですな」
学院長が、重々しく頷いた。
「使用人の入構書類は、雇用主たる家の責任において作成される。虚偽の書類を提出したのはランブレー侯爵家であり、カエラ・リュシエ嬢は命じられ、従わされた側である。――学術院として、彼女に問う罪はない」
膝から力が抜けそうになるのを、どうにか堪えた。
罪は、ない。
あと三百日と数え続けた鎖の音が、ほどけて消えた瞬間だった。
「付け加えても?」
アル様が、ゆっくりと歩み出た。
この夜のアル様は、アル様ではない。ヴェルディアの紋章を纏った、アルヴィス・ロア・ヴェルディア第二王子だった。
「カエラ・リュシエは、本日付でヴェルディア使節団の正式な翻訳協力者だ。彼女の身へ害を為すことは、以後、我が国への非礼と見なす」
広間が、三たびどよめいた。
「嫌……嫌よ、そんなの」
セシル様が、よろめきながらわたしへ手を伸ばす。
「その子は、わたくしのものよ! わたくしの物語の……!」
「いいえ、お嬢様」
わたしは、伸ばされたその手を見た。それから、はっきりと言った。
「わたしは、わたしのものです」
七年間、言えなかった一言だった。
言ってしまえば、たったの十二文字。
その十二文字が、シャンデリアの光の下で、こんなにもはっきりと響くなんて。
髪を切られた夜の、屋根裏で泣いていたわたしに、教えてあげたい。
――大丈夫。あなたの声は、ちゃんと残っているわ。
セシル様の手が、力なく落ちる。
「一つ、訂正がある」
アル様が、わたしの隣に立った。
「カエラは、彼女自身のものだ。それは正しい。……だが、できることなら」
金色の瞳が、広間の視線などまるで構わずに、わたしだけを見る。
「俺の、大切な人にもなってほしいと思っている」
……え?
いま、なんと?
言葉は、ひとつ残らず聞こえた。聞こえたのに、意味だけが、するりと抜け落ちていく。
(大切な人。……大切な、人?)
(それは、その、友人という意味の――)
考えかけて、やめた。
この空気で、この顔で、友人と言う人はいない。
毎日空けられていた、向かいの席。
名前を残すと言い張った、写本の欄外。
答えを待って、急かさずにいてくれた、あの朝。
――全部、そういうことだったの?
七年、他人の台本を読み続けてきたわたしが、この一冊だけ、まるきり読み違えていたらしい。
「り、理解が……追いつきません……!」
「そうか。では、追いつくまで何度でも言う」
「言わなくて結構です!!」
真っ赤になって叫ぶわたしと、涼しい顔の王子殿下。
凍りついていた大広間のあちこちから、こらえきれない笑い声と、なぜか拍手が上がりはじめた。
その日わたしは、生まれて初めて、台本のない舞台の真ん中に立っていた。
――後日談を、少しだけ。
セシル様は学術院を去り、領地での謹慎を命じられたそうだ。
侯爵家からは、七年分の未払い相当として過分な償い金が支払われ、実家の伯爵家は援助に頼らず冬を越せることになった。
そして年が明けるころ、社交界ではある絵物語が大流行したという。
題して、『偽りの天使と身代わりの侍従』。
高慢な令嬢が侍女を男装させ、最後にすべてを失う――という筋書きで、悪役令嬢の挿絵の顔が誰かに似ている気がする、とは、誰も口に出さなかったらしい。
皆が信じれば、それが本当になる。
……ご自分の言葉ですものね、お嬢様。
次回最終回です!




