第6話 特別な人
翌朝。
宣言どおりわたしに同行したセシル様を加えて、図書室奥の司書作業室には、アル様、レナルド、オーレン先生がそろっていた。
セシル様が口を開く。
「リュシエルは、よく考えましたが――」
その言葉が形になる前に、わたしは半歩前へ出た。
「そのお仕事、僕がお受けします」
誰かに命じられた台詞ではない。
声は少し震えた。それでも、最後まで自分で言えた。
アル様はすぐに喜ばず、わたしの顔を確かめるように見た。
「本当に、お前が受けたいのか?」
「はい。僕が選びました」
「わかった」
たった四文字の返事だった。
この人はそれを言うために、昨日の午後から今朝まで、まるまる待っていたのだ。
「授業中の待機時間だけですから、お嬢様のお世話には支障を出しません。仕事の管理と報酬は、学術院を通していただきます」
オーレン先生が、静かに頷く。
「この者の翻訳補助の能力は、私が保証しよう」
アル様が、セシル様へ向き直った。
「才能を見いだし、育てた慈悲深い主人なら、きっと応援してくれると思っていた」
一瞬の沈黙。
セシル様は、誰もが見惚れる天使の笑顔を浮かべた。
「もちろんですわ。リュシエルが自分から言えるか、試していただけですの」
新しい台本が、ずいぶん早く出来上がったらしい。
「よく言えたわね、リュシエル」
「ありがとうございます、お嬢様」
わたしも台本どおりに一礼する。
◆
帰りの馬車の扉が閉まった途端、セシル様の笑顔が消えた。
「ずいぶん勝手な真似をしてくれたわね」
掴まれた手首へ、爪が深く食い込む。
「殿下がいるからといって、わたくしに逆らっても許されると思わないことね」
「……申し訳ございません」
「次はないわ。あなたが誰のものか、忘れないで」
それから、わたしに命じられる仕事は露骨に増えた。
銀器磨きに、靴の手入れ。返事を出す予定もない手紙の清書。夜遅くに仕事を終えても、翌朝には別の用事が用意されている。
ほかの使用人が手伝うことも禁じられた。
翻訳へ行く時間をなくそうとしているのは、明らかだった。
それでも開始時刻になると、オーレン先生の使いが必ずわたしを呼びに来た。欠席するには、わたし自身の署名が入った届け出が必要になる。
セシル様がどれだけ仕事を積み上げても、翻訳を休ませれば、妨害していることが学術院に知られてしまう。
実家への援助も、すぐには止められなかった。
皆の前で「応援する」と口にした直後に打ち切れば、慈悲深い主人という物語に傷がつくからだ。
翻訳の報酬を貯めれば、その援助に頼らずに済む日も近づいてくる。
一週間後。
最初の翻訳協力を終え、オーレン先生から報酬の銀貨を受け取った。
出発帳へ、『古航海記録・第一回』と書き、その隣へ金額を記す。
数えるものが、あと何日から、やった仕事の数に変わった。
これが、思っていたよりずっと気分がいい。
「ずいぶん嬉しそうだな」
向かいの席から、アル様が覗き込む。
「嬉しいですよ。試験料まで、あと三回分です」
「そうか」
アル様は自分のことのように笑い、それから写本へ栞を挟んで閉じた。
「次の仕事は一週間後だが、明日も来るか?」
以前なら、主人の予定次第です、と答えていた。
「来ます」
「無理はしなくていい」
「無理ではありません」
出発帳を閉じ、わたしは顔を上げた。
「――僕が、来たいので」
アル様の金色の瞳が、わずかに見開かれる。
それから、ひどく大事な約束を受け取ったように頷いた。
「そうか。では、向かいを空けておく」
わたしはまだ、男装の秘密を話せない。
けれど、わたしの仕事を認め、わたし自身の答えを待ってくれたこの人には、いつか本当の名前を、自分の口から伝えたいと思った。
◇
リュシエルが図書室を出たあとも、俺は空になった向かいの席を見ていた。
「殿下」
背後に控えていたレナルドが、静かに声をかける。
「リュシエル様が明日も来ると分かってから、先ほどから何度も、そちらをご覧になっていますね」
「次に読む資料を考えていただけだ」
「まだ一冊も出しておられませんが」
「これから出す」
「左様でございますか」
レナルドは納得していない顔で一礼した。
「そういえば先日は、セシル嬢と恋仲ではなかったと、聞いてもいないのにご報告くださいましたね」
「……友人の将来に関わることだ。当然だろう」
「恋仲ではないと分かって、ずいぶん安心なさっていましたが」
「間違った心配をしなくて済んだだけだ」
「では、毎日あの席を空けてお待ちになるのも、友人だからですか」
「ほかに何がある」
反論するときは、必ず根拠を持ってくる。
望みを聞けば、声を震わせながら、それでも最後は自分で答える。
あの席でリュシエルと答えを探しているあいだだけは、王子として値踏みされることも、作られた好意を向けられることもなかった。
そんな相手を大切にするのは、友人として当然のことだ。
「リュシエル様は、男性でございますよ」
「知っている」
「それでも、毎日お会いになりたいと?」
「男だろうと何だろうと、リュシエルはリュシエルだろう」
「……左様でございますか」
なぜかレナルドは、それ以上何も言わなかった。
ただ、妙に生温かい目を向けてくる。
「なんだ、その顔は」
「いいえ。殿下がお気づきになるまで、黙っていようと思いまして」
「何にだ」
「こちらのことでございます」
意味が分からない。
俺はもう一度、明日のために空けてある席へ目を向けた。
今日別れたばかりだというのに、明日までが、ひどく長く感じられた。
◆
翌朝、図書室へ行くと、アル様は昨日と同じように向かいの席を空けていた。
机の上には、栞を挟んだままの航海記録がある。
「来たな」
「来ると言いましたから」
わたしは席へ座り、出発帳を本の隣へ置いた。
これまで、この帳面に書いてきたのは、セシル様のもとを離れるための予定ばかりだった。
偽物の侍従を演じる日々は、まだ終わらない。
男装を解く日も、本当の名前を伝える日も、もう少し先だ。
それでも、この席へ来ることも、誰と続きを読むかも、わたしが自分で選んだ。
「では、昨日の続きから」
「ああ。今度こそ俺が先に解く」
「根拠があれば、認めます」
アル様が航海記録を開き、栞を抜く。
わたしも身を乗り出し、指で一行目を示した。
「さっそくですが、そこから違います」
「まだ何も言っていないぞ」
アル様が声を上げて笑う。
わたしも笑いながら、昨日の続きを読み始めた。
――そのとき、ふと。
窓の外、中庭の回廊を、セシル様が取り巻きの令嬢たちと歩いていくのが見えた。
その足が、一瞬だけ止まる。
空色の瞳が、図書室の窓へ――わたしたちのいる窓際へ、すっと向けられた気がした。
(……嫌な予感がするわ)
残念ながら、わたしの嫌な予感は、昔からよく当たるのだ。




