最終回 潮に乗って帰る者
冬が終わり、風が湿り気を帯びてきたころ。
わたしは相変わらず、図書室の窓際の席にいた。
変わったことは、いくつかある。
入構証の名前は、カエラ・リュシエになった。
それから――あの夜会の一件以来、アル様の顔をまともに見られない日が、ひと月ほど続いた。
当のご本人は「言うことは言ったからな」と、たいそう平然としていらしたけれど。
服は動きやすい仕事着のまま。髪も、耳の下の短いままにしている。結う時間が要らないのは、やはり快適だからだ。
切られた日は、奪われたと思った長さだった。
それを今は、自分で選んで短いままにしている。
もう一つ、変わったことがある。
先週、実家から手紙が届いた。
侯爵家からの償い金と、わたしが送り続けた翻訳の報酬とで、伯爵家は今年、誰の援助にも頼らず冬を越せたという。
母の字で、こう添えられていた。
――頂きものの薪は、くべるたびに、少しだけ心細くなりました。でも今年の薪は違います。一本くべるたび、あなたの七年を思い出して、母は勝手に泣いています。ずいぶん暖かい冬でした。
(……ずるいわ、お母様。こんなの、泣くしかないじゃないの)
手紙を読みながら、少しだけ笑って、それから、たくさん泣いた。
そして、屋根裏の机の引き出しには、いま、一枚の書類が入っている。
ヴェルディア翻訳官登用試験――その受験願書だ。
試験は夏。場所は、ヴェルディアの王都。
誰に命じられたのでもない。まだ髪の長かったころから、自分の船賃で渡ると決めていた国だ。
名前の欄には、もう書いてある。
カエラ・リュシエ、と。
「カエラ」
向かいの席から、聞き慣れた声がする。
変わらないことも、ある。
この席と、この人だ。
「使節団の帰国日程が決まった。春の大潮に合わせて出航する」
「……そうですか」
分かっていたことなのに、胸の奥が、すとんと冷えた。
翻訳の仕事は、秋学期までの契約だった。延長に次ぐ延長で春まで続いたけれど、それも、もうすぐ終わる。
俯きかけたわたしの前に、こと、と小さなものが置かれた。
手帳だった。
帆布張りの、丈夫な表紙。ヴェルディアの職人の仕事らしい、波を模した焼き印。
「船の上でも濡れない。ヴェルディアの航海士が使うものだ」
「……これを、わたしに?」
「開いてみろ」
表紙をめくる。
真っ白な最初の頁に、一行だけ、見慣れた癖のある字が書かれていた。
――潮に乗って帰る者
「あの写本の一行だ。弔いじゃない。……満ち潮に乗って、帰るべき港へ向かう者のことだ」
アル様は、一度だけ息を整えた。
珍しく、耳が赤い。
「カエラ・リュシエ。ヴェルディアへ来てほしい。使節団付きの翻訳官として――それから」
「それから?」
「……その、俺の」
「殿下」
書架の陰から、レナルドの声が飛んだ。
「そこで止まると、また半年かかります」
「分かっている!」
アル様は観念したように、まっすぐわたしを見た。
「俺の隣に、いてほしい。向かいの席じゃなく、隣にだ。……妻として」
図書室の静けさの中で、心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
嬉しい。
嬉しいのに、わたしの口をついて出たのは、いつもの癖だった。
「……根拠を、伺っても?」
「好きだからだ」
即答だった。
「理屈なら、あとで何百でも並べてやる。だが根拠は最初からそれ一つだ」
――ずるい。
そんな返し方をされたら、反論の用例が、一つも見つからないじゃないの。
「わたしは、没落伯爵家の元侍女です。男装までしていた、訳ありの」
「知っている。全部見てきた」
「それに――ヴェルディアへは、もともと一人で行くつもりでした」
「……何?」
わたしは内ポケットから、折り畳んだ願書を出して、机の上へ置いた。
翻訳官登用試験の受験願書。名前の欄には、自分の手で書いた、本当の名前。
「夏の試験を受けます。合格すれば、あなたの国で、自分の力で働きます。……つまり、ですね」
一度だけ、息を吸う。
「あなたに連れて行っていただかなくても、わたしは行くんです。ヴェルディアへ」
アル様は願書をじっと見つめ、それから、堪えきれないというように笑い出した。
「……はは! そうか。そうだよな、お前はそういう奴だった」
「笑うところですか?」
「いいや。惚れ直すところだ」
「なっ……」
「なら話は早い。同じ港へ行くなら、同じ船のほうが安上がりだろう」
「……王子殿下が、船賃の節約を口説き文句になさるのですか」
「効いているだろう」
悔しいことに、効いていた。
「王子妃なんて、台本のない役はやったことが……」
「要らん。台本どおりのお前なら、俺は最初の日に言い負かされていない」
視界が、じわりと滲んだ。
行き倒れの孤児でも、慈悲深い令嬢の挿絵でもなく。
台本の外のわたしを、この人は最初から見ていてくれた。
「……お受けします」
声が震えたけれど、最後まで、自分の言葉で言えた。
「翻訳官のお仕事も、隣の席も――両方とも」
アル様は一瞬固まり、それから、子どもみたいに破顔した。
「……そうか」
「はい」
「そうか!」
……と、思ったら。
アル様は椅子を鳴らして立ち上がり、書架の向こうへ叫んだ。
「レナルド! 聞いたか!」
「広間の端まで聞こえております」
「オーレン先生!」
「聞こえておる。――図書室では、静かにしなさい」
隣国一の秀才と名高い第二王子殿下は、この日、生まれて初めて図書室で司書に叱られたらしい。
書架の陰で、レナルドが深々と一礼した気配がした。
オーレン先生はといえば、作業室の扉を細く開けて眺めていたらしく、あとで受領簿の最後の頁に『教え子の門出、一件。確かに見届けた』と書き込んでいたことを、わたしは知っている。
◆
春。大潮の朝。
出航を待つ甲板の上で、わたしは新しい手帳を開いた。
題は、もう出発帳ではない。
――航海帳。
最初の頁には、あの一行。二頁目に、わたしは今日の日付と、最初の記録を書き入れる。
『春、二人でヴェルディアへ』
その下に、もう一行。
『夏、翻訳官試験。――必ず、合格すること』
一行目は、二人で。
二行目は、わたし一人で。
どちらも、わたしが決めた予定だ。
書き終えて顔を上げると、水平線の向こうで、朝の光が海を金色に染めはじめていた。
残りの日数を数える日々は、終わった。
これからは、書き足していく日々だ。
「カエラ、荷の積み込みが終わったぞ」
「アル様。さっそくですが、その目録、三行目から違います」
「まだ何も言っていないぞ!?」
「香辛料が三樽、塩漬け肉が二樽。……どこかで聞いた勘定だと思いませんか」
「……ふ、はは! 縁起がいいな、おい!」
潮風が、短い髪を軽く揺らしていく。
満ち潮に乗って、船はやがて港を出る。
嘘の名前で始まった物語の続きを、これからは本当の名前で――二人で、綴っていく。
最終回です!
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