第2話 図書室のアル様
セシル様の授業が始まると、わたしは一般図書室へ向かった。
これが、男装して見つけた最大の利点だ。
女の侍女は、主人の付き添いでしか書架に近づけない。けれど男性の従者は、主人の授業中、付き添いなしで図書室へ入れる。
男装そのものは、わたしが選んだものではない。
それでも、図書室で何を読むかまで、セシル様に決められるつもりはなかった。
午後の図書室には、乾いた紙と、少しだけ埃の匂いがした。
奥の書架から古ヴェルディア語の航海記録を抜き、いつもの窓際へ座る。
海洋国家ヴェルディア。
十九歳になったら、一人で渡ると決めている国だ。
男物の上着の内ポケットには、掌ほどの手帳を隠している。
題して、出発帳。
貯めた船賃、必要な試験料、向こうで読みたい本。自由になったらしたいことを、思いつくたびに書き足している。
嘘だらけの毎日で、ここだけがわたしの本当の気持ちを吐ける場所。
今日は、古い写本の一行を写した。
直訳すれば、『潮に乗って帰る者』。
前後とどうにも意味がつながらず、二週間もわたしを足止めしている一文だ。
(さて。今日こそ降参させてみせましょうか)
写本を相手に、気持ちだけは腕まくりした、そのときだった。
「――それは弔いの言葉だ」
背後から声がした。
振り返ると、書架に肩を預けた長身の青年がいた。
夜のような黒髪に、金色の瞳。手には、ヴェルディア語の原書を抱えている。
「海で死んだ船乗りを指す。だから、その行は『帰らぬ者』と訳す」
いきなり現れて、二週間考えたわたしの訳を、たった二言で片づけようとしている。
なるほど。
たいへん興味深い意見だ。しかし――
「いいえ」
わたしは写本を持ち上げた。
「それでは、次の行と合いません」
◆
見知らぬ男性へ、真正面から反論する。
侍従リュシエルとしては、おそらく不正解だ。
けれど二週間も考えた一行を、根拠も聞かずに引っ込めるのは、わたしとしてはもっと不正解だった。
青年は怒るどころか、楽しそうに片方の眉を上げた。
「次の行?」
「積み荷の目録です。香辛料が三樽、塩漬け肉が二樽。追悼文の直後に、樽の勘定はしないでしょう」
「故人が運んでいた積み荷かもしれない」
「それなら三十頁前の用例はどうなります? そちらは明らかに入港の記録です」
頁を繰り、該当箇所を示す。
青年はわたしの隣から写本を覗き込んだ。
近い。
「……本当だな」
「ですから、弔いへ意味が変化する前の、さらに古い用法があるのではないかと思うんです。ただ、肝心の一語が掠れていて――」
「待て。その頁も見せてくれ」
「ここです。それから、同じ筆記者の別の航海記録では――」
気づけば、わたしは椅子を勧めることも忘れ、立ったまま早口で説明していた。
声も、いつもより高い。
(しまった。いまのわたしは“リュシエル”だ)
慌てて口を閉じる。
「……失礼しました。僕は、つい」
「なぜ謝る?」
青年は当然のように向かいの椅子を引き、写本を自分のほうへ向けた。
「面白くなってきたところだ。続けてくれ」
こちらを見下ろす目が、子どものように輝いている。
「俺は、弔いの意味しか知らずに育った。お前の説が正しければ、ヴェルディアの古語学者が何人か椅子から落ちる」
「では、先に床へクッションを敷いておいてください」
一拍置いて、青年が吹き出した。
しまったと思ったけれど、もう遅い。
わたしも、少しだけ笑ってしまった。
それから閉館の鐘まで、わたしたちは一冊の写本を挟んで言い合った。
彼は自国の言い回しを知っている。わたしは古い用例を拾っている。
どちらも決め手に欠け、結論は出ない。
それなのに、妙に楽しかった。
正しい答えがわからないとき、誰かの機嫌を正解にしなくていい。
そんな話し方をしたのは、いったい何年ぶりだろう。
「そういえば、名乗っていなかったな」
青年は写本を閉じた。
「アルだ。ヴェルディアからの留学生だ」
「……では、アル様と」
「様は要らない」
「主人以外を呼び捨てにする癖がつくと、いつか人前で困りますので」
「……なら、好きに呼べ。――で、お前は?」
「リュシエルです」
「家名は?」
「ありません。孤児ですので」
用意された答えは、するりと口から出た。
ところがアル様は、わたしの顔を数拍見つめた。
「その顔は、何か隠しているな」
――ぎくり、と心臓が鳴った。
無意識に、視線が扉のほうへ逃げていく。自分でも呆れるほど、分かりやすい動きだった。
そんなわたしへ、アル様はあっさり続けた。
「まあ、いい。話したくないなら、聞かない」
「……それで、よろしいのですか」
「よくないと言えば、話すのか?」
「話しません」
「なら、聞くだけ無駄だ」
秘密を見つけた人は、それを暴こうとするものだと思っていた。
けれどアル様は、閉じた写本を指先で軽く叩いただけだった。
「秘密より、こっちの答えのほうが気になる」
その時、遠くで、使用人を呼ぶ鐘が二度鳴った。
セシル様の合図だ。
「すみません。主人が呼んでおりますので」
「明日も来るのか?」
「主人の予定次第です」
「なら、来られたらでいい。その代わり、来たら続きを聞かせてくれ」
来い、ではなかった。
来られなかった日のわたしを、責めずに済む言い方だった。
◆
その夜、屋根裏の自室で、わたしは出発帳を開いた。
読みたい本の欄に、『ヴェルディア古語用例集』と書き足す。
その下へ、『古い港湾規定を探す』と書き足す。
(明日、アル様に聞いてみようかしら)
考えてから、首を横に振る。
明日行けるとは限らない。期待して、行けなかったら悔しい。
だから、期待はしない。
ただ翌朝、図書室へ向かうわたしの足が、昨日より少し速かったことについては――男物の靴が歩きやすいせいにしておいた。
――そういえば、昨日。
図書室を出る間際に、司書たちの立ち話が耳に入った。
「近々、ヴェルディアから使節団がお見えになるらしい」
「まあ。では、あちらの高貴な方々も?」
ヴェルディアの、高貴な方。
(まさか、ね)
あの生意気な留学生と、遠い国の高貴な方。
どう並べてみても、同じ頁には収まらない言葉だった。
……ちなみにこの見立ては、数日後、見事に外れる。
第2話もお読みいただき、ありがとうございます!
次回アル様の正体が…?




