第2夜:橋の上の邂逅
月見酒。
橋があった。
暗がりの中、その欄干に人影が一つ、腰を下ろしている。
女は急いでいた。
月だけが照らす夜道を、息を詰めながら早足で行く。
足音が自分のものだけなのを確かめるように、何度も背後を振り返る。
そこへ風が来た。
ざあ、と。
思わず顔をかばう。
髪が乱れ、慌てて顔を上げたとき——
橋の真ん中に、人がいた。
血が引いた。
口を手で押さえる。
雲が流れた。
満月の光が、人影を白く縁取る。
きらりと光る黒髪。
肩に緩く巻かれた、上質な布。
——嶽だ。
女は息を吐いた。
足の速さが、ゆっくりと緩んでいく。
橋の上、嶽は欄干に腰かけ、一人で酒を飲んでいた。
顔を上げ、月を見ている。
女がそっと近づく。
うつむいて、横目で盗み見るつもりだった。
目が合った。
「今日はいい月夜だね」
嶽は笑った。
「あんまりきれいだから、月見酒だよ。よかったら一杯どう」
女は小さく「はい」と言っていた。
気づいたときには、隣に座っていた。
懐から出てきた小さな盃を、不思議とそのまま受け取った。
嶽が月を見ながら話す。
女は相槌を打つ。
けれど声は、ほとんど耳に入らなかった。
横顔が近い。
長い睫毛が、瞬くたびにわずかに揺れる。
筋の通った鼻。
夜とも夕方ともつかない、青みがかった紫の瞳。
数杯。
それだけで、もう酔っていた。
手が滑った。
盃が落ちて、割れた。
慌てて拾おうとした瞬間、人差し指にちくりと走る。
「だめだよ、触っちゃ」
嶽が屈んで、女の手首を持った。
「血が出てる」
落ち着いた声だった。
周りを見渡し、橋を渡りきったところの段差に女を座らせる。
正面にかがみ、
「手、見せて」
笑顔のまま、手を取る。
女の顔が赤くなる。
嶽は肩に巻いていたストールを、迷いなく細長く引き裂いた。
慣れた手つきで、指に巻いていく。
近い。
顔が、近い。
噂でしか知らなかった顔が、今は見下ろせる距離にある。
長い下睫毛。
染みひとつない白い肌。
自分の指を包む手は大きくて、温かい。
その唇が動いている。
声が、遠い。
「——大丈夫?」
くすりと笑って、嶽が見上げた。
目が合った。
聞いていなかった。
「えっと、あ、あの——」
嶽が立ち上がった。
女の両隣に手をついて、覆いかぶさるように顔を寄せる。
耳に、息がかかった。
「……もしかして、なにか違うこと、考えてた?」
嬉しそうでも、からかうでもない。
ただ静かな、優しい声だった。
女は止まった。
嶽の顔が正面に来た。
人影はない。
橋も遠い。
月だけが、白く、照っている。
そっと頬に、唇が触れた。
首筋へ、続く。
女の手に、力が入った。
そのとき。
「ああ、忘れてた」
嶽が呟いた。
優しい声だった。
それだけだった。
立ち上がり、動けない女ににっこりと微笑む。
髪をかき上げるように、少し上を向いた。
丸く白い額が、月の光に晒される。
眉山の、数センチ上。
何かが、動いた。
額の奥で。
ほんの一瞬。
けれど確かに——
女はその場で、固まったままだった。




