040 書く理由
朝食を済ませた彼女たちが海へ行くと、俺は家の中の立ち入り許可をもらった部屋だけ掃除してから、コーヒーを片手にテラスにつく。
眼下に広がるビーチに、四人の姿が見える。
他の利用者は家族連ればかりで、成金的な趣味の人間がいないのが気になった。
どこか、封建的な旧社会を感じる。
改めて、俺のような庶民の肩身が狭い世界の外面を観察すると、俺は徐に原稿を読んだ。
「早っ」
牧野の奴、もう60キロバイト近くも書いているじゃないか。
一昨日にプロットが完成したばかりだと言うのに。やはり、メンタルでの上振れがとんでもない。
このまま気分が上向きならば、書き上がるのもそう遠い話じゃないだろう。
「……いいね」
上質だ。
牧野が、読者の心を掴む作品を書く才能の持ち主であることを再確認出来る。そんな出来だった。
物語の大枠として主人公自身の恋愛を置き、それを繋ぐために幾つもの依頼をこなしていく。
小さな達成感を各所に用意し飽きさせない工夫は、なるほど、人を楽しませるために書いている牧野らしい出来栄えだと言えるだろう。
「面白いでしょ」
「あぁ」
……振り返ると、水着姿の牧野アメリがそこにいた。
ビーチを見る。
どうやら一人だけ離脱して来たらしい。三人は、楽しそうに砂浜に城を建設していた。
相変わらず、後ろから忍び寄るのが得意な奴だ。
「こっちはどう? かわいい?」
言いながら、くるりとターンして笑う牧野。
二日前に見たのとは違う別の水着。言うまでもなく、似合っている。
「珍しいな、お前が見た目について意見を求めるなんて」
「たまにはいいじゃん、私だってかわいいって言って欲しいんだよ」
「慣れてるだろ」
「花からは一回も聞いてないもーん」
……俺は、ほとんど暴力みたいな牧野の姿に、素直な感想を述べた。
「綺麗だ」
「……うぇへへ。照れますなっ!」
彼女は、ニヤニヤしながら俺の腕に抱きつく。
ダイレクトアタックは反則だろうに。リビドーの成熟について、俺は自信がないのだ。
「話を戻そう。
面白いことは確かだが、小説の方はお前のビジュアルほど完璧じゃない」
「……あのー、変な言い方しないでくれる?
どう反応すればいいのか分かんないじゃん」
「賞レースを勝ち切れる可能性が低い、ということだ」
確かに、読者を満足させられるだろう。
興味深くて、続きが気になる。これ以上ないほどに、面白い小説として好かれる作品には違いない。
しかし、賞を受賞した作品と比べた時に、どうしても足りない要素がある。
「それは、『制圧力』だ」
一撃で納得させ、その場の誰をも黙らせる圧倒的な力。
そういう力を、作者同士の殴り合いに勝利した小説は持っている。
「現状、この作品は面白い短編を寄せ集めたオムニバスでしかない。それじゃ、審査員を唸らせることは出来ないだろう。
ここまで読んだ俺の感想は、そんなところだ」
「せ、制圧力だなんて。花は難しいことばっか言うんだから。
……そんな凄いこと、私に出来るのかな」
「出来る――というより、お前は既にやっただろ」
「……え?」
「『谷底に咲く』だよ」
あの作品は、途中で読者に絶望を叩き付けた上で最後まで読ませる力があった。
普通なら、結末が分かった時点で読むのを止める読者も多く出てくるにも関わらず、だ。
「それでも、『谷底に咲く』は総合ランキングのトップに立った。
知っていることを最後まで読ませる力を制圧力と呼ばず、他になんと呼ぶつもりだ」
牧野は、俺の腕を抱く力を、更に強く、強くした。
「やれるんだよ、お前は」
「でも、あれは短編だったから――」
「言ってくれ。
俺が何をすれば、お前はあの熱を再び手に出来る?」
「あ、あの、あの時は、えっと……っ」
「信じろ、牧野」
恋愛嫌いの牧野にとって、それはあまりにも残酷な提案だったと思う。
俺たちの契約は、決して純愛ではない。
そんなものを執筆のために受け入れ、あまつさえ愛を共有した彼女の本音など、彼女自身にも分かるはずがない。
