第4話 王子殿下は、今までどおり
歓迎式典に続く交流会で、わたしは早速、王子殿下用の台本を必要とすることになった。
「アルヴィス殿下。お目にかかれて光栄でございます」
セシル様が、花がほころぶように微笑んでいる。
わたしはその後ろで、昨日までの三倍深く頭を下げた。
「先日は、わたくしの侍従がお世話になったそうですわね」
「世話になったのは俺のほうです。彼がいなければ、古語の誤りに気づけなかった」
アルヴィス殿下の視線が、まっすぐわたしへ向く。
「なあ、リュシエル」
「身に余るお言葉でございます、殿下」
顔を上げない。目を合わせない。
人前の殿下は、図書室のアル様ではない。そしていまのわたしは、口の減らない読み手ではなく、慎ましい侍従リュシエルだ。
(台本にない注目は、毒よ。ここで余計に喋れば、どこから嘘が剥がれるか分からないもの)
わたしは完璧な角度で頭を下げたまま、完璧な沈黙を守り抜いた。
……守り抜いた、つもりだった。
「先日の略語の件だが、続きの資料が届いたぞ」
「本当ですか」
食い気味に、顔を上げてしまった。
殿下が、してやったりという顔で、口の端を上げている。
(――嵌められたわ……!)
慌てて咳払いをして、頭を下げ直す。周囲の令嬢たちが、扇の陰でひそひそと囁き交わす気配がした。
交流会のあいだ、アルヴィス殿下は女性の案内係へは丁寧に礼を言った。
けれど、縁談を望む令嬢たちが笑顔のまま距離を詰めると、金色の瞳から、すっと温度が消える。
どうやらこの方は、女性そのものより、好意を包んだ“作られた笑顔”がお好きではないらしい。
だとすれば――セシル様の天使の微笑みが通じる相手とは、とても思えなかった。
「この子は、幼いころからわたくしだけに仕えてくれておりますの」
セシル様は、わたしの襟を直しながら微笑んだ。
(……あら?)
行き倒れの孤児は、いつのまに幼馴染になったのかしら。
台本の管理が甘くてよ、お嬢様。
「人には言えない秘密も、わたくしたちだけで分け合っておりますのよ。ねえ、リュシエル?」
男装のことだ。
反射的に体が強張る。
「……はい、お嬢様」
「この子は、最後には必ず、わたくしのもとへ戻ってくるのです」
アルヴィス殿下が、わたしの襟元に触れている指を見た。
その目が、わずかに険しくなった気がした。
◆
翌朝、図書室へ行くと、アルヴィス殿下はいつもの向かいの席を空けていた。
わたしは机から三歩離れた場所で、最敬礼する。
「昨日までの数々のご無礼、どうかご寛恕いただきたく――」
「どれだ。弔いの解釈を否定した件か、俺を怪しい留学生と呼んだ件か」
「すべてでございます、アルヴィス殿下」
「やめろ」
「はい?」
「人前では殿下でいい。だが、ここではいつも通りアルだ。そこにも座れ」
「できません」
「では俺も、今日からお前をリュシエル殿と呼ぶ」
「それは……たいへん落ち着きません」
「俺も同じだ。交渉成立だな」
成立していない。
「……交渉というのは、双方が条件を出し合うものです」
「ほう。では、お前の条件を言え」
言ってしまってから、少しだけ迷った。
けれど、この席でまで台本を読むのは、もう嫌だった。
「ここでは、身分の話をしないでください。敬語も、議論の邪魔になる分は省きます。それから――間違いは、間違いだと申し上げます。お相手が王子殿下でも」
「全部、今までどおりじゃないか」
「ええ。ですから、“今までどおり”が、僕の条件です」
アル様は一瞬目を丸くして、それから、いかにも満足そうに頷いた。
「成立だな。今度こそ」
「そもそも、どうして式典より前から図書室にいらしたのです」
「使節団より先に入って、素の学院を見たかった。王子が来ると分かっていれば、皆、俺の前では台本どおりにしか動かないからな」
台本、という言葉に、内心で少しだけ肩が跳ねた。
アル様は写本を開き、向かいの椅子を引いた。
「身分を黙っていたのは悪かった。だが、王子へ頷くだけの相手なら、ほかにいくらでもいる」
アル様の目が、まっすぐわたしを見る。
「また、ここへ座ってくれるか?」
命令ではなかった。
命令だったら、たぶん、こんなに困らなかった。
この人と、また答えの分からない一行を読みたい。
そう気づけば、もう迷う理由はなかった。
わたしは「はい」と答える代わりに、空けられた席へ腰を下ろす。
「では、アル様。昨日の注記ですが、一か所、根拠が弱いです」
「座った途端にそれか」
「今までどおりでよいのでしょう?」
アル様は一瞬黙り、それから声を立てて笑った。
◆
議論が一段落したころ、アル様が急に深刻な顔になった。
「リュシエル。言いにくいことだが」
「はい」
「主と侍従の恋は、幸せになれないぞ」
「はい?」
思わず、いつもの声より高い声が出た。
「セシル嬢と、将来の約束をしているんだろう」
どこから訂正すればいいのだろう。
セシル様は恋人ではなく、わたしは男でもなく、そもそも望んで侍従をしているわけでもない。
訂正箇所が多すぎて、欄外に収まらない。
「していません。絶対に」
「だが、あの親密さは」
「お嬢様が望む主従の演出です。恋ではありません」
「……そうか」
アル様の肩から、目に見えて力が抜けた。
「なぜ、そんなに安心しているんです?」
「友人の将来を案じていただけだ」
「僕たち、いつから友人に?」
「違ったのか」
今度は、アル様が本気で困った顔をした。
「……いいえ。友人で、構いません」
「そうか」
嬉しそうに頁をめくる横顔を、わたしは一拍だけ見つめた。
その日の夜。
セシル様は、金の縁取りがある招待状をわたしへ差し出した。
「殿下は、あなたをずいぶんお気に召しているようね」
微笑んでいるのに、声は冷たい。
「ですから、あなたが連れてきなさい。今度は、殿下とわたくしの恋物語を始めるの」
わたしの新しい配役は、恋の仲介人らしい。
(その配役、ものすごく向いていないと思うのだけれど)
招待状を胸元にしまい、一礼して部屋を下がる。
廊下の窓の外は、もうすっかり暗かった。
(お断りします、とは言えない。……でも)
台本どおりに演じることと、台本の結末どおりになることは、別の話だ。
仲介人がどれほど口を尽くしたところで、あの方の心までは動かせない。なにせあの方は、好意で作られた笑顔が、何よりお嫌いなのだ。
それを知っているのは、この学術院で、たぶんわたしだけ。
(わたしは演じるわ。命じられたとおり、完璧に。……そして台本は、勝手に破綻する)
我ながら、性格が悪くなってきたと思う。
七年も他人の筋書きを読まされていれば、行間の読み方くらい、嫌でも覚えるのだ。
――ただし。
破れた台本のあとの、白い頁。
そこに誰が何を書き足すのかだけは、七年分の行間読みをもってしても、さっぱり読めなかった。




