第5話 慈悲深いお嬢様のお茶会
お茶会当日、わたしの目標は三つだった。
お茶をこぼさない。
セシル様の台本を間違えない。
そして、できるだけ存在感を消す。
三つ目は、開始早々に失敗した。
「リュシエル。先日の写本だが、同じ略語が別の航海記録にもあった」
アル様は席に着くなり、給仕をしているわたしへ話しかけた。
「年代は同じですか?」
「十年ほど古い。だが、入港記録なのは間違いない」
「でしたら、弔いへ意味が変わった時期を、もう少し絞れます」
「俺もそう思った」
つい身を乗り出しかけ、手にしていた茶器を見て我に返る。
(危ない。いまのわたしは訳者ではなく、給仕係)
「まあ、殿下」
セシル様が、鈴を転がすように笑った。
「リュシエルは、本の話になると周りが見えなくなってしまいますの。幼いころから知りたがりで、わたくしが勉強を許してあげました」
借りた本はすべて学術院のものだ。
勉強する時間を、許された覚えもない。
けれど、ここで訂正するのは台本にない。
「殿下は、もう学術院には慣れまして?」
「ああ。図書室の蔵書が充実している。ヴェルディアでも見つからなかった資料を、いくつか読むことができた」
「まあ。それほど珍しい本がございますの?」
「本だけではない。優秀な読み手にも出会えた」
アル様の視線が、わたしへ向く。
「リュシエルには、古い航海記録を読み解くうえで、ずいぶん助けられた」
突然名前を出され、ティーポットを持つ手が止まった。
「僕は、用例をいくつか探しただけです」
「その用例がなければ、誤訳に気づけなかった」
「資料を用意してくださったのは、アルヴィス殿下です」
「だから二人で解いたと言っただろう」
図書室で交わしたときと同じように、アル様は当然のこととして言う。
わたしが調べた事実を、この方は誰の前でも小さく扱わない。
「リュシエルが殿下のお役に立てたのでしたら、主人として、これほど嬉しいことはございませんわ」
セシル様は、先ほどまでと変わらない笑顔を浮かべている。
「それなら、セシル嬢にも喜んでもらえそうだ」
「何のお話でしょう?」
「今日は、リュシエルに正式な依頼を持ってきた」
アル様の言葉を受け、レナルドが一通の封書を机へ置いた。
厚手の封筒には、ヴェルディア使節団と王立学術院、双方の印が押されている。
「俺たちとともに、古い航海記録の翻訳へ協力してほしい」
「……僕に、ですか?」
「ああ。先日の欄外を、使節団の文書官が読んだ。オーレン先生からも、実力を保証する推薦を受けている」
封書の中に入っていたのは、秋学期のあいだ、古い航海記録の翻訳へ協力してほしいという正式な依頼状だった。
週に一度、二刻。場所は図書室。監督はオーレン先生。報酬は、学術院の研究協力金から支払われる。
指定された曜日と時刻は、セシル様の固定授業と寸分違わず重なっていた。
(……偶然にしては、できすぎているわ)
侍従の務めに、一切障りが出ない時間。
断る口実を、先回りして一つずつ潰してある依頼状だった。
わたしがオーレン先生のもとで積み上げてきた四年間が、一枚の依頼状になって目の前にある。
「素晴らしいお話ですわ」
セシル様が、天使のような笑顔で言った。
「わたくしが育てたリュシエルの才能が、殿下のお国でも認められるなんて」
自分で作った物語がある以上、人前で反対はできないのだ。
「ですが、この子には、わたくしのお世話がございます。本人も、きっと辞退を――」
「リュシエル」
アル様は、セシル様ではなく、わたしを見た。
「お前は、どうしたい?」
答えようとして、喉が動かない。
受けたい。
そう言えば、セシル様が何をするか分からない。実家への援助まで握られている。
「いま答えなくていい」
アル様は、黙ったままのわたしをしばらく待ち、それから言った。
「明日の朝、お前の答えを聞かせてくれ」
急かされなかったことに、胸の奥がわずかにほどけた。
◆
お茶会を終え、二人きりになった途端、セシル様は依頼状をわたしの胸へ押しつけた。
「断りなさい」
「ですが、仕事はお嬢様の授業中だけです。お仕えに支障は――」
「わたくしが、断れと言っているの」
依頼状ごと、わたしの胸元を押さえた指の先が、布越しにきゅうと食い込む。
「あなたの実家が、誰のおかげで冬を越せるのか、忘れてはいないでしょうね?」
「……はい」
「今夜中に、辞退状を書きなさい。明日はわたくしが同行して、あなたの口から言わせてあげる」
屋根裏へ戻り、わたしは机に白い便箋を置いた。
辞退の挨拶。感謝。主人へ仕えるため、という理由。
必要な文章は、すぐに浮かんだ。
けれど最後の一文だけ、筆が止まる。
――僕は、この仕事を望みません。
書けなかった。
それは、誤訳よりも明らかな嘘だった。
白い辞退状の隣へ、出発帳を置く。
船賃は、もう貯まっている。
依頼状に記された報酬を足せば、試験料も、下宿代も、実家が冬を越すための不足分も、そのすべてへ手が届く。
仕事は、セシル様の授業中だけ。侍従としての務めを捨てるわけではない。
しかもお茶会で、セシル様は確かに「素晴らしいお話ですわ」と言った。アル様とレナルドが聞いている。
慈悲深い主人の物語を守りたいなら、いまさら才能を潰すことはできない。
怖くないわけではない。
それでも、四年間続けてきた仕事が認められ、実家を支えられるだけの報酬も得られる。
こんな機会を、セシル様に命じられたというだけで諦めたくなかった。
わたしは筆を置き、書きかけの辞退状を引き出しへしまった。
代わりに、新しい便箋を一枚、机へ置く。
明日の朝、司書作業室で言うべき言葉を、わたしは自分の手で書きはじめた。
――そのお仕事、僕がお受けします。
たった、それだけの一行。
けれどそれは、七年間で初めて、わたしがわたしのために書いた台本だった。