けれど、必要だ。
あの熱が、必要なのだ。
「俺は、お前のためなら何でもする」
……牧野は、俺に青い目を向けると、吸い寄せられるようにキスをした。
「書くよ」
触れた素肌から、牧野の体温が伝わってくる。
潤んだ目を向けて、もう一度、牧野は俺と唇を重ねる。
「私、書くから――」
長いキスの後、牧野は頬を赤く染めて言った。
「私のこと、好きになって」
……。
「何を言ってる、もう好きだ」
「違う。花が好きなのは、私の書く小説。そうでしょ?」
果たして、気のせいだろうか。
牧野の目から、光が失われているかのように見えるのは。
「志田さんの時、死ぬほど嫉妬した。
花の初恋を貰って、ファーストキスまで奪って……それを目の前で見せられて、私、本当におかしくなりそうだった」
「……そうか」
「何が欲しいとかじゃなくて、一緒に居たいだけ。
私、好きになるってそういうことだって信じてた。
だから、恋人じゃなくたっていい。花が知ってるだけでいいって、そう思ってたの」
「……あぁ」
「何も知らないくせに、本気で男の子を好きになったこともないくせに……幸子の言う通りだった。
私、嘘ばっかり書いてたんだって、今、心の底から理解したよ」
……。
「もう、それだけじゃ我慢出来ない。
私は、花に、もっと私を見て欲しい」
額を合わせて、吐息がぶつかる距離で、呟くように、甘えるように、俺の肩を握って告げる牧野。
「分かった」
そんな彼女を、俺はなんの迷いもなく肯定した。
何でもする。
その言葉を、決して軽い気持ちで使ったんじゃない。
彼女に、信じさせるためだった。
「……大好き」
俺は、気付いていた。
「本当に、この世界で一番好きなの」
薬丸と桜宮にあって、牧野にはないもの。
「どれだけ伝えても、伝えきれない」
彼女には、敵がいない。
「だから……ね? お願い」
勝たなければならない相手が、存在していない。
「私にも、書く理由をちょうだい……っ」
戦うことほど、人が前に進む術は他にない。
確かに、劣等感を抱くだろう。絶望を覚えるだろう。
足はすくみ、手は震え、逃げ出したくなる気持ちを抑え込む自分が、情けなくて嫌になるだろう。
けれど、それは同時にエネルギーだ。
自分の殻を破るための、唯一無二の理由だ。
すべてを持つ牧野には、それだけがない。
彼女の抱える孤独とは、一体、どれほどのものだろうか。
……。
しばらく俺を見た後で、強く抱き着き黙る牧野。
やがて、遊び疲れて帰ってきた三人の声が家の中に響く。
どうやら、昼飯の時間らしい。
牧野の背中を軽く叩くと、彼女は名残惜しそうに俺から離れて、最後にもう一度だけ唇を奪った。
「もし、私が新人賞をとったらさ――」
「ん?」
「私のこと、好きになってくれるよね」
俺の好意の本当の所在は、この際重要ではない。
俺は、志田の件で牧野の観察眼を根拠として使った。
その事実を受け止めた彼女が、俺に好かれていないと直感している。
これは、俺が考えている以上に深刻な問題だろう。
牧野アメリは、恋愛について、都合のいい妄想をすることが出来ない。
……だから、俺は何も答えられなかった。
言葉を嘘だと見破った時、牧野が、どんなふうに壊れてしまうのかを想像するだけで怖かったからだ。
「なぁ、牧野」
「……なに?」
「水着、似合ってるぞ」
彼女が面白い小説を書くほど、俺は彼女自身を見なくなる。
『賞レースで勝つ』という目標は、そんな致命的な矛盾を孕んでいることに、牧野は気付いていない。
彼女が恐れていた恋愛の醜さが、そのまま彼女を襲っている。
そのドン底に叩き落した張本人である俺に出来ることは、それでも、彼女を勝利へ導くことだけなのだろう。
「飯、食おうぜ。
今日は俺が作るよ」
俺は、牧野の体を離して静かに立ち上がる。
執筆を『楽しさ』だけで続けることの限界。
彼女の中で、何かが枯れ始めた。
そんなことを、俺は微かに予感していた。




