第1話 誰もが羨む、偽物の主従
「ええ、リュシエルというの。行き倒れていたこの子を、わたくしが引き取ったのよ」
秋学期初日の王立学術院。
貴族の子女が集う、この国でいちばん大きな学び舎の中庭で、セシル・フィオラ・ド・ランブレー侯爵令嬢は、天使のような微笑みを浮かべていた。
取り囲むのは、噂話に目を輝かせる令嬢たち。
その半歩後ろで、わたしは完璧な侍従らしく一礼する。
「今では、わたくしの自慢の侍従なの」
セシル様の指先が、慈しむようにわたしの頬へ触れた。
ここで、控えめに微笑む。
早すぎても、遅すぎてもいけない。主人への感謝が伝わりつつ、見つめる令嬢が想像を膨らませられる程度に、慎ましく。
(ここで半拍。口角を上げる。――うん、今日のリュシエルも台本どおり)
「まあ、絵物語のようだわ」
「セシル様は、なんてお優しいのかしら」
絵物語のよう。
正しい評価だと思う。事実がひとつも書かれていない、という意味で。
訂正したいことは三つある。
わたしは行き倒れていない。
拾われてもいない。
ついでに言えば――男でもない。
わたしの本当の名前は、カエラ・リュシエ。
没落寸前の伯爵家に生まれ、十一歳からセシル様の侍女として働いている、十八歳の女だ。
二週間前までは、腰まである焦茶の髪もあった。
けれど今は耳の下で短く切り揃えられ、男物の上着と胴着に体を押し込めている。
誰もが羨む、美しい侍従リュシエル。
これが、セシル様が今学期から始めた新しい物語だった。
◆
二週間前の夜のことは、よく覚えている。
湯浴みを終えたセシル様の髪を乾かし終えたころ、この方は鏡越しにわたしを見て、こう言った。
「カエラ。あなた、来学期から男になりなさい」
「……はい?」
手にしていた櫛を落とさなかった自分を、褒めてやりたい。
「恐れながら、お嬢様。わたしは女でございます」
「知っているわ。だから面白いのではないの」
セシル様は、寝台の上の一冊を掲げてみせた。
いま社交界で大流行している絵物語。身寄りのない美しい少年を拾って育てた令嬢が、やがて成長した彼に一途に慕われる――という筋書きだと聞いている。
「皆、この物語に夢中なの。でしたら、わたくしが本物を見せてあげる」
「本物、ですか」
「ええ。行き倒れていた美しい孤児を救い、傍らに置く慈悲深い令嬢。学術院じゅうの視線を集める、わたくしの新しい物語よ」
「では、新しく従僕をお雇いになっては――」
「駄目よ。どこの誰とも知れない男を、わたくしの傍へ置けるはずがないでしょう」
つまり、そういうことだった。
筋書きに都合のいい「美しい侍従」の配役には、顔立ちが整っていて、口が堅くて、決して逆らえない人間がいい。
七年仕えた侍女は、あいにく条件のすべてを満たしていた。
「侍女はね、物語の背景にしかなれないの。でも、美しい侍従は――挿絵になるのよ」
わたしは女で、これは偽りで、露見すれば罪になる。
でも、飲み込むしか道はなかった。
傾いた実家への援助と、学術院への入構書類を、侯爵家に握られている。
鋏を持った侍女頭が呼ばれ、わたしは鏡の前へ座らされた。
腰まで伸ばした焦茶の髪へ、セシル様自らが、最初の鋏を入れる。
「大丈夫よ、カエラ。あなた、きっと似合うわ」
しゃり、と軽い音がして、七年分の髪がひと房、床へ落ちた。
セシル様は満足そうに鋏を置き、あとは侍女頭の手へ押しつけた。
ひと房。また、ひと房。
磨かれた床の上に、焦茶色の三日月が、いくつも積もっていく。
わたしは、泣かなかった。
泣くのは今夜、誰も見ていない屋根裏で。それも、今夜かぎり。
鋏の音を数えながら、わたしはそう決めた。
鏡の中のセシル様は、最後まで天使のように微笑んでいた。
◆
授業前の鐘が鳴り、令嬢たちが教室へ入っていく。
使用人控室で二人きりになった途端、頬にあったセシル様の手が、わたしの手首へ滑り落ちた。
「さっき、笑うのが遅かったわ」
手首へ添えられた白い指に、力はほとんどない。
その代わり、綺麗に磨かれた爪の先だけが、袖口の内側の肌へ、きゅうと食い込んだ。
「……申し訳ございません、お嬢様」
爪が離れる。
手首の内側に、三日月形の痕がふたつ残った。
袖で隠れる場所。人に見えないところを、この方は正確に選ぶ。
「皆が信じれば、それが本当になるの。あなたは、わたくしに救われた美しい孤児。余計なことは言わず、リュシエルを演じていればいいのよ」
空色の瞳が、笑みの形のまま細められる。
「もし偽物だと知られたら、男と偽って学術院へ入った罪は、誰が負うのかしらね?」
入構書類を用意したのは侯爵家だ。
それでも、罪を着せられるのはおそらくわたしだろう。
「承知しております」
おとなしく答えると、手首は解放された。
だから、今は従う。
ただし、ずっとではない。
十九歳の成人を迎えれば、奉公の契約は切れる。更新には、わたし自身の署名が必要だ。
もちろん、署名するつもりはない。
(成人の誕生日まで、残りはあと三百日と少し。数えられる終わりなら、終わりがないよりずっといい)
髪を切られた夜は、さすがに少し泣いた。
けれど翌朝、髪を結う時間が要らなくなったことに気づいた。洗うのも乾かすのも早い。男物の上着には、侍女服にはなかった内ポケットまでついている。
髪は、戻らない。
なら空いた両手とポケットには、好きなものだけを詰めてやろうと思う。
我ながら、燃費のいい性格だと思う。
顔を上げると、渡り廊下の先に、図書室の尖塔が見えた。
あの窓際の席が、この学術院でただ一つの、わたしの避難所だ。
(さて。偽物の侍従の一日を、始めましょうか)
――このときのわたしは、まだ知らなかった。
その避難所で、この嘘だらけの物語を根本からひっくり返してしまう人に、出会うことになるなんて。
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