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お嬢様の命令で男装侍従になったら、隣国の王子殿下に溺愛されています  作者: 岸根しき


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第6話 特別な人



 翌朝。


 宣言どおりわたしに同行したセシル様を加えて、図書室奥の司書作業室には、アル様、レナルド、オーレン先生がそろっていた。


 セシル様が口を開く。


「リュシエルは、よく考えましたが――」


 その言葉が形になる前に、わたしは半歩前へ出た。


「そのお仕事、僕がお受けします」


 誰かに命じられた台詞ではない。


 声は少し震えた。それでも、最後まで自分で言えた。


 アル様はすぐに喜ばず、わたしの顔を確かめるように見た。


「本当に、お前が受けたいのか?」


「はい。僕が選びました」


「わかった」


 たった四文字の返事だった。


 この人はそれを言うために、昨日の午後から今朝まで、まるまる待っていたのだ。


「授業中の待機時間だけですから、お嬢様のお世話には支障を出しません。仕事の管理と報酬は、学術院を通していただきます」


 オーレン先生が、静かに頷く。


「この者の翻訳補助の能力は、私が保証しよう」


 アル様が、セシル様へ向き直った。


「才能を見いだし、育てた慈悲深い主人なら、きっと応援してくれると思っていた」


 一瞬の沈黙。


 セシル様は、誰もが見惚れる天使の笑顔を浮かべた。


「もちろんですわ。リュシエルが自分から言えるか、試していただけですの」


 新しい台本が、ずいぶん早く出来上がったらしい。


「よく言えたわね、リュシエル」


「ありがとうございます、お嬢様」


 わたしも台本どおりに一礼する。







 帰りの馬車の扉が閉まった途端、セシル様の笑顔が消えた。


「ずいぶん勝手な真似をしてくれたわね」


 掴まれた手首へ、爪が深く食い込む。


「殿下がいるからといって、わたくしに逆らっても許されると思わないことね」


「……申し訳ございません」


「次はないわ。あなたが誰のものか、忘れないで」


 それから、わたしに命じられる仕事は露骨に増えた。


 銀器磨きに、靴の手入れ。返事を出す予定もない手紙の清書。夜遅くに仕事を終えても、翌朝には別の用事が用意されている。


 ほかの使用人が手伝うことも禁じられた。


 翻訳へ行く時間をなくそうとしているのは、明らかだった。


 それでも開始時刻になると、オーレン先生の使いが必ずわたしを呼びに来た。欠席するには、わたし自身の署名が入った届け出が必要になる。


 セシル様がどれだけ仕事を積み上げても、翻訳を休ませれば、妨害していることが学術院に知られてしまう。


 実家への援助も、すぐには止められなかった。


 皆の前で「応援する」と口にした直後に打ち切れば、慈悲深い主人という物語に傷がつくからだ。


 翻訳の報酬を貯めれば、その援助に頼らずに済む日も近づいてくる。


 一週間後。


 最初の翻訳協力を終え、オーレン先生から報酬の銀貨を受け取った。


 出発帳へ、『古航海記録・第一回』と書き、その隣へ金額を記す。


 数えるものが、あと何日から、やった仕事の数に変わった。


 これが、思っていたよりずっと気分がいい。


「ずいぶん嬉しそうだな」


 向かいの席から、アル様が覗き込む。


「嬉しいですよ。試験料まで、あと三回分です」


「そうか」


 アル様は自分のことのように笑い、それから写本へ栞を挟んで閉じた。


「次の仕事は一週間後だが、明日も来るか?」


 以前なら、主人の予定次第です、と答えていた。


「来ます」


「無理はしなくていい」


「無理ではありません」


 出発帳を閉じ、わたしは顔を上げた。


「――僕が、来たいので」


 アル様の金色の瞳が、わずかに見開かれる。


 それから、ひどく大事な約束を受け取ったように頷いた。


「そうか。では、向かいを空けておく」


 わたしはまだ、男装の秘密を話せない。


 けれど、わたしの仕事を認め、わたし自身の答えを待ってくれたこの人には、いつか本当の名前を、自分の口から伝えたいと思った。







 リュシエルが図書室を出たあとも、俺は空になった向かいの席を見ていた。


「殿下」


 背後に控えていたレナルドが、静かに声をかける。


「リュシエル様が明日も来ると分かってから、先ほどから何度も、そちらをご覧になっていますね」


「次に読む資料を考えていただけだ」


「まだ一冊も出しておられませんが」


「これから出す」


「左様でございますか」


 レナルドは納得していない顔で一礼した。


「そういえば先日は、セシル嬢と恋仲ではなかったと、聞いてもいないのにご報告くださいましたね」


「……友人の将来に関わることだ。当然だろう」


「恋仲ではないと分かって、ずいぶん安心なさっていましたが」


「間違った心配をしなくて済んだだけだ」


「では、毎日あの席を空けてお待ちになるのも、友人だからですか」


「ほかに何がある」


 反論するときは、必ず根拠を持ってくる。


 望みを聞けば、声を震わせながら、それでも最後は自分で答える。


 あの席でリュシエルと答えを探しているあいだだけは、王子として値踏みされることも、作られた好意を向けられることもなかった。


 そんな相手を大切にするのは、友人として当然のことだ。


「リュシエル様は、男性でございますよ」


「知っている」


「それでも、毎日お会いになりたいと?」


「男だろうと何だろうと、リュシエルはリュシエルだろう」


「……左様でございますか」


 なぜかレナルドは、それ以上何も言わなかった。


 ただ、妙に生温かい目を向けてくる。


「なんだ、その顔は」


「いいえ。殿下がお気づきになるまで、黙っていようと思いまして」


「何にだ」


「こちらのことでございます」


 意味が分からない。


 俺はもう一度、明日のために空けてある席へ目を向けた。


 今日別れたばかりだというのに、明日までが、ひどく長く感じられた。







 翌朝、図書室へ行くと、アル様は昨日と同じように向かいの席を空けていた。


 机の上には、栞を挟んだままの航海記録がある。


「来たな」


「来ると言いましたから」


 わたしは席へ座り、出発帳を本の隣へ置いた。


 これまで、この帳面に書いてきたのは、セシル様のもとを離れるための予定ばかりだった。


 偽物の侍従を演じる日々は、まだ終わらない。


 男装を解く日も、本当の名前を伝える日も、もう少し先だ。


 それでも、この席へ来ることも、誰と続きを読むかも、わたしが自分で選んだ。


「では、昨日の続きから」


「ああ。今度こそ俺が先に解く」


「根拠があれば、認めます」


 アル様が航海記録を開き、栞を抜く。


 わたしも身を乗り出し、指で一行目を示した。


「さっそくですが、そこから違います」


「まだ何も言っていないぞ」


 アル様が声を上げて笑う。


 わたしも笑いながら、昨日の続きを読み始めた。


 ――そのとき、ふと。


 窓の外、中庭の回廊を、セシル様が取り巻きの令嬢たちと歩いていくのが見えた。


 その足が、一瞬だけ止まる。


 空色の瞳が、図書室の窓へ――わたしたちのいる窓際へ、すっと向けられた気がした。


(……嫌な予感がするわ)


 残念ながら、わたしの嫌な予感は、昔からよく当たるのだ。




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