031 楽園追放
店の外に出ても桜宮は俺のシャツを掴んだままだったが、路地裏に入ったところで、ようやく彼女は俺から離れた。
「助けてなんて、頼んでません」
「分かってる、俺が勝手にやったことだ」
「……女、誑し」
泣くほど悔しいなら、下手に強がらなきゃいいものを。
「……どうして、何も訊かないんですか?」
「優しさ半分、無関心半分」
「……朔太郎って、本当に最低な男ですね」
「そこまで言うなら、紅茶代を請求させてもらおうか」
「嫌です」
生意気な後輩にハンカチを差し出すと、俺は隣に立って壁に寄りかかった。
やがて、彼女はしゃがみ込んで静かに口を開く。すっかり日が落ちて、雑踏も落ち着いた頃だった。
「……わたし、小さな頃は神童と呼ばれていたんです」
それは、落ち着いた雰囲気の、どこにでもいる女子高生の声だった。
「わたしには、兄と姉が居ますが、年が離れているせいでしょう。娘みたいに可愛がってくれました。
何をしても『類は凄い』って。口癖みたいに褒めてくれるんです。
しまいには、階段を一人で降りただけで……うふふっ、おかしいでしょう?」
彼女は、力なく下を向いて――。
「でも、ある日、気付いたんです。
わたし、お父様とお母様に褒められたことがないって」
自嘲気味に、笑った。
「どうやら、二人の中で、わたしは居ない子扱いだったみたいです。
なんでだろうって、ずっと悩んでました。
でも、知るのが怖かったから、お兄様とお姉様にも訊けなくて――気が付けば、中学生になってました」
まるで、俺が辿った道を聞いているかのようだった。
「わたしは、愕然としました。
だって、そこには、わたしより頭のいい人がいて、わたしより運動出来る人がいて、わたしより上手に表現する人がいたんですもの」
目を閉じ、彼女の見た景色を想像する。
「わたしは、聖蘭学園の初等部から中等部に上がったんです。
つまり、周りにいた人は、ずっと変わっていなかった。
ならば、なぜ急に、わたしは神童じゃなくなってしまったのでしょう。
考えた時、とうとう分かってしまったんです」
そして――。
「わたしは、天才じゃなかったんだって」
桜宮は、ビルの隙間から見える狭い空を仰いだ。
「わたしには、両親に愛される資格が無かった。
だから、お兄様とお姉様は、わたしを慰めてくれていたんです。
妹は、自分たちが親から受けた愛を貰えないと……知って……いたから……」
思わず、右の手のひらを桜宮の頭の上に置いていた。
「……ねぇ、朔太郎。
どうして、わたしは天才じゃないんですか?」
「もういい」
「どうして、わたしは安心院さんになれないんですか?」
「もういいって」
「どうして、牧野先輩にも、薬丸先輩にもなれないんですか?
どうして……どうして……っ」
何を言うべきか、本当は分かってたよ。
まだ気付いてないだけで、お前だけの才能がきっとある。
今までの全部、本当のお前を知らない奴らのデタラメだ。
そう言えば、桜宮は救われる――と。
でも。
「知らねぇ。俺も、お前と同じ側だからな」
俺には、そんな残酷なこと、言えなかった。
「……ふざけないで」
桜宮が、頭の手を振り払って立ち上がり、俺を壁に押し付ける。
「朔太郎が、わたしと同じ!?
一体、あなたとわたしのどこが同じなんですか!!」
胸倉を掴む指が、首元にも食い込む。
「牧野先輩を一番にした!! 薬丸先輩をプロにした!!
こんなこと、他の誰に出来るんですか!! あなたが天才じゃなかったら、他の誰が天才だって言うんですか!!」
……。
「朔太郎には、たまたま執筆の才能がなかっただけでしょう!?
その他の能力は、明らかに突出しているでしょう!?
