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お嬢様の命令で男装侍従になったら、隣国の王子殿下に溺愛されています  作者: 岸根しき


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第3話 訳せない一行



 開館直後、図書室奥の司書作業室で、オーレン先生が綴じの緩んだ本を抱えて待っていた。


「おはよう、カエラ」


「先生」


 わたしは慌てて、閉じた扉を振り返った。


「いまのわたしは、リュシエルです。いつか人前で間違えますよ」


「そのときは、君の得意な演技で切り抜けなさい」


「丸投げでは?」


「信頼と言いなさい」


 オーレン先生は、古語研究の元教授で、いまはこの図書室の主だ。


 四年前、セシル様の使いで借りた詩集の誤訳を、わたしは我慢できずに鉛筆で直してしまった。


 本への落書きとして叱られるはずが、先生は罰の代わりに、傷んだ写本の整理をわたしへ任せた。


 ――仕事なら、対価と記録が要る。


 そう言って、少額でも必ず報酬を払い、受領簿へわたしの名を残してくれた人だ。


 古語の読み方も、帳面は本当のことだけを書く場所だということも、この人に教わった。


 この学術院で、わたしの本名と事情を知る、ただ一人の人でもある。


 先生が、先日仕上げた分の銀貨と受領簿を差し出す。


 そこには四年分の日付と、カエラ・リュシエという署名が並んでいた。


 男装しても、名前を変えられても、わたしが積み上げた仕事まで消えたわけではない。


「船賃は貯まったのかね」


「はい、船賃は足りました。あとは試験料と、向こうでの当面の下宿代です」


「相変わらず、夢だけは堅実だな」


「夢を見たまま野宿はしたくありませんので」


 銀貨を内ポケットの出発帳へ記す。


 数字が一つ増えると、ヴェルディアまでの海が、ほんの少し狭くなった気がした。


「ところで、今日は妙に早いな」


「男物の靴が歩きやすいんです」


「ほう」


「それだけです」


 先生が何か言いたげに眉を上げたので、わたしは返事を聞く前に作業室を出た。


「リュシエル」


 昨日と同じ窓際から、声が飛んできた。


 アル様が、机いっぱいの本と航路図の向こうで手を上げている。


「遅いぞ」


「来られたらでいい、と言ったのはあなたでしょう」


「来たのだから、遅いくらい言ってもいいだろう」


「ずいぶんな理屈ですね」


 文句を言いながら、足は勝手に彼の席へ向かっていた。







「古い港湾規定と、同時代の航路図。それから検疫所の記録だ」


「……これを、どこから?」


「使節館の書庫」


「留学生は普通、使節館の書庫へ自由に入れないと思います」


「俺は入れる留学生なんだ」


 怪しい。


 たいへん怪しい。


 けれど目の前には、どうしても読みたかった資料が積まれている。


(疑うのは、読み終わってからでも遅くないわね)


 好奇心は、ときどき警戒心より足が速い。


 わたしが古い用例を並べ、アル様がヴェルディアの航海制度を照らす。


 掠れた文字を航路図と見比べ、港湾規定の古い綴りを当てはめていく。


 そして昼の鐘が鳴る直前、二週間もわたしを止めていた一文が、ようやくつながった。


「『満ち潮を得て、検疫の錨地を経ずに帰港した』……掠れていたのは、検疫所を示す古い略語です」


「ああ。この時代、疫病の疑いがない船は、沖の錨地を通らず入港できた」


「では、『潮に乗って帰る者』は、もともと満ち潮に乗って帰港する船乗りを指していた。それが時代とともに、亡くなった船乗りへの弔いへ変わった……」


「用例も、前後の記録も通るな」


 アル様はしばらく写本を見つめ、それから潔く両手を上げた。


「俺の負けだ」


「……負け?」


「最初に弔いだと言い切った。原義はお前が正しかった」


 あまりにも簡単に認められ、次の言葉が出てこない。


 この七年、誰かの間違いは、たいてい最後にはわたしの間違いになった。


 けれどアル様は、負けたと言いながら、なぜか嬉しそうに笑っている。


「どうした?」


「いえ。負けを認めても、人は倒れないのだなと思いまして」


「俺をなんだと思っている」


「使節館へ自由に入れる、たいへん怪しい留学生です」


 アル様が呆れた顔で笑い、仮訳の欄外へ何かを書き入れる。


 ――本行の訳出は、リュシエルの用例調査による。


「待ってください。僕の名前は要りません」


「なぜ?」


「僕は、ただの侍従です」


「侍従だと、調べた事実までなくなるのか?」


「それは……」


「調べた者の名を残すのは当然だ。人の仕事を黙って自分のものにする奴は、ヴェルディアでは船底の錆より嫌われる」


 偽名だ。


 それでも、わたしが調べ、わたしが見つけた一行だった。


「……ありがとうございます。でも、あなたの資料がなければ、ここまでは読めませんでした」


「だから二人で解いたんだろう」


 二人で。


 その言葉が、胸の中に銀貨を一枚落としたような、確かな音を立てた。


 正午前、黒い上着を着た男性がアル様を迎えに来た。


「お迎えにあがりました」


「もうそんな時間か。レナルド、こいつがリュシエルだ。例の写本で、俺を負かした相手」


「レナルドと申します」


 わたしが一礼すると、レナルドの視線が、胸元の新しい入構証で一拍止まった。


「今学期から、お仕えを?」


「はい。お側に上がったのは、今学期からです」


「左様でございますか」


 それ以上、何も聞かれない。


 けれどアル様と違い、この人は、気になったことを忘れてはくれなさそうだった。







 それから三日、アル様は毎日同じ席へ来た。


 わたしが来られない日は責めず、来られた日は当たり前のように向かいの椅子を空けていた。


 四日目の朝。


 歓迎式典の予定表を確認していたわたしは、見慣れた文字に目を止めた。


 ――ヴェルディア王国第二王子、アルヴィス・ロア・ヴェルディア殿下。


 アル様。


 アルヴィス。


(まさか)


 講堂へ入り、壇上を見上げる。


 夜色の髪。金色の瞳。


 昨日まで写本を挟んで言い合っていた青年が、ヴェルディアの紋章を背に、一分の隙もない礼をしていた。


 満場の拍手の中、その視線が、人垣のなかのわたしを見つけた。


 アルヴィス殿下は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 隣で、セシル様の扇が、ぴたりと止まる。


(せめて先に教えてほしかったわ。王子殿下用の台本は、一頁も用意していなかったのだから)





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