第8話 王子殿下は、答えが合わない
夜半の使節館。
執務机の上には、決裁を待つ書類が三十枚。
俺、アルヴィス・ロア・ヴェルディアは、そのうちの一枚を――かれこれ四半刻、眺めていた。
読んでいない。眺めているだけだ。
視線は文字の上を滑り、頭の中では、まったく別のものが繰り返し再生されている。
高い棚へ伸ばされた腕。ずり上がった袖口。
三日月形の痕。新しいふたつの下に、古い痕がいくつも透けて見えた、あの手首。
「躾のなっていない猫が」と言ったときの、あの完璧すぎる作り笑い。
……腹の底が、まだ煮えている。
「殿下」
茶を運んできたレナルドが、机の上を一瞥した。
「その決裁書、先ほどから一文字も進んでおりませんが」
「考え事だ」
「左様でございますか。では、お考えの中身を当てて差し上げましょうか」
「要らん」
「リュシエル様のことでございますね」
「当てるなと言っている」
レナルドは澄ました顔で茶器を置き、報告を続けた。
「仕立て屋は、明朝から順に当たらせます。もっとも、王都で男物を仕立てる店は二十軒を下りません。家印の台帳のほうも、少々時間が。……それにしても」
「なんだ」
「調査のご指示が、いつになく丁寧でございますね。国境の密輸網を潰したときより、丁寧です」
「相手が侯爵家だからだ」
「なるほど。侯爵家」
「含みのある復唱をやめろ」
「畏まりました。では、別の含みを一つ」
レナルドは盆を抱え直し、実に良い笑顔で言った。
「殿下。リュシエル様は、殿方でございますが」
「知っている。その確認は二度目だぞ」
「左様でございます。そして二度とも、考える間もなく即答でございました」
「……何が言いたい」
「いいえ、何も。ごゆっくり、お考え事のお続きを」
レナルドが下がったあと、俺は窓の外を見た。
月が出ている。
この明るさなら、あいつは窓際でも頁が読めると喜ぶだろうな――と考えて、手が止まった。
なぜ俺は、他人の読書灯の心配をしている。
……いつからだ。
いつから俺は、あいつのことばかり考えている。
◆
最初は、写本だった。
二週間考えたという一行を、根拠を並べて守り抜いた、あの生意気な横顔。
学者が椅子から落ちると言えば、先にクッションを敷けと返した、あの減らず口。
欄外に名前を書いてやったら、本気で困っていた、あの顔。
俺が負けを認めたら、なぜか自分が得でもしたような顔で、目を丸くしていた、あの日。
「僕が、来たいので」と言った、あの、まっすぐな声――
それから、議論の合間。写本の陰で、ふ、と気を抜いたように笑った、あの顔。
本人は隠しているつもりらしいが、あれはたぶん、作りものではない。素の顔だ。
あの顔を見た日は、決まって帰りの馬車の中まで、機嫌がよかった。
……待て。
思い出の目録が、明らかに多すぎる。
俺は机に戻り、白紙を一枚出して、羽根ペンを執った。
分からないことは、紙に書き出して、一つずつ突き合わせる。航海術の基本だ。
一、リュシエルといると、時間が早く過ぎる。
二、リュシエルが来ない日は、図書室の椅子がやけに固い。
三、リュシエルの手首に痕をつけた人間を、俺は生涯許すつもりがない。
四、リュシエルは、男である。
……ペンが、止まった。
一から三を貫く線は、認めたくないが、一本しかない。
友情と呼ぶには、三が重すぎる。忠誠と呼ぶには、俺は主人ではない。消去法で残る答えは、一つだ。
だが、四がある。
四が、最後の最後で必ず引っかかる。
俺は生まれてこのかた、答えの出ない問いを放置したことがない。
掠れた一語は資料を積んで読み、割れない航路は星を足して割ってきた。
だから、この問いにも――今夜、けりをつける。
――相手が男なら、この気持ちは、間違いか?
紙の上の一から三を、もう一度見る。
時間が早いのも、椅子が固いのも、生涯許さないのも、全部、動かしようのない事実だ。突き合わせるまでもない。俺の中で、答えはとっくに出ている。
間違っているのは気持ちのほうではなく、「間違いのはずだ」と赤字を入れようとしている、俺のこの手のほうだ。
……ふ、と息が漏れた。
なんだ。簡単な計算だった。
男だろうと、何だろうと、リュシエルはリュシエルだ。
俺はあいつの、根拠を求める目と、負けを認めない口と、痛みを隠すときにだけ下手になる演技に――要するに、あいつそのものに、参っているらしい。
紙を畳み、燭台の火にかざす。
この紙は、燃やしておく。
これはいつか、紙ではなく、俺の口から本人へ言うべき計算だからだ。
(ただし言うのは――あいつの手首から、あの猫を退治してからだ)
◆
翌朝。
「殿下。昨夜はよくお眠りに?」
「ああ。久々に、厄介な計算がひとつ片づいた」
「それはようございました。……時に、片づいたお顔というより、これから戦をなさるお顔ですが」
「同じことだ」
「左様でございますか」
レナルドは一礼し、それから声を半段、落とした。
「仕立て屋は、まだ三軒しか当たれておりません。この調子ですと、注文書の控えへ辿り着くまで、ひと月はかかるかと。……それと、もう一つ。気になる報せが」
「言え」
「侯爵家の女中が昨夜、主人の命で、リュシエル様の私室を検めたようだと」
――ぞわり、と首の後ろが冷えた。
「……何を探している」
「そこまでは。ただ、お嬢様はここ数日、たいへんご機嫌がよろしいそうで」
機嫌がいい。
あの手の人間の機嫌がいいときは、たいてい、誰かを踏みつける算段が整ったときだ。
「レナルド、調べを急がせろ」
「はい」
「それから、今日は俺も図書室へ行く。いつもより早くだ」
嫌な予感というものを、俺はあまり信じない。
信じないが――この朝の胸のざわつきだけは、どうか外れてくれと、柄にもなく願った。
……そして残念なことに、俺の勘は、外れてほしいときにかぎって、よく当たる。