なのに、わたしと同じですって!? 上から目線の同情が、どれだけ凡人を傷付けるか分かってるんですか!?」
「俺は、兄貴だから」
「……え?」
思い出すのは、小学生だった俺が一冊の本を手に、あの小さな公園で一人過ごした日々。
どれだけかまって欲しくたって、両親は妹の世話に付きっきりで。何をやるにしたって、妹が優先で。
俺の声なんて届きゃしねぇから、いつの間にか、俺は愛されてねぇんだろうなって思うようになった。
寂しかった。
苦しかった。
暗くなった。
ただ、絶望はしなかった。
何かあって凹むたびに、俺は小説の世界へ逃げたから。
「けれど、俺とお前の違いはそこだけなんだよ。桜宮」
凡人が天才と並び立つための唯一の方法は、誰よりも時間を費やすことだけだ。
そして、俺は兄貴だから、偶然そうやって生きてしまっただけ。
「書いたんじゃない、読むことに膨大な時間を費やした究極の凡人。それが俺さ」
胸倉から、ゆっくりと手が離れる。
「だから、お前も積み上げろ。桜宮。
書くことだけに時間を費やした、究極の凡人になるために」
そして、桜宮は笑った。
「……たった、一週間」
「ん?」
「やっぱり、朔太郎は女誑しですわ」
倒れるように俺を壁に押し付ける彼女の肩を受け止めると、ゆっくり離してシャツの襟を直してやる。
その表情には、先ほどまでとはまるで違う、本物のお嬢様が宿っていた。
家に帰り、しばらく経った頃。
桜宮から、一通のラインが届いた。
内容は、とある物語の冒頭。
それは、貴族家から追放された少女の物語だった。
敗北を知り、孤独に晒され、ドン底に叩き落とされた彼女が、自分の美学を貫くことを決めたピカレスク小説。
俺は、「期待してる」とメッセージを送り、いつか訪れる対決の日を想って眠った。
……。
翌日。
「あたし、あなたのことが好きです。
付き合ってください」
俺は、昼休みの廊下のど真ん中で、見知らぬ女子生徒から告白を受けていた。
「趣味が悪いな。
俺なら、俺は選ばないよ」
「……知ってる」
それだけ言って、女子生徒は後ろでゲラゲラと笑っているグループの輪に戻ると、道端の糞でも見るような目で俺を一瞥した。
一体、今のはなんだったのか。
そんなことは考えるまでもない。どう見たって、俺への告白が罰ゲームだったという話だろうからな。
では、なぜ俺に告白することが罰として成立するようになったのかだが――いや、これも考えるまでもないな。
文ジェネの件が、学内に知れ渡ったのだ。
「おい、退けよ!!」
後ろから猛スピードで走ってきた男子生徒に突き飛ばされ、俺は壁に激突し倒れた。
振り返って俺を見下ろす男子生徒は、ニヤニヤと嘲笑を浮かべて去っていく。
どうやら、頭を打ってしまったらしい。
ズキズキと痛む感覚を堪えながら立ち上がる。周囲には、いつまでも消えない人集り。
舌を出して笑う者、心配そうに様子を窺う者、何が起きているのか理解していない者。
反応は様々。俺は、物語のように一緒くたのリアクションばかりでないことを観察して、よろよろと保健室へ向かった。
「……大丈夫?」
矢代先生は、俺をデスクチェアに座らせると、頭の横をティッシュで拭いてから消毒してガーゼを押し当てた。
血が出てたのか。
「酷いことするわね」
「いえ、いいんです。
きっと、向こうもわざとじゃないでしょうから」
「……そう」
先生は、それ以上突っ込んでこなかった。
意外だ。
こういう時、大人ってのは犯人の正体を突き止めるものだと思ってたよ。
「いつもみたいに、卑猥なギャグを聞かせてくれないんですか?」
「えぇ、今日はお休みなの」
頭に包帯を巻き終わった先生が、俺の頬に手を当てて、目の中を覗き込む。
「昨日から……よね」
その姿があまりにも真剣だったから、嘘をついた自分が後ろめたくて、俺は思わず目を逸らす。
先生は、諦めるように小さなため息をついた。
「教室、戻れる?」
「はい。
中間考査も近いですから、サボるわけにもいきませんよ」
そう言って、俺は逃げるように保健室を出る。
階段を登る前に振り返ると、矢代先生は心配そうに俺を見ていた。




