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お嬢様の命令で男装侍従になったら、隣国の王子殿下に溺愛されています  作者: 岸根しき


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第7話 恋の仲介人は機能しません



 セシル様の新しい台本は、こうだった。


 侍従リュシエルが、主人の美点をさりげなく殿下へ吹き込む。殿下は次第にセシル様へ興味を持ち、庭園の散策へ誘い、やがて――王子と侯爵令嬢の、身分違いならぬ身分釣り合いの恋物語が始まる。


(うん。後半から、もう無理があるわ)


 それでも命じられた以上、やるだけはやった。


「アル様。お嬢様は、その、刺繍がたいへんお上手で」


「そうか。……この行だが、綴りが港湾規定と違う」


「音楽の造詣も深くていらっしゃいます」


「うん。それより略語の件だ、この筆記者は――」


「……お嬢様は、絵物語もたくさんお読みで」


「リュシエル」


 アル様は写本から顔を上げ、真顔で言った。


「お前、今日は読みの速さが三割落ちているぞ」


「気のせいです」


 恋の仲介人、初日にして敗北であった。


 二日目は、作戦を変えた。


「お嬢様が、殿下のお好きな航海のお話を、ぜひ伺いたいと」


「ほう。セシル嬢は検疫制度に興味が?」


「……ええと。その。たいへんに」


「そうか。なら資料を三冊ほど貸そう。感想を聞くのが楽しみだ」


 三日目。わたしは貸し出された分厚い専門書三冊を、そっくりそのまま返却する羽目になった。


 もちろん、セシル様は表紙すら開いていない。


(この方をその気にさせるくらいなら、掠れた古語を百行訳すほうが早いわ……)


 恋の仲介人、三日目にして完全敗北であった。




 それならばと、セシル様は自ら前線へ出ることにしたらしい。


 数日後、中庭の東屋。殿下を招いた午後のお茶の席で、セシル様は完璧な角度に扇を傾けた。


「殿下は、恋の物語はお好きですか?」


「恋物語より、航海日誌のほうが読みやすいです」


「まあ。どうしてですの?」


「嘘が少ない」


 セシル様の扇が、ぴしり、と鳴った。


 わたしは給仕に徹しながら、視線だけを空へ逃がす。


(見なかったことにしましょう。台本が三頁まとめて燃えた瞬間なんて)


 それでもセシル様は、天使の微笑みを崩さない。


「では、殿下のお好きな航海のお話を、ぜひわたくしにもお聞かせくださいな」


「構いませんが、専門的ですよ。――リュシエル、あの検疫錨地の図はあるか」


「お持ちしております」


「よし、広げてくれ。セシル嬢、この沖の錨地がですね」


 それから半刻、東屋の卓は検疫制度の変遷史で埋め尽くされた。


「――というわけで、この錨地の規定が改められた年こそが、転換点なのです」


「まあ……ほ、ほほ。奥が深いのですね」


「でしょう。では次に、略語の変遷ですが」


(アル様。それ、絶対にわざとやっていらっしゃるでしょう)


 給仕をしながら、わたしは確信していた。


 この方は、作られた笑顔には、資料の物量で応じる主義なのだ。


 セシル様は最後まで微笑んでいらしたけれど、扇を持つ指の関節だけが、ずっと白かった。







 お茶の片づけの途中、事件は起きた。


 高い棚の茶器へ手を伸ばした拍子に、袖口がわずかにずり上がったのだ。


「リュシエル」


 アル様の声が、一段低くなった。


「その手首の痕は、なんだ」


 手首の内側。三日月形の、小さな痕。


 昨日、翻訳から戻ったあとに刻まれた新しいものがふたつ――その下に、白く消えかけた古い痕が、幾重にも薄く重なっている。


 一日や二日のものではないと、見る人が見れば、分かってしまう。


「……猫に、引っかかれまして」


「猫」


「はい。躾のなっていない猫が、屋敷におりまして」


 アル様は、しばらく黙っていた。


「……学術院の周りには、爪を三日月の形に研ぐ猫がいるのか」


「珍しい猫なんです」


「そうか」


 短い返事のあと、アル様はしばらく黙って、それから何かを断ち切るように顔を上げた。


「リュシエル。ヴェルディアには、こういう諺がある」


「はい」


「――沈みかけた船から荷を降ろすのに、船長の許可は要らない」


「……どういう意味です?」


「そのままの意味だ。いつか思い出せ」


 それ以上、アル様は聞かなかった。


 話したくないなら、聞かない。あの日の言葉どおりに。


 ただ、その金色の瞳だけは――一度も、笑っていなかった。







 リュシエルが主人のもとへ戻ったあと、俺は東屋に残っていた。


「レナルド」


「はい」


「猫の話を聞いたか」


「猫は、獲物の急所を正確に狙うと申します。袖で隠れる場所ばかりを選ぶ猫は、たいそう賢い猫かと」


「……ランブレー侯爵家を調べろ。使用人の出入り、仕立て屋への注文、今学期の入構書類。全部だ」


「かしこまりました。……珍しく、お顔に出ておいでですよ」


「出してるんだ」


 俺は空になった茶器を見下ろした。


「一つだけ、ご忠告を」


 レナルドが手帳を閉じる。


「お相手は侯爵家でございます。手順を誤れば、傷を負うのはリュシエル様のほうかと」


「分かっている。だから証拠だ。誰の目にも動かせない形の――書類と、署名と、日付だ」


 言い逃れの利かないものだけが、ああいう手合いを舞台から降ろせる。


「それと、レナルド」


「はい」


「躾のなっていない屋敷から猫を叱っても、意味がない」


「左様でございますね」


「……引き取り先を、考えておく」


「それは、猫のお話ですか?」


「猫の話だ」


 あいつが自分から話すまで、秘密は暴かない。


 だが、あいつを傷つけるものを放っておく気は、これっぽっちもない。







 その夜、屋敷に戻ったわたしを待っていたのは、氷のような声だった。


「今日のあなた、まったく役に立たなかったわね」


 セシル様は、鏡台の前で髪を梳かせながら、鏡越しにわたしを見た。


「殿下の目は、いつもあなたばかり見ている。仲介人が主役の視線を横取りするなんて、聞いたことがないわ」


「……申し訳ございません」


「いいのよ」


 セシル様は、にこりと笑った。


 笑ったのに、部屋の温度が二度ばかり下がった。


「筋書きを変えましょう。もっと、面白いものに」


 鏡の中の空色の瞳が、すっと細められる。


 その視線が、一瞬――わたしの胸元を、上着の内ポケットのあたりを、撫でるように滑った気がした。


(……気のせい、よね)


 背中を、冷たいものが伝った。


 その夜、屋根裏へ戻ったわたしは、寝台に腰かけて出発帳を開いた。


 船賃の合計。試験料。翻訳の報酬、第一回。


 頁を目でなぞり、蝋燭を吹き消して、それから暗闇の中でもう一度、数字を最初から諳んじる。


 毎晩の、癖のようなものだ。


 帳面は、本当のことだけを書く場所。


 でも本当のことは、帳面の外にも置いておける。――わたしの、頭の中にも。


(大丈夫。ぜんぶ、ここにあるわ)


 胸を軽く叩いて、わたしは目を閉じた。


 ――このときのわたしは、その「面白い筋書き」の意味を、まだ知らなかった。


 胸元を撫でていった、あの視線の意味も。




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